あのひ
「小宮景都です。よろしくお願いします。」
そろりと頭を上げると、同じような髪形の人が
均等な距離に並んで、じいっとわたしを見ている。
みんな、一緒の美容院に行っているのかな。
私は窓際の一番後ろの席をもらった。
校庭で、体育の授業をしている。
白い服を着た女の子と男の子が
ばらばらに混ざって、グラウンドを回り続けている。
迷子の惑星みたい。
白い息。
仄青い空。
雲と空がひとつになって漂っている。
わたしは、自分が何処にいるのかよくわからなくなる。
朝目覚めたらここにいたけれど、なにかを間違えてしまったのかも。
頬杖をついて、ぼうっとしていると
前の席の女の子から紙を一枚渡された。
計算問題。
名前。
名前を書くための、空白。
わたしの名前を書かなくちゃ。
だけど、よく思い出せない。
ここには何ひとつ、思い出せる手がかりもない。
秋の終わり。
わたしは転校生。
冷たい風が、窓にかさかさ触れている。
*
わたしが自己紹介をしている間、劇団のメンバーたちは
それぞれ好きなように相槌をうっていた。
見たところ、ざっと二十人弱。
「はじめまして景都さん、わたし、相手役の雅です。」
ミルクティーの髪をふわりと巻いた、小柄な女の子が声をかけてきた。
「よろしくお願いします。」
この子となら、並んでもカップルとして自然だろう。
足元に視線を落とすと、トゥシューズを履いている。
朝練でもしていたのだろうか。
「景都は、今度のオーディションで主役に選ばれた子だから。
みんなよろしくしてやってね。」
髪をさっぱりとまとめた牧さん。
ウエストラインの綺麗な、黒のセーターに
赤いルージュをひいている。
美砂子さんは白のコットンパンツにうす緑いろのシャツ。
くるっとひとつお団子にした鳶色の髪。
街で会ったら、きっと振り返ってしまう。
恋人同士のふたり。
「よろしく。」
「いい舞台にしような。」
体格のよい六人の男性たちが、口々に声をかけてくる。
お揃いの紺色のTシャツに、外国の文字がプリントされている。
どうやら彼らが、海外で学んできたダンサー達らしい。
彼らの帰国後、初めての作品のようだ。
赤・黒・白
おおきく三つの場面で構成された
一時間半ほどの劇。
ところどころ"群舞" "デュエット" "ソロ"など
踊りの場面が散りばめられている。
思っていたよりも台詞は少なかった。
喋り通しかと思ってびくびくしていたので
ついほっとしてしまう。
「十時から、本読み始めるから。みんな台本にぱっと目通して。」
そういうと牧さんは、美砂子さんと連れ立って何処かへ出ていった。
ダンサー達も、それに続いてぞろぞろ出ていく。
部屋に残ったのは、わたしと雅と黄緑のインコ。
「景都さんも、バレエダンサー?」
「うん、景都でいいよ。」
「やっぱり。そういう雰囲気がするもの。」
心からの笑顔が、天使みたい。
どんな風に踊るのだろう。
足元をちらっと見ると
「あっ。履き替えるの忘れてた!ちょっと行ってくるね。」
恥ずかしそうに笑って、ぱたぱたと走っていった。
ピンクのフレアスカートがふわっと膨らんで
足取りも軽く、ほんとうに妖精のようだ。
早速、台本を広げた。
いくつか読めない漢字があって
部屋の隅のインコに弱音を吐いていると
雅が蜜柑を持ってきてくれた。
「むいてあげるね。」
ふたりでわけあって食べていたら
いつのまにか十時になっていて
わたしは漢字をことごとく読み間違え、
皆に大笑いされてしまった。
*
少年ルイスは、森のなかに姉とふたりで暮らしている。
ある日彼は友人達と、森へ水浴びに出かける。
泉のほとりで彼は、
岩の下敷きになっている、小さな花を見つける。
彼はそれをそっと抱き上げると
岸辺に優しく植え替える。
花の精ローサは、それを見ていて
彼に恋をしてしまう。
彼の落としたストールを抱いて
夜ごと彼の姿を夢見る。
ところがローサは、人間の女のからだを持っていない。
いくら愛していても、彼とひとつになることができない。
