夕凪
しろく固まった漆喰の壁。
言葉は跳ね返らずに
ただ、くぐもっていく。
古いエルムの椅子に体をあずけて
残陽とわたし、二人きり。
向かいのホテルのバルコニーは
はちみつを溶いたような色に咲く
フリージアの花でいっぱいだ。
"ユヌ・フルール"
心のなかで唱えてみる。
あの子は今頃、夢の中かしら。
窓の桟に手をかけて、体をのり出すと
夕方の風が快い。
家々の窓の明かりが
夜の花のように灯る頃。
わたしは彼女の、閉じられた肌に
思いを馳せていた。
交し合ったものの数々を、思い出すだけで
涙が溢れてしまいそうだ。
すべての窓には、物語がある。
恋人たちの擦れ合う背中。
ドレッサーに向かい、髪を編む人。
涙を拭く人。
朗らかに歌う人。
わたしもこの一つの窓のなかに
物語を抱いて、生きている。
一番星が、空の隅っこで
まばたきをした。
夜を連れてくるあの星は
いつもどこか、誇り顔。
ねえ、また電話をしよう。
なんでもないことを、無言でもいいの。
語られなかった物語を。
あなたとふたりで、紡ぐ日のために。
*
最近、ぐっと華やかになった彼女は
いつもの風景から、うき上がって見えた。
人前で、表現をしながら生きているせいだろうか。
ひとつ、彼女の世界がそこにある。
銀杏並木が、夕暮れのなか
首をかしげ始めている。
散っていった葉のかたちを心に描いてみる。
この銀杏は、街路樹として人に添っているせいか
少し控えめで、色合いも心なしか雑木林で見るものより
優しく穏やかなのだ。
私の、世界への表現について考える。
わたしも私なりの姿で、ここに存在していたい。
「なに考えてるの。難しい顔して。」
景都は、わたしの顔を覗き込むと
ココアの缶で暖をとっている。
「ううん。なんでもないの。」
手袋を、一組貸してあげればよかったな。
「寒いね。夕飯は温かいものにしようね。」
それを聞いて、嬉しそうにマフラーに顔をうずめる彼女。
わたし達の冬が過ぎていく。
*
先頭は朱色がいい。藍色、山吹色の
どちらを最後に並べよう。
幼い頃、父が贈ってくれた色鉛筆。
色数が多く、今でも重宝している。
少女の私は、その日毎にテーマを決めて
手首が痛くなるまで何枚も絵を描いていた。
かたちというよりも
色と色の重なりがつくりだす
雰囲気のようなものに心を配っていた。
大人になった今でも、続けている日課のひとつ。
急にぽっかりと時間が空いたので
会社の屋上に上がってみた。
四角い建物が連なって
角砂糖みたい。
頬を撫でてゆく風花。
今日のテーマは、"風" にしよう。
彼女のことを思いながら、色を選んでみたい。
*
「瑠璃ちゃん、こういうの興味ない?」
会社の先輩から渡されたのは
社内コンペの小冊子。
「若手社員の作品を募集して、投票で選ばれると
短期留学の資金がもらえるらしいのよ。」
ヨーロッパのとある国で、二週間。
「あなたまだ若いんだし、少しの期間抜けることも難しくないでしょう。
今のうちに、こういうことに挑戦しておくのもいいと思うわ。」
彼女はこの会社のチーフデザイナーの一人、遥加さん。
私は入社時から彼女のアシスタントを務めている。
「もちろん、帰ってきたときもあなたの場所はちゃんとあるからさ。」
笑うとくっきりふたつ、えくぼが見える。
華奢だけれどパワフルで、面倒見のいいお姉さん。
「ま、選ばれればの話だから!頑張れよ!」
背中をばしばし叩かれて
ちょっとよろめいてしまった。
留学か。
自慢じゃないけど英語は全く話せないし、
外国には、大学の卒業旅行で韓国に行ったくらい。
冊子を本の間にはさんで
型押しのキャラメル色の鞄に
ぽん、と落とす。
胸がとくんと、音を立てた。
*
今、遥加さんと私を含む数名のアシスタントで取り組んでいるのは
