発露1
「………………っ!」
王の寝室に駆け込んだリタはまず、むせ返るほど強い血の臭いに息を詰め、袖で鼻を覆った。
王とその護衛3人の流した血が月明かりでぬらりと光る様は、まるで毒の池のようだった。
瞬間的に目を瞑って走って逃げたい衝動に襲われた。
だが、リタはそれをしなかった。
王のそばで黒い影が動き、それに目を奪われたからだ。
目が暗闇に慣れてくると、影が男だとわかる。
カラスのように黒い髪、上質な黒い軍服に黒い外套の若い男。
剣も、手も、すべてが血に濡れていた。
「……うん? 王女にしてはガキだな」
炎のように逆立って揺らめく黒い髪を揺らし、男が振り返った。氷のように冷たいサファイアのような目をリタに留めると、猛禽を思わせる鋭い眼光を緩めて薄く笑った。
「差し詰め、迷子か」
さてどうしたものかとわずかに思慮した男は、笑みを深める。
「王女でないのなら、おつかいを頼もう」
リタは全身がふるえて、がちがちと奥歯が鳴っていた。そのまま座り込んでしまわないようにするのが、精一杯だった。
「王の首はサイオーン第一皇子アルフレート・ワイアットがもらったと、帰って親にでも伝えてくれ」
リタは奥歯を強く噛み、ふるえを堪えた。
「……帰り道がわからないか?」
動かないリタを嘲るような言葉。
うなじがぴりぴりしているようで肩に力を込めたリタは、強い目で賊を睨んだ。
「…………ゆる……せない………」
こぼれ落ちる涙を拭う余裕はなかった。
「ご病気で、動くことも不自由だったのに……」
ホルコス王カムイは病床にありながら、いつもリタの頭を暖かく撫でてくれる人だった。姫様と同じようにリタもかわいがり慈しんでくれた。だからリタはセイラを姉のように、王を父親のように慕っていた。
「……優しい、人だったのに……なんで、こんな――」
ゆらりとふらついた足の爪先に、落ちていた幅広の剣が当たった。強力な磁力がそこにあるかのようにリタはその柄を掴んだ。
逃げるという選択はリタにはなかった。圧倒的な怒りが恐怖や躊躇を遙かに凌駕していた。
けれどその剣はリタには随分と重くて、兄のように軽々と構えることはできなかった。稽古用の細剣なら、兄が遊び半分で相手をしてくれるけれど、全然勝手が違う。腰を入れてなんとか、切っ先を引きずるように持ち上げるのが、精一杯だった。
「やめておけ。見逃してやろうと言ってるのに、剣を向けるなら子供だろうと容赦しないぞ」
男は面白半分でそれを見守り冷笑に付した。
「………………」
俯き、聞き取れないような小声でぶつぶつと何かを呟いているリタを、アルフレートは鼻で笑う――が。
「それはオモチャじゃな――」
笑い飛ばそうとしたアルフレートは、唐突に言葉を詰まらせた。
まるで少女の怒りが具現化して炎のように揺らめいたように見えたからだ。
だが、見えただけではなかった。
実際に、リタは炎に――正確には、呼び寄せた炎の精霊達に――包まれていた。
『炎の精霊達! この剣に宿って!!』
リタが剣の柄に力を込め流暢な精霊の言葉で願うと、その炎は渦を巻いて剣に吸い込まれるように収束していった。
すべての炎が吸い込まれた、次の瞬間だった。
剣はパリンと可憐な音を立てて弾け飛ぶ。
「――許さない。姫様を泣かせる奴は、絶対に許さないっ!!」
涙に濡れた目で睨みあげるリタの手にある剣は、赤い燐光と熱気を放つ細身のそれに姿を変えていた。
「チッ、おとなしく帰って親に泣きつけばいいものを!」
アルフレートは驚愕の色を隠しきれないままに苦々しい舌打ちをして剣を構え、リタは炎の精霊が宿った剣を片手に軽々と床を蹴った。
矢のように真直線の、わずかな疾駆。
それに続くのは猫科の動物を思わせるしなやかな跳躍。
鮮やかに宙を舞い、全体重を乗せて打ち込んでくる一撃を、アルフレートは冷静に剣に手を添えて受け止めた。
ぴりっとした電気のような衝撃が手首のあたりまで走った。
(だが、軽い)
アルフレートは瞬間的に侮った。だが、ふわりと遅れて漂った熱気と、剣がじわりと柔らかくなるのを感じて、本能的に少女を弾き返した。
「…………っ!」
弾かれた少女が間合いの外まで飛ばされていくのを横目で確認しながらすばやく剣に視線を走らせてみれば、交差した部分がわずかに歪んでいた。鍔競り合いなどしようものなら、剣を焼ききってしまいかねない。
ぞっと背筋を冷やしながら視線を戻すと、猫のようにくるりと宙返りをして着地した少女が、剣を構えながら再びぶつぶつと口の中で何かを呟いている。
背筋を嫌なものを感じた時には、少女の両肩の上に小さな火の玉がひとつずつ浮いていた。
少女は再度床を蹴る。
先刻と同じく直線的に。
火の玉はやや遅れて少女に追従し、しかし徐々に速度を上げて少女を追い越し、アルフレートの退路を断つように左右に分かれて襲いくる。
少女が真上から炎の剣を降りおろしてくるのと、ふたつの火の玉が両側から、全く同じタイミングで襲いかかってくる――。
「……チィッ……!」
剣を左に受け流しながら、身を翻して火の玉を避けた。しかし避けきれずに当たった火の玉が、じゅっと嫌な音と臭いを立てて腕を焼いた。
アルフレートは痛みに眉を寄せながらも、奥歯を噛みしめて呻きそうになるのを耐える。
「……ガキのくせに意外とやってくれるじゃないか」
痛みを怒りに変えて堪えたアルフレートは、口元だけの笑みを作ってリタを睨む。
「リタだって、兄様姉様のように姫様を守るって誓ったんだもん!」
物怖じせずにリタは叫び、まっすぐに両手で剣を構えた。
(構えは様になっている。剣筋もなかなか堂に入っていた……)
アルフレートはそれを冷静に分析していく。
(だが、実践経験は乏しいな)
魔法による剣の強化と火玉を組み合わせてくる戦法は虚を突かれたが、所詮は子供だ。剣の技量もあしらえないほどではないし、戦略などない単純明快な動き。
火玉の威力もこんな火掻き棒を押し当てられるようなものであれば致命傷にはならない。
虚を突かれなければ、苦戦する相手ではない。
(……さて、どうしてくれよう)
最新式の短銃が納められている腰のホルスターに意識を向け、わずかに思案する。
(お子様相手では目覚めが悪いが、そう悠長なことも言ってられな――)
「兄様の剣も、姉様の魔法も! 姫様の護衛、オネイロス兄妹は最強なんだから!!」
そんな思慮を、リタの自信満々の宣言が遮った。
リタは兄と姉の訓練を物心つく前から見て育った。遊び半分にちゃんばらをして、母国語を覚えるように自然に精霊達の言葉を学び、意志を通じあわせてきたという自負があった。
「……オネイロス……?」
アルフレートは、眉を寄せてしばしリタの輝くような金色の髪を凝視し、呻くように、呟いた。
「リタ――……」
口の中で呟くとそれが呼び水になって、長いこと記憶の隅で埃をかぶっていた名前が脳裏に閃いた。
「……まさかお前、リターニア……?」




