守りたいもの
ごっつと降り下ろされた拳骨の痛みに思わず俯いて唇を噛んでしまうと、さらなる叱咤が次々と飛んでくる。
――貴様、睨み返すくらいの気概がなくてどうする!
――そんな気概で武人が務まるか!この腑抜けが!
――レリアのほうがよほど気骨があるわ!
父は厳しい人だった。
およそ叱られた記憶しかない。
――おまえには、命を掛けても守りたいものはないのか!
けれど、信念のある人だと思っていた。
その点においては尊敬していたほど、まっすぐに信念を貫く人だった。
――それが、いつもお前の背中にあると思え!
けれど、領主として民の命を預かっている父にとって、最も大事なものは、民だったのだ。そのために必要ならば、母を捨て、子を捨て――母を撃つことを躊躇しないほどに。
「……兄様……リタに、教えておくべきだったと思う?」
私の膝の上で眠っているリタの頬に残る涙のあとを、レリアはそっと指でなぞって呟いた。その声に、ふっと薄暗い広間の端に意識を引き戻す。
父様のことを教えてと泣きじゃくるリタに、今はそれどころじゃないからと問題を先送りにしたが、数日中には話さざるを得ない。
「ちゃんと教えておけば、こんなに傷つけなくて済んだのかしら……?」
そろそろ潮時だったというのも、事実なのだろう。姫様と同じように森を駆け回るリタのことだから、いずれは隣国にも興味を持つ。そうなれば、自らの身に押されたサイオーンの王家ワイアットの紋章の焼印の意味を知る日だっていつか必ずくるだろうと。
まだ小さいから話が分かるようになるまでと言い訳しながら、ずるずると先延ばしにしてきたのが、災いした。
「……レリア」
小さく震えている妹の肩を抱き寄せ、ゆっくりと背中を撫でる。
「この襲撃を、誰が予測できた?」
想定外だなんて自身の耳にも言い訳のように聞こえた。それでも今は、レリアにそうだったと思わせなければならないと、言い含めるしかなかった。
「………うん」
納得はしていないのだろうが、レリアは弱々しく答えた。憔悴が伺える声に、肩を抱く腕に思わず力がこもる。
「おまえもそろそろ休め。いざというときのために力を温存しておかないと」
「…………うん」
レリアは額を私の腕に預け、半分まどろみの中から答える。
幼い頃、絵本を読んでやった時のように。
(……命を懸けても、守りたいもの……)
問われれば、今も昔もまず間違いなく即座に答えられるのは、妹たちだ。
父に捨てられた時、レリアを守らなければという一心で日々を生き抜いた。レリアが一緒でなかったら、とうに挫け、自害していただろう。レリアは冷静沈着に見えて、実際は弾丸のように止まらないし曲がらない、危なっかしいところがあるから。
それに今は片時も目を離せない無邪気の権化リタも。
妹たちが私の生きる意味だ。
そして――
「………兄様」
清楚な姫様のほほえみがふっと浮かんだ瞬間に震えるレリアの声がして、泡のようにぱちんと弾けて消えた。
「今、姫様につけておいた精霊が逃げた。……酷く…怯えて……」
反射的に、身が強ばって剣の柄を強く握りしめ、息を飲む。
精霊が主命に背いて逃げたということは、おそらく姫神子が十年ぶりに降臨したと思って間違いない。
「兄様、姫様を探しに行きましょう?」
レリアは今にも泣き出しそうで、声はわずかな迷いを帯びていた。
喉に何かが詰まっているように、すぐには返事ができなかった。
「……姫様、あとのことはよろしくって言って出た。まだなにも知らないリタを巻き込めないわ」
痛々しい決意に、父の言葉が再度脳裏をよぎった。
本当に、レリアは強い。
泣きながらでも信じたもののために立ち向かう強さがある。
――あの時の誓いの遵守を、切に願います。
そして、姫様の言葉が。
忠誠も、誓いも、真実だ。
なのに、私は、リタをベッドに降ろす間も、ふたりで城を出るために歩きだしてからも、まだ心を決められなかった。
剣の柄に、手を置く。常ならば自分の手足のように振るうことができるそれは、冷たい鉄の塊にしか思えなかった。
けれど躊躇いを叱るかのように、姫様の声が脳裏に蘇る。
『もし姫神子が現れたら――その時は、あんな惨事を繰り返す前にどうか……』




