黄昏
太古の森が夕日に染まっていくのを、少女はテラスの優美な欄干に手を添えてただ静かに見つめていた。
夕焼け色からゆっくりと群青へと空が変わっていくと、少女の銀色の髪はそれを映して色を変えていく。薄闇に沈む森を眺める瞳もまた、深い不安に沈んでいた。
風が、藤色のリボンを編み込んだ三つ編みの髪を揺らし、袖口の広がった袖を揺らし、頬を撫でていった。
風の精霊達がざわざわと何かを囁いているのを感じて目を閉じ、耳を澄ました。
けれど下級の精霊達は下級の精霊達は言葉も姿も持たないので、空気がかすかに震えるようにのを肌に感じるだけだった。
正確に知りたければ言葉を持つ上級の精霊を呼び出せばいいのだが、積極的に寄ってきてくれない彼らを強制的に使役するのは気が引ける。
それに、不安げにしている私を案じているのだろうという検討はついている。
「……ごめんね」
両手を広げ、ぽつりと謝ってみるものの、精霊達は寄って来ない。
穏やかだがひんやりとした夜風が胸に染みた。
いつもならまわりには風も水も光も種族を問わず精霊達で溢れているが、時折こうして寄ってこなくなる。経験上、これは雷神の力が目覚めようとしている兆候だった。
どうにか気を強く持ち、ルナを押さえ込んでおかなければいけない――。
「姫様、風が冷えてきましたのでお部屋にお戻りください」
突然声をかけられ、びくりと大げさに身を震わせてしまった。誤魔化すようにそのまま急いで振り返ると、そこに控えめに佇んでいるのはレリアだった。
猫のように少し釣り目で勝ち気な印象は、男の子のように短く刈り上げた髪型のせいでいっそう強くなる。母譲りの輝くような金髪なのにもったいないと何度か言ってみたけれど、彼女は頑なで出会ってから十年も経つが一度も変えたことがない。服装にしても一応はスカートだけれども、その下には細身のズボンを穿いているし、黒のローブを羽織る魔道服に身を包んでしまうと少年だか少女だかわからない中性的な魅力を放っている。
レリアは申し訳なさそうに眉を寄せ、深くお辞儀をした。
「無許可の入室、ご容赦ください。いくら声をかけてもお返事をいただけなかったものですから、安否が不安になりましたので」
その深く下げられた頭頂を見つめているとようやく人心地がついて、そっと息を吐く。
「あなたはいつでも入ってきていいと言っているのに、律儀ね」
その命を無視して毎回必ず許可を申し出る律儀な侍女に、毎度の言葉をかける。黙礼で答えたレリアにガラス張りの扉を開けて部屋に入るよう促され、静かに目を伏せた。
もう一度名残を惜しむように闇に沈む森に視線を投げようとしたら、すかさずレリアが口を挟んだ。
「姫様、あなただけの御身ではありません」
諫める含みを持った言葉にひやりとしたが、次の瞬間レリアは穏やかに笑った。
「姫様が風邪でも召されたら、あなたのお世話を任されている私が叱られます」
笑みを添えて冗談めかされると、ほんのりと笑みがこぼれた。
自分が叱られるより周りの人間が叱られるほうが身に染みるのだということを、彼女はよくわかっている。
「ごめんなさい」
微苦笑を浮かべて謝罪を口にしながら部屋に入ると、レリアはテラスへ続く扉を閉めて鍵をかけた。ちょうどその時、廊下側の扉をノックする音がしたかと思うと、続けざまにばんっ!と荒々しく扉が開き――
「ルナ様ぁっ!」
「こらリタっ! お前はいつになったら最低限の礼儀を覚えるんだ!!」
朗らかな笑顔を満面に浮かべた幼い少女と、怒りと呆れが半々の複雑な表情の騎士然とした青年がもつれるように転がり込んできた。
「えぇ~? だってルナ様はいいって言ってくれるもん」
リタは子猫のように首根っこを掴まれてぷらんぷらんしながら、ぷぅっと頬を膨らませて青年を恨めしく見上げる。
「ダメだ。あと、ルナ様と呼ぶなと言ってるだろう!」
「だってルナ様の方がかわいくて似合ってるもん」
「似合ってない!」
青年、レナートは鋭く断じた。
{ルナ}は月の女神の名でもあるが、同時に精神障害という揶揄も込められている。
しかしそれをこの幼い妹に教えるわけにもいかず、妹もまた納得できないが故に使い続けるという悪循環なのだ。
「私はルナでも構わないけれど」
やんわりと口を挟むと、騎士はぱちくりと目を瞬かせてから視線を滑らせたかと思うと、次の瞬間には雷に打たれたように全身を震わせて「失礼しました!」と言うや否や、リタの首根っこを掴まえたまま廊下に飛び出していった。
突然の嵐にぽかんとしている私の後ろで、一拍置いてレリアが深い溜息をついた。
その溜息を聞いて我に返ると、腹の底から湧水のようにこぽこぽと笑いがこみ上げてえきて、それを必死にかみ殺した。
「どうぞ、入って」
「はぁーいっ」
待ちわびていた言葉に踊るように飛び出してきたのはリタだけだ。くすっともう一息笑ってから、喉に手を当ててこほんと咳払いをひとつして声を整える。
「レナート、入室を許可します」
凛とした声が響いたが、開け放たれた扉の脇からは迷う気配がするだけだった。
「兄様、逃げてどうするんです。どうせならきちんと謝罪すべきでしょう」
うぐ、とかすかに呻く声が聞こえ、さらに沈黙が流れた。
セイラはこみ上げ続ける笑いをなんとか飲み込みながらそっと廊下に出る。レナートは開け放たれた扉と水平な棒のように立ち尽くしていた。
「何か用があったのでしょう?」
耳まで赤い騎士の顔を下から覗き込むと、彼は再度雷撃に打たれたようにぴしっと背筋を伸ばして敬礼する。
「廊下で立ち話のほうがいいかしら?」
「…………いえ」
レナートは苦々しく呻くとひとつ深呼吸をして、苦笑いで手を差し出した。
とくん、と胸の奥でひとつ高鳴るのを聞きながら、レナートの手の上に手を重ねた。
テラスにいたから冷えている指先に、レナートの手のとても心地のいいあたたかさが伝わって、嬉しいようなくすぐったいような気持ちになる。
室内の真ん中にあるソファまでエスコートされていると、途中でレリアが猫のような笑みを浮かべた。
「姫様、兄をからかうのもほどほどにお願いします」
「………? からかったつもりはないのだけど?」
「からかってるのはレリアだろう」
定規のようにまっすぐな騎士レナートは不機嫌に眉を寄せて短い抗議を挟んだが、意味がわからずに首を傾げた。
「それで、3人揃って私に何か用かしら?」
3兄弟がこのホルコスに来てから――姫神子が秘めた神の力が世界を震撼させたあの日から、10年が経っていた。
身辺警護のレナートと、身辺の世話をするレリアと、べったりと懐いているリタ。3人とも大体いつも側にいるのだけれど、最近では3人が揃うのは珍しい。
それにどことなく改まった空気を感じたセイラは、ソファに腰を下ろしながら尋ねる。
するとレリアが兄にちらりと視線を投げた。レナートはレリアに頷くと、一旦退室する旨を告げて部屋を出ていく。
首を傾げていると、レリアはほのかに笑った。
「明日は朝から忙しくなりそうなので、一足早くささやかですがお祝いをと思いまして」
お祝いと心の中で繰り返すと、とても重くて貴重な荷物を抱えた気持ちになった。
明日は、戴冠式の予定だ。