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彼女

水面がちかい。

指をつけてみると、氷のよう。

身体はきしんで、悲鳴をあげる。


この水の世界で、わたしは生きていけないのだ。


裸の木がまるで切り絵のよう。

いまでは空が、彼らのひとつの大きな葉。


ゆっくりとボートはすすんでいく。


静謐な湖を動かす

小さなわたしたちの船。


誰もいない。

私達のほかには誰も。


オールをこぐ彼女の手は

かじかんで、赤い。


わたしと湖とを交互に見つめる

少年のように勇んだ瞳。


彼女のサンドベージュの上着に

目でつる草を描いてみる。


くるくる廻る、螺旋のみどり。


ふたりが出逢った、命のふしぎ。


目の前にいる、あたたかな熱をもった彼女。

わたしはこの世界で生きている。



春になって、桜が咲いて。

都内の美術大学に進んだわたし。


デザインの勉強を本格的に始めた。


人の視覚と心に訴えるということ。

それも、多くの人達に届くように。


じぶんの世界に籠りがちな私にとって

それはある意味でリハビリのようなものだったが

単純に楽しく、探求心をくすぐられた。


大衆性を感覚で捉えられるように

私のものを見る意識は、大きく変わったように思う。


少なくとも、母のことばかり考えることはなくなった。


特に印象に残っているのは

心の動きに因んだ言葉ひとつを選び

それを喚起させるイメージを、形にするという課題だ。


写真を使うのか手書きの絵を入れるか

文字を入れるならレタリングをじっくり考え

どこに、どのような規模で掲示するのがいいかなど


紙媒体、という制限はあったものの

お題が抽象的だったこともあり、考えることは山ほどあった。


一番悩んだのは、テーマ選び。

これから何か月か向き合っていくのだ、

簡単には決められない。


自分に馴染みのある言葉より、少し挑戦できるものがいい。


悩んだ末、"許し"というテーマを選んだ。

"解放"という意味を含んで。


テーマと動機についてのプレゼンテーションでは

なかなか手ごたえがあった。


誰でもひとつは、手放せない複雑な感情や

思い出を抱いて生きている。


それらは、日常の折に触れよみがえる。

目を逸らしたくなる。

見ないふりをしていれば

現代の速度が、それを掻き消してくれるだろう。


だが時には立ち止まって、向き合ってみてほしい。


いつの間にかあなたは、まっすぐそれと対峙できるほど

強い心を、手にしているかもしれないのだから。


そんな思いを社会へのアプローチとして設定した。


二年生になって知り合った李央という友人は

"後悔"という言葉を選んでいた。


悲しみや喜びなど、真っ直ぐなテーマを選ばなかった私たちは

何度かカフェテリアで会って、お互いの進行状況や考えについて

よく話し合った。


細いふちの深緑の眼鏡をかけて

あかるい茶色の短い髪。


無口で、ほんとうに言いたいことだけを話す人だ。

決して固い人だというわけではない。

彼女は俳句サークルで恋の歌を詠むのだから。


「ねえ、李央はどうしてその言葉を選んだの。」


李央はすいかのジュースをごくっと飲んで

「後悔のじとっとした温度が好きだから。」

眼鏡の奥でいたずらっぽく笑う。


「それに、人が後悔をするときって、動けなくなるような感覚に陥るじゃない?

