月夜の誓い1
コンコンッとくっきりした叩扉の音が静寂に響いて、ぼんやり夢現を漂っていた意識を覚醒させた。
「……どうぞ」
どれほどの時間が経ったのか、闇に沈む室内だけでは判断つかなかったが、誰何するまでもなくあの叩扉の音はレリアだ。
「失礼します」
予想通り間髪入れない返事があって小柄な人影が入室した気配がした。そしてその次の瞬間には溜息が聞こえた。
「姫様、せめて明かりくらいつけたらどうですか」
言いながらこつこつと床を叩く足音が小気味よく響き、ランプに手をかざして呪文を唱え、火を灯す。
「月明かりでも十分な光量があるわ」
言い訳してみるが、彼女はさらに眉を寄せる。
「お食事も召し上がっていらっしゃらないでしょう。昨日も、その前の日も。式典の途中で倒れたらどうなさいます」
「私、一週間くらい食べなくても魔力だけで生きていけるのよ」
棘々しい言葉がちくちくと刺さり、さらなる言い訳をしてみる。が、これは逆効果だった。
「存じておりますが、実行されると大変に不快です」
丁寧だが、きっぱりしている。
彼女のこういう裏表のない言い方が好きだ。
リタの無邪気さも。
レナートの実直なところも――
「……姫様、王となるのが不安ですか?」
心を読まれたようで、身が竦んで答えることができなかった。
ことりとランプをテーブルに置いたレリアは、穏やかな微笑を浮かべてから窓際に寄り、月を見上げた。
「今夜は満月だったんですね。最近はなかなか空を見上げる余裕がありませんでしたが」
レナートよりも短いブロンドの髪が、きらきらと月明かりに輝いた。レリアは刃物を思わせる怜悧な美人だけれど、今は月明かりがそれを和らげてくれている。
「姫様、月には魔力があるんです。神や精霊達の力ではないから、あなたにも感じられない魔力が」
独り言のようにぽつりと、レリアは言った。
「精霊達でも月の神の力でもない魔力? サイオーンには特別な魔法でもあるの?」
レリアに言わせれば、ホルコスの文明は科学の発達という点においてサイオーンより百年ほど後進的であるらしい。
例えばサイオーンではガスや「電気」というもので明かりを付けるが、ホルコスのランプは油か魔法が普通だ。
だがそれは精霊達の力を借りる精霊魔法という特有の利器が発達し、科学が必要とされなかった結果である。自然とともに生きることを信条及び美徳としているホルコスの文化を、私は誇りにしていた。
けれどレリアは停滞に甘んじるべきではなく、魔法と科学技術の融合は今後の政策課題のひとつだと主張する。
確かに魔法は生まれつきの特性に大きく左右され、レナートのように特性がない人はどれだけ努力しようとも一切使うことができない。そういう人は不便を強いられているだろう。
だから、科学も取り入れるべきであるというレリアの主張ももっともだった。
かと言って、ホスコスは外交を閉じていて、表立ってその文化を取り入れることもできない。時々、レリアがこっそりとサイオーンに視察に出ていくのを目を瞑っていることしかできないのが、現状だった。
「月の魔力は人を狂わせたり、情緒を不安定にさせるんです」
月は磁石のような引力を持っていて人の体にある水も例外なく干渉するのだとか、流れるように難しい説明をさらさらと綴ったレリアの言葉が、不意に途切れた。
緊張した空気が一瞬満ちたが、レリアは笑顔で振り返り見た。
「満月は最も月の魔力が満ち溢れる夜です」
「……私は危険かしら?“ルナ”だから」
「誰しも不安になる重圧に重ねて、誰しも不安定になる満月だと言っているのです」
冗談混じりに肩をすくめると、すかさず鋭い声が刺さった。けれどすぐにその空気が和らぐ。
「だから、明日はきっと大丈夫ですよ」
猫のようなつり目が、厳しく結ばれている口元が、柔らかくほほえんでいた。
「あなたのその不安と優しさは良き指導者になれる証です」
心の底から、じんとしたものが波紋のように全身に染み渡っていくようだった。弓の弦のようにふるえる胸を両手で押さえると、レリアはそこに手を重ねてきた。
「――ずっと、そばにいてくれる?」
押さえきれずに、不安が口から飛び出していた。
(……私は、あなたたちにそばにいてもらえる資格なんか、ないのに)
胸の中に再び苦いものがこみ上げて唇を噛む。それでも、彼女の手に縋らずにいられなかった。彼女はそうやって穏やかに笑うと母によく似ていた。
あの時、命を賭してルナを止めたラケシスに。
ラケシスが止めてくれなければ、被害はもっと甚大なものになっていたかもしれない。
「もちろん。王になられたらなお一層の忠義を誓います」
レリアが当然といわんばかりに不敵笑った途端、
「姉様ずるぅい! そういうの、ヌケガケって言うんだ!」
再度ばんっと荒々しく扉が開かれたかと思うと、腰に手を当てたリタが仁王立ちで頬を膨らませている。
「叩扉、許可、開け閉ては静かに!!」
続けて駆けつけてきたレナートが一息に言い放って、リタの頭をむぎゅっと押さえ込んだ。