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愛の夢

"帰して"


なぜだろう。

完璧な和音だったのに。


メトロノームが振れている。


彼女の心に響く不協和音が

わたしの体に沁みこんでいく。


彼女とは血を分け合っている。

逃げられないのだ。


インクをたらしたカーペット。

編目に添いながら濡れていく色。


がたがたと揺れる引き出し。

楽譜をめくっていく春嵐。


夜はいつも、うまく眠れない。


あなたもそうに違いない。

台所でよく、手を洗っているでしょう。


窓の縁をたどっていく月を眺めながら。


曇硝子の引き戸から

細い足首が透けて見えていた。


人が空に住んでいたらよかったのに。

そうしたら私、ちいさくても

何処へなりと。


飛んでいけたわ。



お稽古二日目。

今日は美砂子さんが振りをつけてくれる。


首のところがV字に割れた

うす水色のシャツに

白いストレッチパンツ。


指先に、エクルベージュのマニキュアを塗っている。


練習室についている大きな鏡。

美砂子さんの背中と、わたしの表情。

あれ、すこし顔色悪いな。


「今日はルイスが森で水浴びをするシーン。

 景都のソロの部分ね。」


ダンサー達の群舞のあと。

森へ繰り出す少年ルイス。


若い牡鹿のように。

空中で足をうち鳴らして。


泉を咲き染める草の花。

ルイスは手で囲んで、

そっと顔を近づける。


春の喜び。

夢のまにまに。


彼のストールを、優しく受け取る月桂樹。


泉にそっと足をひたす。

水のなかで自由になった身体は

大きく伸びて。

美しくアラベスク。


唐草模様。


「景都、もっと幸せそうにして。」


私はぴたっと体をとめた。


「動きはとても綺麗よ。からだの線も美しいわ。

 けれどルイスの喜びがいまひとつ伝わらない。」


すこし神経質になって、爪をかんだ。


「ルイスは森で育ったの。言ってみれば、森のなかしか知らない。

 それは豊かなことだった。彼は、森と深い会話ができる心を持ったの。」


美砂子さんは真剣な目でわたしを見ている。

ルイスの魂を語ろうと。


「その森に、春がやってきた。

 冬の間お別れをしていたもの達ともう一度会えたルイスは

 ほんとうに嬉しいのよ。想像してみて。」


もう一度会えたことが嬉しい。

そこでわたしを待っていてくれたことが。


ふいに、彼女の顔が浮かんだ。

昨日の夜、約束したんだ。

日曜日は一緒に出かけようって。


ヘアバンドに眼鏡をかけていた瑠璃。

部屋の奥に、定規やいろんな画材が見えた。

遅くまで仕事をしていたのかな。


ボートに乗るんだ。

大きな湖がある公園を瑠璃は知っている。


「ちょっと景都、聞いてるの。」


あわてて、目をぱっちり開いた。

美砂子さんは口に手をあてて笑う。


「今のあなた、幸せそうね。」


空は、雨のあとのコバルトブルー。

晴れるといいな。


ふたりで、ふたりだけの日をつくるんだ。



母が出ていく前夜。

彼女がいつもと違うことに気づいていたのは

たぶん、わたしだけ。


彼女は嘘をつくのが上手い。


「愛の夢」

その名曲を一分の狂いもなく弾きこなす後姿。


最初から決めていたんでしょ。

いつかはその世界へ帰るって。


それならどうしてここにいるの?


声をかけられなかった。

代わりにじっと見つめていた。


滑っていく彼女の指先に

調子をとってはねる音符の輪。


このままで眠らせて。


あなたを好きな、私のままで。



いつの間にか、ソファでうたた寝をしていた。


時計を見ると、午前一時。

明日が、今日と交代している。


「こんなところで寝たら、風邪ひいちゃうよ。」

瑠璃は、あたたかいミルクを入れてくれた。

「忙しいみたいね。」


あれから午前いっぱい、美砂子さんが振りをつけてくれて

午後は練習室が閉まるまで自主稽古をしていた。


ひとりだと、休憩をいれるのを忘れてしまう。

足が痛くなった。


瑠璃は目を細めて

「景都、瞳がもっと綺麗になった。楽しそう。」

と言った。


「踊るのが、ほんとうに好きなのね。」


わたしが踊り始めたのは。

白昼夢が額を覆っていく。


あまりにも深い雲の揺籃。

わたしは外にでられない。



ちいさな頃、母の弾くピアノは

わたしの気分を不安定にした。


駆り立てるのだ、彼女の音色は。

何処へ?