ある大手レコード会社のPR広告。
古風なデザインを取り入れたいそうだ。
設立三十周年を記念してのものなので、懐古の意味も含めて。
評判がよければ、ロゴやグッズのデザインも頼みたいと言われ
私達はいつもに増して気合が入っていた。
インターネットや図書館で、参考になりそうな資料を
ひたすら集めてファイリングする。
昭和のタイポグラフィは、遊び心の速度もゆるやかで
デザインもお茶の間から飛び出してきたような
温かみのあるものが多い。
書き文字のもつ人懐っこさは、今ではあまり流行らなくなってしまったが。
白のふっくらとしたマッキントッシュに向かって作業していたら
すっかり日が落ちていた。
「瑠璃。」
佐竹さんが、差し入れにどら焼きをくれた。
私の好きなこしあん入り。
「今日、家寄っていいかな。」
ぱくっと一口噛みついたところで
彼が言った。
「景都さんに、会っておきたいなって。」
*
父と、秋桜を見に行ったのは
母が亡くなってしばらく経った頃だった。
花ばかり、人は私達ふたりだけ。
「秋桜は、気に入りの花だ。」
父は丘の向こうに消えていく桃色の稜線を
じっと眺めながら言った。
その花は。
夏の疲れを癒す、厳しい冬前の一過の夢。
父は、なにを思っていたのだろう。
今ならもっと、彼の気持ちを汲み取れただろうか。
けれどわたしは、立っているのが精一杯で。
話す言葉を、探すこともできなかった。
だから足もとの秋桜を一輪摘んで
押し花にして、父の誕生日に贈った。
栞にして、今でも使ってくれている。
あの日の、秋桜の花。
彼の愛する本のなかで、今も静かに眠っている。
*
「綺麗にしているんだね。」
佐竹さんが家に来たのは、別れてから初めてのことだ。
彼は綺麗好きだったから、掃除はいつも任せていたっけ。
私はかりんとうを少し、小皿に盛って
お茶に添えてテーブルに置いた。
「ありがとう。」
彼は今、会社の近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。
お茶をすすると、わたしの目を見て言った。
「相手が男じゃなかっただけ、安心だよ。」
暗い部屋に埋めておいた小さな種から
ざわざわと奇妙な形をした植物が
一斉に芽吹いていた。
わかっている。
彼がここへ入ってこられたのは
私が自分の気持ちをはっきり考えてこなかったせい。
視界がぼんやり歪んでしまう。
「瑠璃、やり直そうよ。」
緊張して唇が乾いていた。
彼がわたしの腕に触れていた。
選ばなくては。
手が震えていた。
そのとき、玄関の扉が
音をたてて閉まる音。
彼女がそのとき、
わたしの胸のなかで
ふわりと踊った。
黒く変色したその植物を
そっと腕に抱いて。
景都。
「ごめんなさい。」
私は叫んで、外へ飛び出した。
長い髪の先が、廊下を曲がって消えていく。
あとに残った、風の薫り。
わたしはその場に立ちすくんだ。
失ってしまっただろうか。
また私は、失ってしまうのだろうか。
考え込むより先に、私は走り出した。
*
「もし瑠璃に好きな人ができたら
一番にお母さんに教えてね。」
母の隣で眠るのは、いつも少し勇気がいる。
心臓の音が聴こえてしまうから。
母がわたしの体に腕をまわして
髪を撫でてくれる。
お母さんより好きな人なんて、
私はつくらないもの。
わたしの言葉は胸を通って
どこへも行かずに立ち止まる。
もしもわたしが、恋をしたなら。
自分の世界だけでも、充分幸せに生きていける私が
本当に誰かを、求めるとき。
この星の何処かに、君がいるのなら。
生涯逢えなかったとしても
そのことだけで。
ただ幸せで、泣いてしまうだろう。
母の鼓動が、耳元でとくとく。
子守唄のように、聴こえていた。