あした
彼女の髪を櫛でとく。
わたしの愛した、あの時間。
枕のうえの、小さな陽だまり。
彼女は気持ちよさそうに目を閉じている。
ゆっくり、撫でるように。
櫛のなかでゆらめく彼女の生命。
子猫のようだ。
彼女を生かす、小さな心臓。
夜目を閉じて、自分の心臓の音が聞こえてくるとき
私は恐怖を感じる。
頼りなげな音の繰り返し。
いつ止まってしまっても、おかしくないような気がしてしまう。
彼女の心臓を、この手にずっと抱いていたい。
最後の瞬間まで、彼女の鼓動を感じていられるように。
神様。
彼女の体にわたしを戻して。
*
その日いつもより早めに出社した私は
机の上に、一冊の大判の本を見つけた。
ー装幀家・神田颯斗の世界ー
何年か前に発売された、父の装丁を集めた作品集。
本の背は擦り切れて、地の色が見えそうになっている。
私はなにか息詰まるたび、この本の頁をめくる。
父の声が、無性に聞きたくなったとき。
「おはよう。」
佐竹さんが、淹れたてのほうじ茶を渡してくれた。
「その本ありがとう。やっぱり彼の作品、好きだな。」
父が褒められると、素直に嬉しくなる。
香ばしいお茶の香りが、朝のからだに染みこんでいく。
彼は、たまに私の仕事場を訪ねて来ては
父の本を借りていく。
自分で買えばいいのに、なんて思うのだけれど。
彼の目の下に、青く隈ができている。
「また徹夜したの?ちゃんと寝ないと、体がもたないわ。」
葡萄のドロップをひとつ、彼に向かって放る。
「そんな風に言ってもらえるなら、また徹夜したくなっちゃうな。」
彼はそれを口に含んで、私の手元をじっと見ている。
彼の気持ちが、まだ私に残っている。
そこから先は、今はまだ考えたくない。
ボールペンを取り出して、落書きを始める。
くじらの絵。
浜辺にうちあげられてしまった。
景都は、今日がお稽古の初日だ。
うまくいっているといいな。
今朝の彼女はいつもより少し、ちぐはぐだった。
お箸で果物を食べたり、急須に牛乳を入れようとしたり。
彼女なりの挙動不審だったのだろうけれど、奇妙にずれている。
彼女があわてるなんて、不思議な眺め。
ふたりぶんのマグカップにコーヒーを注ぐ。
その両方にミルクを入れて、スプーンでかき混ぜる。
景都と過ごす朝の時間が好きだ。
彼女は低血圧なのか、ぼうっとしていることも多いけれど。
少しずつお互いの話もするようになった。
景都がバレエの先生をしていたなんて、何だか意外。
彼女は好きな時に眠って、踊って、
なにかに制限されることなく、生きている人だと思っていた。
時間の針から離れたところで。
くじらの傍には、心配そうな顔をした人魚。
彼女は一番の友達。
エメラルドグリーンで、彼女を塗りたい。
そういえば景都、勝負ネイルよ!なんて爪を真っ赤に塗っていたけれど
男の子の役なら、落とさなきゃいけないんじゃないかな・・・?
