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あなたへ

朝の光が、たゆたいながら海の色を蘇らせていく。

コバルトブルーの宇宙が、はにかみながら唄い出す。


瑠璃という美しい石の名は、

彼女の胸の奥に流れている、しっとりとした音楽そのものだ。


人の心を掻き乱し、疲れた身体を包み込む。

私は呼吸を失いながら、まどろんで目を閉じる。


水面にこぼれた小石が、永遠の輪を描き

その輪に足を取られて、私達は逃げられない。


足元に小さな青い花が開き、一面に広がっていく。

獰猛な花達は、私達を飲み込もうと迫ってくる。


私は彼女の手を取って走り出した。



あの人を初めて見たときのこと、今でも鮮明に覚えている。


彼女は淡いグレーのロングコートを着て

毛先を巻いた髪を風になびかせながら

大通りの方へ歩いて行った。


後に、甘い余韻が残った。


幼い頃、春の縁側で妹と口ずさんだ

フォーレの「シシリエンヌ」が聞こえてくる。

母が繰り返しピアノで弾くから

その曲は私達のなかで育ち、少女から大人へと変わっていった。


萌芽のような、あのメロディーが

私のなかに響き渡っていた。


ブランコから降りて、透明な空を見つめた。


雪の花びらが降りてくる。


私はその公園から離れられなくなってしまった。



「まいったなぁ。」


私はATMの前でため息をついた。


そういえば貯めたお金で

サボテンを集めて窓辺に並べたり

近所の寂れた映画館で白黒の外国映画を見たり

公園の噴水におもちゃのボートを浮かべたり


そういう小さな遊びを毎日してたっけ。


ご飯はボーイフレンド達に奢ってもらっていたから

だいぶお金は浮いたと思ってたんだけどな。


そういえば上京する前最後に会った彼。

無精髭がみっともなかったなぁ。

剃るか抜くかしてあげれば良かった。


そんなことをぼぉっと考えていたら

いつの間にか私の後ろには長蛇の列ができていて

買い物袋をさげたおばさんから思いきり舌打ちをされた。


私はにっこり微笑みを返してカードを財布にしまうと、商店街を歩き始めた。


行くあてなんてなかった。

心には羽根がついていて、今すぐにでも飛んで行ってしまいそうだ。


アーケードが雨に濡れている。

私は深呼吸をして、当てずっぽうにバスに乗った。



風力が0なら、自分で風になればいい。


私は自分のエネルギーが滞るのを恐れていた。

きちんと動かさなければ、それはいつか私を押しつぶすか

私を置いて駆け出していってしまうだろう。


踊るとき、私はしばしば自分を失った。

境界線はぼやけ、私は世界とひとつになる。


私が世界になってゆく。


感情の扱い方はいくつになっても分からなかった。

私は感情的になると身体がギシギシと傾いていくような感覚に襲われた。

自分で自分が扱いきれない。


踊ることはそんな自分の激しさから逃れる為の

ひとつの手段だったのかもしれない。


しかし、私の地元でダンサーとして生きていくのは難しいことだった。


馴染みのバレエ教室でアシスタント講師として働いてはいたが

私は人の面倒を見るのには向いていない。


もどかしい気持ちが、体にじわじわ溜まるのを感じていた。

一人遊びをしても、男の人と寝てみても

私の心は晴れなかった。


ある日の夕方、スーパーのレジでお金を払っていた時

私は急に全ての血管から血が吹き出していくような感覚に陥って

体中がかゆくなり、気づいたときには東京行きの夜行列車に乗っていた。


狭い寝台の上で寝返りをうちながら、

私はやっと普段の体の感覚を取り戻し、眠りについた。


朝まで、まだ時間がある。



その公園は、とても狭いのに大きな滑り台とブランコがあって

なんだかアンバランスだったが、そのことは私の気持ちを落ち着けた。


マンションのそばだったが人目につきづらく、夜は静かだ。


寒ければ踊ればいい。


私は早速電話帳でバレエ、演劇と名の付くところを調べ上げ

片っ端から電話をかけた。


とあるバレエ教室の受付のお姉さんが、

友人が劇団を主催していると言って電話番号を教えてくれた。


早速電話をかけると、近々オーディションでメンバーを増員するらしい。

ダンサーも募集しているらしかった。


私は時間と場所をしっかりメモして、オーディションに備えて

体づくりをし始めた。



四日目の朝、ランニングをしていると

急にお腹が痛くなって立てなくなってしまった。


