わたしのこと
彼女を失ったとき
砂のようにさらさらと涙が流れた。
私の心はその時から、大切な時ほど
うまくものを考えられない。
*
「お父さんに恋しているみたいね。」
私が父の話をすると、よくこんな風に笑われてしまう。
私の父は本の装丁に携わる、その道で名の知れたデザイナーだ。
デザイナーという呼ばれ方を彼は嫌う。
彼の洋服箪笥のなかには、服の代わりに本が詰め込まれている。
活字で人生を飾りたい人なのだ。
父の書斎の、こもった本の匂いが好きだ。
彼に読まれるのを待つもの、読まれたあとのもの。
私は、彼がページをめくる前の本には触らない。
父は本達を一番美しい姿で送り出すため、たっぷりの時間と愛情を注ぐ。
何度もめくられた皺だらけの本は、彼の思考の痕がぎっしりと重い。
彼のデザインは甘美で、そして何処か、禁忌的だ。
初潮を迎えた少女の、血が染みたスカートの裾。
虫をなぶり殺す時の、少年の恍惚に濡れた瞳。
父の装丁は、だから純粋な愛の物語よりも
秘密や、少しの狂気によく映えた。
今の仕事を選んだのは、父のいる世界に少しでも混ざりたかったから。
父は私の憧れのすべてだった。
それは彼が、彼女に恋の思い出を残した人だから。
私は、彼のことをなんでも知りたいと思う。
今日まで私は、この密やかな胸の疼きを
父への執着へすり替えてきた。
*
彼女はいつでも桜色のワンピースを着ていた。
まだ2人が結婚する前、父が贈ったそうだ。
彼女はたまに起き上がると、窓を開けて頬を風に当てている。
肩の上で揃えた髪が、羽のようにふわふわと揺れている。
私の足音で、彼女がゆっくり振り返る。
世界の輪郭がにじんでゆく。
高校生の私は、セーラー服を急いで着替えて
レモンティーを作り、彼女の部屋へ持ってゆく。
私は小さな子供のように息を弾ませる。
彼女はにこにこしながら私の話を聞いている。
学校のことやボーイフレンドのこと
勉強のこと、なんでもいいのだ。
彼女の新しい表情を見つけると、それだけで私は胸がどきどきしてしまう。
彼女は身体が弱く、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。
私ができた時、家族中で彼女が子供を持つことについて話し合ったそうだ。
幸い、私を生まないという選択肢は誰一人もっていなかったらしく
私は少なくとも望まれてこの世界にやってくることができた。
彼女は、本当に命がけで私を産んだ。
誰にも信じてもらえないが
私は出産中、彼女の命の光が消えかけた瞬間を今でも覚えている。
手を伸ばしたが、死はもうすでに身体の半分を手に入れていて
彼女は青ざめてぐったりとしていた。
私はその時、生命の大きな営みの前では
自分は無力な存在なんだと、小さな体で受け止めようとしていた。
しかし彼女は逆らったのだ。
あれが母性というものの激しさなのかもしれない。
死に抵抗する彼女の目は獣のように爛々と、輝いていた。
生死の境で喘ぐ彼女の、その美しい姿を
私は今でも夢に見る。
生を選んだあの瞬間、彼女は誇りに満ちていて
神秘的な香りを身にまとっていた。
それは彼女のなかに息づく、愛の風景。
私をこの世に連れてきた、ある恋の物語。
そうしてやってきた小さなわたし。
彼女を奮い立たせた歴史のすべてが愛しくて、そして嫉妬をしてしまう。
生まれてきた私を見たとき、汗だくの彼女は涙をこらえ
そうっと私に触ったらしい。
*
母は私を長い時間抱くことができなかったが
いつでも添い寝をしてくれた。
母の肌は白く
瞳はしん、と静かだった。
しかし彼女の心から、病弱な自分を憐れむような言葉は一切聞こえてこなかった。
実際彼女は明るく、起きているときはよく冗談を言って私達を笑わせた。
大切な宝物の女の子、という気持ちをこめて
私に青い宝石の名前を贈ったのは彼女だ。
彼女の歌ってくれた子守唄は、優しく耳に心地よかったが
なにか厳しく凛々しい情景を、いつでも心に語ってくるのだった。
白い露に濡れて 咲く花
高く青く光る あの空より
エーデルワイス エーデルワイス
明るく匂え
高い山の上にたたずむ清廉な姿。
彼女の魂がこぼれてくる。
私はそれを両手ですくい上げて、
小さな胸にしまって置いた。
*
景都が、台所でざぶざぶ顔を洗っている。
私を見つけると、にかっと歯を見せて笑った。
「おはよう。」
洗いざらしのTシャツから
すらりとひきしまった筋肉質の足がのぞく。
ライムグリーンのペディキュアが、彼女の動きに合わせて
きらきらとかわいらしく光る。
ラジオから流れてくる音楽にのせて、自然と彼女は踊り出す。
空気の裂き方が独特な人だ。
まろやかさと容赦のなさが、水の中に一人取り残されたような気持ちにさせる。
彼女は語りかけてくる。
あなたに翼があるのなら。
あなたも一人で飛べるなら。
あなたもここへ乗っていい。
彼女はわたしを見てふふふと笑って動きを止めると
朝日に向かってあくびをした。
*
彼とは、別れた後も親しい友人として話をする仲だ。
会社も同じなので、昼休みはよく一緒にご飯を食べる。
その日、話題は自然と景都のことになった。
「瑠璃がそんなことするなんて、驚きだよ。」
「どうして。」
「だって一緒に住もうって言った時、考えさせてって何か月も待たされた。」
「・・・」
「かと思えば、僕が追い出された後もわたしは引っ越さないとか言って
頑固にあそこに住み続けてたよね。」
「追い出したなんて、人聞き悪いなぁ。」
私はふくれながら、海老のスパゲティを口に運ぶ。
彼はにっこり笑って言った。
「今度景都さんに会わせてよ。」
*
あの夜、星のしたで彼は
いつもよりずっと感傷的だったし
いつもよりずっと激しく私を抱いた。
彼と出会って、恋愛というのは
お互いが抱えるどうしようもない寂しさが共鳴しやすいもの同士が
寄り添って、労り合いながら生きていくことだと思うようになった。
「妹は走るのが好きでさ、よく一緒に走りに出かけた。」
「実家はここみたいに山に囲まれてるから、濃い緑の匂いが懐かしいな。」
私は彼の横顔を見ながら何度も相槌をうった。
彼は心まで裸になっているようで
なんだか羨ましくなった。
こんなに大事な時に、どうして私はぼんやりしているのだろう。
最後の扉が開かない。
「瑠璃のお母さん、どんな人だったの。」
彼は私の手を握って、腕から肩へ滑るようにキスをした。
わたし。わたしは・・・。
声にならない声が、私のなかで堂々巡り。
彼はもう一度私のなかに入ろうとしている。
もう一度会いたいなんて思わない。
ただわたしは・・・。
少しの痛み。
彼の体は満たされていく。
本当の愛の世界を、私はもう欲しくない。
この思いを誰かに渡してしまったら
何にすがって生きていけばいいのだろうか。
わたしが壊れてしまうのが怖い。
彼は果ててしまったあと
大きく息を吐いて、私達は優しいキスをした。
「 愛してる。」
星座が川のように空を流れていく。
私の心は空のうえ。
彼のもとには、無いのだった。
*