ううん。
彼女の演じる少年なら、逆に魅力的かもしれない。
止まり木を探すことを知らない。
夢のなかを生きる人。
性別の不確かな、自由を持つ鳥。
「今日、お昼どこに行こう?」
佐竹さんの声で、はっと我に返った。
いつの間にか会社の中は人で溢れていて。
空想のすきまが消えてゆく。
浜でくじらは、死んでしまった。
人魚も隣で眠りについた。
海は優しい、ふたりのゆりかご。
*
佐竹さん。
父と離れて暮らし始めたばかりのわたしに
憩いをくれた、ただひとりの人。
彼の脆さ。
それは彼の指先から、美しい線にかたちを変え流れていく。
彼の作品を愛さずにはいられない。
彼の細いからだ。白目がちの目。
キスをするときの、斜めに曲がる薄いくちびる。
彼が寂しがるとわたしは不安になった。
彼が嬉しいと幸せで泣きたくなる。
たとえるなら、母親のような気持ちで。
ふたりの何かを変えたのは
彼がわたしにした贈り物。
青い石のついた、シルバーリング。
薬指になじむための、幸せな指輪。
私はそれを、なかなかはめることができずにいた。
彼はそれに気づいていて、哀しそうに笑っている。
ある日、夕食を終えてリビングでくつろいでいると
「指輪、しないんだね。」
彼がぽつりと言った。
わたしは黙ったままドレッサーの引き出しを開けた。
紺色のちいさな円い箱。
瀟洒なベルベットのなかで、それは動かない。
手にとると、初めての世界に戸惑っているみたい。
小刻みに震えている。
わたしはそのままで、彼のほうを見た。
困った顔をして、慎重に言葉を選んでいるようだ。
ふいに彼が愛おしくなる。
彼の手のなかに、それを置いた。
彼は少し考えて、私の薬指にはめようとする。
きつくてなかなかはまらない。
わたしは冷たい人間だ。
指輪のサイズを聞かれて、思わず嘘をついてしまった。
その嘘を、どうか嘘のままにしておいて。
後ろの気持ちを探らないで。
わたしは祈るような気持ちでいたけれど
きっと表情にはあらわれなかっただろう。
本心を隠すのは得意だから。
彼は私をソファに押し倒した。
わたしはされるがまま、彼の体を受け止める。
彼が私の目を見ているのがわかる。
目を閉じていてもわかってしまう。
「瑠璃・・・」
少しの眩暈と共に
わたしの体が乱されていく。
彼の背中に爪を立ててしまう。
愛しあった後で彼は
優しく、私の唇に指で触れた。
*
翌朝、キッチンでわたしが言った言葉は。
清潔なシンクに、空虚な響きを残していく。
彼は昨日の夜で、なにかを感じていたからか
特に取り乱すことはしなかった。
瑠璃は僕の子どもを産んでくれる人だと思っていた。
彼はそう言うと、お皿を洗う手をとめて
わたしの手を握った。
待っているから。
そう言って、彼はそっとわたしを抱きしめる。
彼の置いていったやさしさ。
時折わたしを息苦しくさせる。
空になったひとりぶんのスペースを、
通り抜けていく風。
私は無性に懐かしくなってしまう。
母がいなくなってすぐの頃。
細胞から思い出が孵化していく。
じわじわと血が滲んでいく。
母を見送った翌朝。
流しでぼんやりとお皿を洗っていたら
昼間の光が痛くてたまらない。
わたしの肌に添って起き上がる影たち。
愛する人を失っても、まだここにあるわたしの命。
自分の手を引っ掻いて、傷をつけてみる。
うまく涙がでてこない。
初めて少しだけ泣けたのは
母の形見の、あのワンピースに袖を通した日。
鏡のなかで、彼女を包んだ桜のいろの中にいる私を見た時。
母とわたしは、やっとひとつになれた。
ずっとこの景色を忘れたくない。
皮肉にも思いが遂げられた気さえしてしまう。
わたしは自分のからだを抱きしめた。
あの日からゆっくりと気づかれないように
巻き戻っている、わたしの時間。
*
台所で桃をむいていると、景都が帰ってきた。
私は作っておいた肉じゃがをラップに包んで
テーブルのうえに置く。
今日は、仕事を少し持ち帰ったから
部屋でゆっくり片付けよう。
景都、疲れているかな。
寝る前にちょっと顔を見に行こうかな。
仕事が一段落したとき、こんこん、とドアをノックする音。
開けると、タオルをかぶった湯上りの景都。
「ごはん、ありがとう。とってもおいしかったよ。」
ほんのり赤く染まった頬に、石鹸の香り。
景都は、いい匂いのする人。
「瑠璃、今週の日曜日ってなにするの?」
日曜日は空けてあった。
景都の話をゆっくり聞けるかな、なんて思って。
「なんにもしないよ。景都は?」
「瑠璃と出かけたいな。」
嬉しそうに、タオルをぎゅっと握っている。
すっぴんの景都は、赤ちゃんみたい。
少し頼りなげで、抱きしめてあげたくなる。
「どこか、ボートとかある公園がいい。」
「それならわたし、いいところ知ってる。」
だれかと一緒に暮らすことは、明日の約束を紡いでいくことだ。
おやすみを言い合って、お互いの時間へと帰っていく。
*
サイズ違いのシルバーリング。
捨てられずに、引き出しの奥にしまってある
ちいさな嘘。
指輪は役目を果たせない。
嘘の裏にある真実の力は、強いから。
わたしの気持ちは、あの小さな箱に隠されて。
今はまだ、だれにも触られないまま。