強い衝動が、行き場のないことを認めずに

真っすぐこちらへ向かってくる。


わたしはたまらず手を動かした。

指も、足も、からだのすべてを。


何処へいけばいいの?


滑稽な、わたしの初めてのダンス。


飛び上がって転んで

それでもまた立ち上がって。


膝小僧から、血が滲んでいる。


嬉しいの?


わたしは家じゅうを駆け回って

なにかを探した。


何を?


子守唄。


「景ちゃん。」

彼女はぱたんと倒れた私にかけよって

頬ずりをする。


母になって、踊っていた。

からだはまだ、繋がっている。


「ママ、ピアノを弾いて。」


わたしはせがんでしまう。


ぎしぎし、ぎしぎし。

腱がすれあう音がする。

感じさせてほしかった。


わたしは ここにいるの?



「この劇って、ニジンスキーの牧神の午後から構想を得たんですよね。

 どんな風に?」


そう言って雅は、あんずのお酒をこくっと飲む。


わたしは枝豆をぽりぽり噛みながら

ビールの泡を、指ですくって舐める。


「ああ、わたしが初めてあの劇について読んだときね

 どうして牧神は、ニンフを追いかけずに

 自慰行為に及んだのかしらって疑問だったの。」


ニンフは半獣である牧神、パンを恐れて逃げていく。


「彼って人間のからだではないわけだから

 追いかけても彼女とひとつにはなれない、

 そう悟ったのかしらってね。」


自分のからだを慰める。

奇妙に歪んだ愛のかたち。


「でもね、後でパンについて調べてみたら

 あるひとつの神話の中では、

 彼は原初の両性具有の神だと信じられているの。」


その神は、ゼウス、またはパーンと呼ばれた。

全ての宇宙。


「彼は自身の娘でとの間に

 大地と天とを生み出した。」


からっぽになった枝豆の房が

真っ黒の器のなか、しんとしている。


神さま。


「それじゃあパンは、ローサとルイス、両方の性格を持つわけですね。」


同じ種のからだを持たない悩み。

おとことおんなを彷徨う生きもの。


「景都、聞いてる?」

美砂子さんは、とん、と

人さし指でわたしの頬に触れた。


聞いてはいたんだけれど。

店の外を立派なダルメシアンが通って

目を奪われた。


「景都ってほんと、霞かなにか食べて生きてそうだわ。」

牧さんがグラスをことり、揺らして笑う。


「やだ、いま大量の枝豆を食べたばかりよ!」

いつの間にか、お互いの肩を抱いているふたり。


お酒もはいって、いい雰囲気。


やれやれ、と呟いて二杯目をウエイターに注文する雅。


「雅は、どういう経緯でこの劇団に?」


「牧さんの大学時代の後輩で、同じ演劇サークルに入っていたんです。 

 その頃から、美砂子さんとはお付き合いがあったようで

 よく学内を腕を組んで歩くふたりの姿を見かけました。」


「なにせ、おふたりは目立つので。

 皆さん好きなように想像して噂していましたよ。」


二人にわたし達の会話は聞こえないようだ。

なにか囁きあっては、くすくす笑い。


「美砂子さんは、私達の大学の生徒ではなかったようですが

 そんなわけでちょっとした有名人でした。うふふ。」


「そういえば景都さん、お住まいはどちらですか?」


わたし・・・?


それはね・・。



泉のなかに身体を横たえ

眠りについた、肌が騒めく音がする。


母なる人が、わたしを宿したとき。

歯車の合わない、ざらざらの音符達が

哀しそうに歌った。


子守唄。


寄せては引いていく波に合わせて

沈んでは浮き上がる砂模様。


かけて崩れた音符のピースを

拾い集める少女のわたし。


あの日君と出逢って。


空から、流れてくる

新しい世界の旋律。


耳をすませていた。

針のように。


わたしは私の身体を抱いた。


夢になってしまうその前に。


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