わたしのゆめ
私は彼女からもらった鍵にふたつの鈴をつけた。
失くしてしまわないように。
今までたくさんの家の鍵を持ち歩いてきたけれど
どれが本当に私の家だったのだろう。
どれも私の家だったような。
どこにも私の家は無かったような。
そんな宙ぶらりんの感覚で
鍵から鍵へ
人から人へ
渡り歩いてきたけれど。
他人のなかに答えを求めたって、虚しくなるだけだから。
自分の足で歩いていく。
私がわたし自身の、たったひとつの家なのだ。
そんな風に、思いを決めた矢先。
彼女は突然現れて、私に新しい鍵をくれた。
ふたつの鈴はぶつかりあって
ちりちり恥ずかしそうに鳴る。
また約束を増やしてしまった。
けれどなんだか心地がいいのは
私が、変わったからだろうか。
*
その日私の、いつも静かな携帯電話から
昔の映画音楽が流れてきた。
宇宙人を自転車のかごに乗せて空を飛ぶ、有名な外国の話。
誰かが勝手に着信音に設定して、そのままだ。
電話の相手は美砂子さん。
サイレントモードは、彼女のために解除しておいた。
オーディションの結果がそろそろ出る頃だ。
待ち合わせの喫茶店に行くと
紺色のセーターで髪をまとめた美砂子さんが
文庫本を片手に、アールグレイを飲んでいた。
髪を上げるといつもに増して綺麗だ。
声をかけるのが、ためらわれてしまう。
セーターに編み込まれた模様が
落ちていく木の葉のように見える。
地面にとどく少し前に、彼女に拾われたようだ。
私が近づくと彼女は目線を上げ、にっこりほほ笑み
「こんにちは、景都。」
「なに、飲みたい?」
とメニューを渡してくれた。
午後の光が彼女の額に差しこんで
まろやかな陰翳が、生まれてくる。
私が運ばれてきた林檎のお茶に口をつけると
美砂子さんは唐突にきりだした。
「景都には今度の舞台、主役をやってほしいんだ。」
林檎の甘酸っぱい湯気が
現実味のない言葉を見えなくさせてしまった。
「何て・・・?」
美砂子さんは、私の反応を予想していた、という顔で
「景都が次の主役だから。」
ときっぱり言った。
今度こそ嘘だと思い、大声で笑い出したくなったが
実際は冷や汗が背中を流れるのを感じていた。
午後の喫茶店のたわいないお喋りが
べたべた私のからだに触っていたけれど
私はなにも感じられない。
目の前にいる人の、言葉だけ。
わたしの身体に、刺さっている。
*
美砂子さんはその昔
少々アンダーグラウンドな劇団に属していて
そこで男性の役を演じていたらしい。
「メンバーに男はいたんだけどね。監督さんがわたしを好きでね。」
その監督さんはいまの彼女のパートナー。
私もオーディションの最後に会ったけれど。
長身で切れ長の目をした、猫みたいな女の人。
「牧さんは私のこころを動かす天才なの。演じるものとしても、一人の人間としても。
彼女なしでは、こうして私になれなかった。」
そう言ってふと遠くを見た彼女は、なんだかいつもの彼女と違う。
この人はもしかしたら私が思うより、ずっと繊細で壊れやすい人なのかもしれない。
「時の城」は、古典の作品を主題はそのままに
現代のアレンジを加えた、それだけ聞けば割とオーソドックスな作風の劇団だ。
最近メンバーの何人かが海外で前衛的なダンスを学んできたらしく
その経験を生かす作品づくりの為、フレキシブルに踊れるダンサーを欲していたらしかった。
小さい頃から続けてきて、一番自信があるのはバレエだが
並行してタップダンスやモダンダンス、日舞など
ありとあらゆるダンスに手をつけてきたので
その点わたしは適任だろうけど。
「景都、牧さんと話し合ってきた役のイメージそのままだったから。
実は顔を見た瞬間に決めていたの。」
次の演目は、「牧神の午後」をモチーフにした
森で生まれ育った妖精と、少年の物語だそうで。
「牧神の午後」といえば主演のニジンスキーが
恋したニンフの衣服を敷いて、その上で自らを慰めたという
物議をかもした、あの性的な場面が印象的だけれど
なにより彼の独創的な振り付けは
当時の人々を驚かせ、ダンサー達でさえ
踊りこなすのに一苦労だったとか。
「景都には、その少年の役をやってほしい。」
えっ。妖精かと思ってた。
まるいドーム型の洋梨のケーキに、ぶすっと
フォークを突き刺してしまった。
「イメージはヨーロッパの、地中海辺りの美少年。
鬘をかぶってもらうわよ。」
ということは。
一応、男性の役ということになるのか。
「わたしが色々教えてあげるからね。」