花の女王にローサは、人間の姿にしてほしいと頼みに行く。
ところが女王は、彼が男であることが気に入らない。
花の精たちの心が、男性に奪われてしまうことに我慢がならない。
そこで彼女は嘘をつく。
"これを、彼の飲み水にこっそり混ぜなさい"
"そうすれば、彼は妖精のからだを手に入れる"
"あなたを愛することができるようになる"
人間のからだを造り変えてしまうなんて。
神様への冒涜ではないだろうか。
悩んだ末、とうとう恋の情熱に負けてしまう。
ところがローサは、女王の言葉を忘れ
ルイスのミルクに薬を混ぜてしまう。
実はその薬は、人の性別をさかさまにする薬。
ルイスは、完璧に女性の姿になることができない。
ミルクのなかの、不純物。
女性にもなれず、男性にも戻れない。
ローサは、彼をもとに戻したいような
このままで居てほしいような・・・
*
その日は、本読みとこれからの大まかなスケジュールが伝えられ
少し早めの解散になった。
家に帰ると、台所から食器のぶつかる音がする。
瑠璃は、いつも淡々と家事をこなしている。
まるで、長年しみついた癖のように。
わたしの部屋の壁は、たっぷりの白に少しの青を混ぜた色。
ゆっくりブルーが混ざっていく音が聞こえてくるみたい。
そういえば、この部屋には来た時から机が置いてあって
誰かが動いていた気配があったけれど。
本棚は空っぽだ。
今まで深く考えなかったけれど
わたしは瑠璃といてちょうどよく生活できている。
ふたりぶんの、空間がある。
誰かもうひとりいたんだろうか?
どうしていなくなってしまったんだろう。
考えていたら、いつの間にかうとうとしてきて
そのまま少し眠っていた。
夢。
床のうえで眠ると、昔のことを思い出す。
扉を開けて、たっぷりの光とともに現れたのは
新しくやってきたママ。
さばさばしていて明るい女の人。
私たちは親友のような親子になった。
わたしと妹は、彼女のことを愛している。
母と同じだけ、もしかしたらほんの少し多く。
母の写真は、家族のアルバムから消えてしまった。
たぶん、父の母が抜いたのだと思う。
母は、私が中学に上がる前
家を出ていった。
愛のためだった。
*
その人のことは、たまに家に遊びに来ていたので知っていた。
ワンレングスのボブカット。
服飾関係の仕事をしていたらしい。
モノトーンの服を着ていても、どこか鮮やかな印象を与える人だった。
彼女がよく着ていたオリーブ色のパンツスーツ。
さっぱりとした、香水の匂い。
母とは女子高の同級生。
わたしと妹に服をつくってくれたこともある。
妹はあの後、すぐに捨ててしまったけれど。
わたしは今でも大切に着ている。
だって、あの人はとても素敵な人だった。
自分の道を確実に歩んでいて
穏やかな自信に満ちあふれている。
彼女は、海外のテーラーに就職が決まって
母はそれについて行った。
言ってみれば、駆け落ちだ。
家族はあっけにとられた。
けれどわたしは、少しだけ羨ましかった。
高校を卒業してすぐ、一度手紙を出した。
いつか会いに行きたい、と書きたかったけれど
できずにそのままポストに入れた。
しばらくして、手紙の最後に書いておいたアドレスに
メールが送られてきた。
ふたりは向こうの法律で結婚していた。
男女のカップルと同じだけの権利は持てないそうだが
幸せで、元気に暮らしているようだった。
町の風景を写した写真が何枚か添付されていた。
母のとった写真だ。
わたしにはそれがわかる。
まぶしい光に、空が割れそうにあかるい。
カラフルな煉瓦のいろ。
賑やかな朝のマーケット。
聞きたいことは山ほどあった。
同時に、とても怖かった。
すべてが明らかになったら
今度こそ自分のかたちを失ってしまいそうだ。
ふたりから受け取ったメールを何度も読み返して
その日の彼のベッドにもぐりこんだ。
夜の窓のなかで
飴のように光る街の明かり。
彼の飼っている猫がくっついてくる。
ひとりぼっち同士。
お互いを許しあえる私たち。
ランプを消して、夜のなかへ。
船はいらない。
裸のままがいい。