迷い
くるりとした目が子猫のようにじぃっと見つめてきたかと思うと、深々と頭を下げた。
「そんなつもりはなかったのですけれど、騙した格好になりましたね。ごめんなさい」
ホルコスの王女にして《姫神子》――十年前、ラケシスを、ポボスを、笑顔で焼き払ったという、あの狂気の姫神子?
……この、虫一匹殺せないような少女が?
向けられた脳天を見つめながら、口の端に上らない言葉達がぐるぐると渦を巻く。
「私の首を落とします?」
顔を上げた少女は子猫のように小首を傾げ、姫君がお茶会で優雅に「菓子でもいかがです?」と聞くような調子で尋ねた。
その奇妙な違和感がさらに混乱と思考の麻痺を引き起こし、何も言葉がでてこない。
「あなたにはその権利があるでしょう?」
ゆるやかな三つ編みの髪をゆっくりと持ち上げる。
――リタを守ってあげて。
ラケシスの声が、脳裏に蘇る。
そして、ラケシスの面影があったリタの顔が。
ふいに疑問が浮かんだ。
リタは兄姉が姫の護衛だと言ったし、現にそうしていた。
しかし母親を殺された兄妹がなぜ姫神子を慕っているのか……?
疑問が首をもたげたちょうどその時、斬首を覚悟した少女はふっつりと糸が切れた人形のように倒れ込んだ。
「…………っ」
反射的に抱き止めてしまうと、そのうなじに不気味な赤い燐光を放つホルコス王家の紋章がちらりと見えた。
「…………おい」
呼びかけようにも、なんと呼んでいいのか思慮に余って呼ぶことができず、肩を揺らす。
「おい、セイラ……ルナ!」
迷いながら両方呼びかけてみても、何度肩を揺らしても、少女はまったく目を覚ます気配がない。
「…………………………これは、どうしたものか………」
この首を落とせば一番手柄だ。父王の気を引き、王位継承も確約されよう。
迷いながら剣の柄に手をかけてみる。だがいつもなら自分の手足のように扱うそれが、知らない異物のように手になじまない。
肩に寄りかかる柔らかなぬくもりは、つい先ほど、この少女がデイケの足とアルフレートの火傷を治したことを思い出させた。
本当に、この慈愛に満ちた少女があの惨禍を起こしたのだろうか?
ならばなぜ、リタやあの兄妹はこの姫君に仕えているのか。
あの事件の報告に、なにかの虚偽が含まれているとしたら。
「……………………」
だが、この姫を国に連れ帰ったところで首を落とされるだけだろう。
頬を、撫でる。
白く柔らかな肌に、長い銀色の睫が揺れる。
艶のある唇。
白いうなじ。
……陶器のように白い胸元。折れそうなほどに細い腰。
見つめれば見つめるほどに、斬る気が――自己の剣にも、他人の剣だったとしても――削がれていく。
うなじにあるホルコス王家の紋章が目に付き、ふ、と思う。
「ここで俺の女にしておけば、あるいは……」
あるいはそれは、欲望に対する言い訳かもしれないが。
王女を従え、ホルコスを蹂躙するのではなく統治できれば彼とて盤石を築ける。この少女も命拾いできるのだ……。
ふいに、デイケが肩口を噛んで引っ張った。
「なんだ?」
水を差されて不機嫌に応じると、デイケはひんと小さく鳴いて、鼻先で木々の間を指し示す。
目を凝らしてよくよく見れば、その奥に真新しい倒木の連なりが見えた。