美砂子さんは楽しそうにうふふ、と笑っている。
私は、一度にいろんな事を言われて思考が停止してしまい
とりあえず目の前のケーキをぱくぱく頬張っていた。
建ち並ぶビルの一群が、今では夕暮れ時の色をしている。
家路を急ぐ人たちが、風に巻き上げられて
帽子や傘をおさえながら、次々通り過ぎてゆく。
何故だか、瑠璃のことを思い出した。
彼女は今、なにをしているのだろう。
帰ったら話を聞いてもらおう。
彼女がどんな顔をするのか、興味がある。
*
私にとっての、"男の人たち" は
体の、生理的な欲求を満たし合って
ちょっと楽しい遊びのムードを一緒につくれる
一時を共にすごす、キャラバンの同乗者。
深くわかり合うことよりも、刹那的な快楽を求め合うのが
性にあう、そんな人と私は関係をつくってきた。
長い間、彼らの家を渡り歩いて生きていたので
とにかく鍵だけはたくさん持っていた。
この世界で、退屈しないで軽やかに飛ぶために。
違う扉、その後ろに漂う様々の生活。
違うからだに通る、違う声。
彼らを取り巻く空気には、何かしら一貫するものがあったが。
私はそれに巻きこまれそうになる度、移動した。
ある人が私に言った。
「景都はサボテンみたいな人だ。
棘があるのに優しいからね。」
その朝、ふたりは清潔なシーツにくるまって
子供みたいにいつまでもごろごろしていた。
本当は寂しがりやだけれど臆病だから
いつも相手と距離が欲しい。
そのための棘なのよ。
私は言いたいことを黙っていた。
「棘がぜんぶ消えた姿を想像してみて。きっとまるっこくて可愛いよ。
それに、あんなに綺麗な花を咲かせるじゃないか。心は優しいにきまっている。」
彼は、大学の先生か何かだったろうか。
哲学しちゃって。
彼はベッドから出て、キッチンでコーヒーを淹れ始めた。
「なぁ、景都の夢って何?」
彼が、私のぶんのコーヒーを手渡してくれた。
私は、ベッドの上に座り直して答える。
「飛ぶこと。」
わたしの本当の姿になって、飛んでいくこと。
いったい何処へ?
「景都は、風だもんな。」
またよくわからないことを言っている。
けれど彼とのお喋りは、でこぼこな自分を平らにしてくれるようで
嫌いじゃない。
「ミルクをちょうだい。」
「ん・・・待って。」
彼はそういうと、私に覆いかぶさって
コーヒーの続きを、飲ませてくれなかった。
勝手な人。
*
家に帰ると瑠璃は、夜ご飯をつくって待ってくれていた。
祖母仕込みだという彼女の手料理は、素朴でじんわり温かい。
ヘアバンドにおでこを出した、素顔の彼女は
笑った顔もふにゃっと力が抜けていて
きりりとした仕事モードの彼女と別人のようだ。
主役の話をまるで自分のことのように喜んでくれたので
私はやっと、事態を冷静に受け止めることができた。
「なにか私にできることがあったら言ってね。」
「お弁当とか、よければつくってあげるから。」
さすがにそれは遠慮したけれど
無邪気に嬉しそうな彼女を見ていると
私も、わくわく胸が高鳴ってくる。
「それで、なんの役なの?」
そう言われて、私はふと考えた。
主役ということは、演技をしなければならないということだろうか。
急に黙った私を、瑠璃はきょとんとした顔で見つめる。
踊ることばかり考えていて、大事なことを忘れていた。
大きな溜息をついた私に、瑠璃はくすくす笑って
「ご飯、お代わりする?」
空っぽになったお茶碗に、ご飯をよそってくれた。
美砂子さんと別れた後、興奮で少しおかしくなってしまった私は
帰り道、走ったり飛び上がったり、たまに回ったりしていたので
お腹がぺこぺこだった。
「たくさん食べて、お稽古頑張らなくちゃね。」
瑠璃のあったかい笑顔を目の前にすると
心がほどけて、静かになっていく。
稽古は三日後に始まる。
一体どんな毎日が、私を待っているのだろう。
ポケットの中のふたつの鈴は
今では嬉しそうに鳴っている。
また帰ってくるよ、そんな約束が
今のわたしを、しなやかに飛び上がらせていた。
*
砂のうえを素足で歩く。
わたしのかたちに砂が分かれて飛んでいく。
ほら、もう見えなくなった。
そんなに悲しがっても、
もうここにはないんだよ。
立ち止まっていたら次の風は
あなたを置いて、いってしまうんだから。
歩き出すためのその心まで
積もった砂に、足をとられてしまったのね。
凍えてしまったあなたの手。
震えることさえ止めている。
空を見つめて探さないで。
私は今こうして、あなたの近くに立っている。
どのくらい、こうしていたの?