玉響
こういう時、どんな声をかければいいのだろう。
皮肉ならいくらだって言えるのに、慰めの言葉を考えようとすると思考はぴたりと停止してどうすればいいのかわからなくなる。
短い、けれど重苦しい沈黙が流れた。
息苦しさを感じた時だった。
唐突に、少女の表情が苦悶から恐怖に強ばった。
そして、ぐらりと体が傾いだ。
「……嫌っ、来ないで!!」
咄嗟に手を差しだそうとしたのを、鋭い悲鳴に遮られて思い留まる。
その拒否が自分以外に向けられたものであることなど想像できようはずもなく、ただ立ち尽くす。
ちらりと視線を投げるために上げた顔色が、深い恐怖に染まっていく。
「……逃…げて。……お願い……っ」
何から?と考えるより早く、少女はふらふらとおぼつかない足取りで森の中へ入って行こうとする。
「おい……待てよ。そんな状態で……」
追い縋って立ち上がるのと同時に、少女は木の根に足を取られて転倒しそうになる。
「………っ!」
飛ぶような大幅の一歩で追いつき、めいっぱいの力で倒れゆく少女の腕を引き寄せると、その体は人形のようにぐらりと転がり込んでくる。勢いそのまま胸に抱き止める。
「……おい」
少女の体勢に無理がないかを確認しながら座り込み、声をかける。
どこかをぶつけたわけでもなさそうだったが、少女は昏倒していて、呼びかけにも応えなかった。
「………おい、大丈夫か?」
名前くらい聞いておけばよかったと思いながら強く声をかけ肩を揺さぶると、ぴくりとまつげが震えた。
とてもゆっくりと、重そうに、瞼が開く。
どこか夢を見ているような胡乱な視線が顔に止まると、口元がうっすらと微笑みを形作った。
その瞬間、くらりと目眩がしたような気がした。続いて、心臓が激しく暴れ始める。
「……ええ、大丈夫」
凛とした声が空に澄み渡るように響き、その声に感電したように全身が痺れた感覚が駆け抜けた。
妖精のような美しい娘だとは思ったが――これは、ようなではない。この凄絶な美貌はもはや人の領域を越えているとすら思った。
精霊か、女神か。そういった何か……。
「……ありがとう。あなたもあの馬と同じで、とても優しいのね……」
肩を抱く腕にそっとしなやかな手を置き、寄り添うように頬を寄せた。
まるで恋人の腕の中にいるような安堵を滲ませ、目を伏せた。
ひとつひとつの動きがとても優美で、蠱惑的だった。
少女は一呼吸置き、顔色を伺うように見上げてくる。
「……あなたの名前、まだ聞いてなかったわ」
「……………アルフレート」
その硝子のような目を見ていると、頭の中が痺れて白い靄がかかったようだった。熱に浮かされたように、ふわふわと夢見心地で、問われるままに答える。
「……おまえは?」
少女は心の奥を覗くようにまっすぐに見据えられていた目を、ゆっくりと物憂げに伏せた。
「みんな、私をルナと呼ぶわ」
「……ルナ……」
それが忌むべきものであるかのような憂いに満ちた声に乗せられた名前だったが、呼ぶとルナは顔を上げて優美なほほえみを浮かべた。
目が合うと、弓の弦のように胸が震えるような心地がした。
細い指が頬を滑り、耳をなぞり、黒髪を梳きながらうなじを撫で、そのたびにぞくぞくする。
「…………ルナ」
声が、掠れた。
うぶな少年でもあるまいに。
いくら女の扱いに慣れていても、この少女は俗世の女と同じではない。まるで、月の女神――。
うなじに回された手が、やわらかな力で引き寄せられる。
口づけをねだって瞳を閉じる。
畏怖、だろうか。
この神々しいまでに美しい少女に触れることが禁忌のように思えて、わずかに迷った。
だがそれ以上にこの蠱惑的な唇の感触を味わってみたいという圧倒的な欲望が、強力な磁石のように吸い寄せていた。
けれど。
ほんの少し触れたかという瞬間だった。
ぱちん、と。
まるで泡が弾けるように唐突に――怒りや戸惑いを感じる間もないほど唐突に――ルナの態度が豹変する。
「―――……やっ……嫌っ! ……レナート……っ――」
ぐいと細い腕を突っ張って拒否され、悲鳴混じりに男の名前を呼ばれると、憮然としてしまう。
(誘ってただろう。今のは。絶対に。)
徐々にこみ上げてくる不快感から盛大に眉をひそめてしまうが、彼女は最後まで言葉を継ぐより先にその心中を察したらしく、口をつぐんで俯いた。
「………ご、ごめんなさい………」
か細い声で謝罪しながらも、いまだに抱き続ける腕をやんわりと押し返して後ろに下がっていく。
それから、弾かれるように勢いよく詰め寄って、心配そうな眼差しで見上げてくる。
「あ!あの、私……何か、しました?」
ちょうど幻でも見たのかもしれないと思いはじめたところで、答えに窮した。
戸惑っているうちに、ルナは両手を伸ばしてきて、頬を包み込んだ。頬をなぞり、黒髪の中に指を滑らせて、うなじを撫で、肩や腕に滑らせていく。
さっきとまったく同じ動きなのに、さっきのような艶めいた空気はかけらもなかった。優しい心配りは丁寧な動きで伝わるが、まるで医者が患者の体に傷がないか調べるようだ。
実際そのとおりだったらしく、一通り観察した彼女は安堵の息をつき、「よかった、怪我はしてないみたい」と小さく呟いた。
「………お…まえ………」
そこで、続ける言葉に迷って閉口した。
(……いったい、なんなんだ。まるで、人が変わったみたいに……)
言い淀んでいたその時、雲が風にさぁっと流れ、隠れていた月が現れた。
そして、気づいた。
月光を弾く髪の色が、鏡のように鋭い銀色に変わっていることに。
「…………そ…の、髪色……」
口内が乾き、反射的に息を飲んだ。
ルナは視線を辿って自分の髪を見、自嘲の笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、まだ名乗ってもいませんでした」
(名乗ってない?)
反芻するうちに、彼女は言葉を継いだ。
「私はこの国の王女、セイラ・アトルシャンと申します」
時が止まったような気がした。
アルフレートはただ目を見開いて、鋭く息をのんだ。
「姫神子とか、ルナと呼ぶ人もいます。間欠性精神疾患だから」
「………ルナ………」
――みんな、私をルナと呼ぶわ。
あの憂いに満ちた声が脳裏に閃いて、瞑目せずにはいられなかった。