何か悪いものでも食べたかなぁ、なんてぼんやり考えていたら

「大丈夫ですか。」

と、声をかけてくれた人がいた。


顔を上げると、そこにいたのはあの人だった。


私はびっくりして、そしてこんなに早く突然に

あの人との距離が縮まってしまったことが悲しくなって

何も考えられなくなってしまった。


まだ始まって欲しくなかった。

始まったら終わってしまう。


彼女は大きな瞳で心配そうに私を見ていた。

ベージュのマフラーを巻いて、寒さで頬を上気させている。


麗しい人、とは彼女の様な人のことを言うのだろう。


彼女は儚げだったが、暗闇に分け入っていくことを恐れない

一種のたくましさを感じさせた。

どこまでも堕ちて行けそうな危うさと、健全な優しさが混在している。


彼女をこのまま見つめていたい気持ちと、今すぐ消えてしまいたい気持ちに

挟まれて、息ができなくなりそうだった。


どうやってその場を離れたか、うまく思い出せない。


連絡先か何か、聞けばよかったかな。

逃げ込んだコンビニでチーズケーキを買って、公園のベンチで食べた。


小さな女の子が、滑り台で一人遊んでいる。

登っては滑り、登っては滑り。


私はなんだか頭に血が上ってきて、猛然とフェッテを始めた。

ぐるぐる回る私に女の子は目をまんまるにして、滑り台のてっぺんで固まっている。


私は彼女の栗色の髪がかかった細い肩を思い出していた。

触れたら私の方が壊れてしまいそうだ。


椿が首から落ちるように

開いたままで、死んでしまう。



指定された場所は都心に近く、人の多さに吐きそうになったが

劇団の建物自体は閑静な住宅街のなかにあった。


壁には色とりどりのタイルが貼ってあったが、

色調が暗かったので落ち着いた雰囲気を醸し出していた。


「劇団 時の城」という小ぶりの薔薇が彫られた硝子の表札。

隣にレトロな呼び鈴らしきものが付いている。


手で押すと、リーンと小気味好い音がした。


中から、ギリシャの彫刻の様な顔立ちの人がふっと現れた。

ストレートのロングヘアーだったのできっと女性なのだろうが、

その凛々しい出で立ちは中性的で、私はしばらく見とれてしまった。


「こんにちは、私は美砂子。よろしく。」


差し出された手をこわごわ握ると、意外にも柔らかくて優しい手だった。

少し話をすると言葉の端々に素朴で誠実な人柄がにじみ出ていて

私は安心しきって子犬のようになついてしまった。


美砂子さんは劇団について少し話をした後、私を奥の小部屋に通した。

部屋の隅で黄色のインコが飼われている。


私は着ていたペールグリーンのコートを鳥かごの横に置いて、ジゼルを踊り始めた。


美砂子さんが、鋭い目つきで私を見ている。

二人きりで狭い部屋で向かい合っていたので、どきまぎしてしまった。


音楽のなかに沈んでいく。

私はすべてを忘れて、時間の中に溶けていった。



帰り道、私はしょんぼりしていた。

ひと通りジゼルを踊ってすっきりしたのも束の間

初見の台本を渡され、演技を見られたのだ。


そりゃそうだ劇団なんだから。演技も審査されるに決まってる。


それなのにどうして演技の練習をしなかったのか。

それは私が演技が大嫌いだから。


自分の感情を自分以外の人間として外に出すなんて、私が一番苦手なことだ。

そもそもこの激しい感情の居所が掴めたら、私はもっと自分とうまく付き合っている。


踊っている時でも、感情をさらけ出すことは私にとって難しかった。

振りを繰り返し稽古して体に落とし込んで、そうして初めて味わえる自意識の喪失と

体を動かすことで得られるシンプルな爽快感。

それをたっぷり味わいたくて、私は踊る。


主役に花を添えるダンサーでいたかった。

一番前に出るより、少し後ろに下がって自分を突き詰めていたい。


肩を落としながら、お茶でも飲むかと喫茶店に入った。


席につくと、隣にあの人がいた。

目をぱちくりさせて、私を見ている。


今度はとても嬉しくなってしまった。

気分が落ちていたから、思わぬ再会が奇跡みたいに感じられた。


私は走り出した心を抑えられなくて、彼女の向かいの席にコートを置いた。

彼女はちょっと驚いて、大きな瞳が更に丸く大きくなった。


人見知りなのかな。


私は思いつくことを、片っ端から喋り続けた。

東京に来てから、銭湯のおばあちゃん達以外の人と話したのは久しぶりだ。






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