 それってちょっとした快感だなって思うの。

 前にも後ろにも行けずに、そのことだけに縛られてしまうのよ。」


独特な考え方をする人だ。


「だから私は後悔が好き。

 後悔するほど強い思いを持てるって素敵じゃない?」


カフェテリアの大きな窓が真っ青になっている。

そのなかを入道雲が渡っていく。

彼女のうしろで蝉の声。


「そんな風に考えれば、後悔も悪くないわね。」


アイスクリームもまだらな汗をかいている。

そっとスプーンですくって、口にいれる。


「瑠璃は?どうしてそのテーマなのかしら。」


舌のうえに甘くひろがるアイスクリーム。

彼女のフリルのついたTシャツに

ころころとこぼれる水玉模様。


「私はわたしを、許したいから。」



母を愛してしまった瑠璃。

母の子どもに生まれてしまった瑠璃。

父を羨み、超えたいと思いながら生きてきた瑠璃。


彼女たちの姿で、"わたし"が見えない。


胸に立ち込める霧は重たくて

はらってもはらっても

前が見えない。


諦めて座り込んでしまう。


色彩は薄暗くなっていく。


「答えをみつけようとしなくてもいいんじゃないかしら。」

私の部屋に寝転がって、漫画雑誌を読んでいた李央がつぶやいた。


「もがいているあなたのままで、許したいと願うあなたのままで。」


彼女の"後悔"の色は鮮烈な赤。

触れたら傷つけられそうに鋭いけれど

哀しむことを恐れない、気高い赤。


わたしは猛然と手を動かした。


霧すら包み込む光になれたら。

なかったことになんてできないのだから。


許す、ということがどういうことなのか

まだわたしには分からないけれど。


悲しくて痛くて、血がにじんでも

苦しんだわたしを置き去りにはしない。


一緒に連れていくのだから。


いまはまだ、届かなくても。

はっきりと見えなくても、進んでいけばいい。


そうしていればいつか

夢見たひかりの中に、立てるのかもしれない。



鳥かごのなかの鳥を

両手に抱き上げる少女。


そして彼女は、鳥を空へと帰す。

彼女の新しい家では

大事な君と暮らせない。


少女の新しい船出のために。

そっと羽を広げてみる。


長い間鳥は閉じ込められていた。

生まれた時からかごの中。

空で生きていけるのだろうか。


人はなんて残酷なのだろう。


セピア色の空を渡っていく鳥。

それを窓から見つめる少女。


鳥は風を切って進んでいく。


少女との思い出が刃のように吹き付けて

鳥の羽をもいでいく。


鳥はそれでも進んでいく。

飛ぶために生まれてきた命だから。

ここにくるまで、知らなかったけれど。


空の果てをこの目で見たいのだ。



手書きのイラストに写真をコラージュして

幾つかポスターを作り、並べて展示して

ストーリー仕立ての作品に仕上がった。


地下鉄のコンコースに掲示するという想定だ。

人が混ざりあいながら流れていく場所で。

思いも交錯し、前に進みだす。


二年生最後の制作だったので、

スペースを借りて何日か展示が行われた。


わたしは午後の当番で

パイプ椅子に腰かけてぼうっとしていた。


春が枕のようで、頭の芯がまどろんでいく。


すずらんの花束を持った李央が、静かにこちらへ歩いてくる。

黒のティアードスカートに、すずらんの白が映えている。


わたしの作品を、慈しむようにじっと見ている。


「好きだわ。」

そんな風に直球で言われたら、照れるのも隠せない。


「あなたの心の声に触れられて、嬉しい。」

そう言うと彼女は、その花束をわたしの膝の上に置いた。


「ありがとう。」

すずらんの花を撫でて、そう言った。


彼女はそのあと何か言いかけて

口をつぐみ、微笑しながら

「後で、お茶しましょう。」

一度軽く手をふって去っていった。



すずらんの花言葉。


"幸福の再来""意識しない美しさ"


"純愛"



冬の空は、夢の中でみる青に似ている。


わたしたちは並んでクレープを食べていた。

赤茶けたベンチに座って、交互に白い息を吐いて。


景都は焼き林檎。わたしは苺のクリーム。

おばあさんが一人でやっている手作りのクレープ屋さん。


「食べたら公園をぐるっと回って、ボートに乗ろうね。」


景都はいつもより眠たそうで

むにゃむにゃ言いながらクレープを食べている。


この公園には大学時代の友人とよく来ていた。

彼女は卒業後、日本通の外国人と知り合い

今は結婚して、彼の国に住んでいる。


湖のうえに掛かる橋を、すいすい渡っていく人たち。

恋人や、親子連れ。

みんな手を繋いで、幸せそうにしている。


休日の公園は、すこしだけ寂しいときに来るのがいい。


わたしが最後の一口を食べ終えると

景都は私の手をひいた。


立ちあがった彼女の髪が、風に散っていく。

冬の光が、雪のように落ちてきて

私は目を細めた。


なんて暖かい。


そう感じるのは私のからだが

いつの間にか、すっかり冷えていたからだろうか。


長い間。

そう、自分ひとりでは

人はそのことに気づけない。


わたし達が動くのに合わせて

地面を覆う葉は、ふたたび舞い始める。


「ふたりで歩くと、風もふたつになるんだね。」

景都はわたしの方を見て言った。


「気持ちいいね。」


両手を広げて、走り出す彼女。

わたしも後を追いかける。



風が囁いた気がした。





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