風のない海
耳のうえの
冷たい、魚のピアス。
指で触ったら
泳いで帰ります、と呟いた。
止め処なく降り続ける雨が、
海を造っている。
哀しみの気配がする。
なにか、思い出せないことがある。
誰かに、目隠しをされた。
"一緒に行きたいんでしょう"
頷く、海へ落ちていく。
深くふかく、沈んでいく。
あと少しで、海底に手が届く。
海の切り口が、もうこんなに遠い。
波が雲のようにたなびいている。
天使が、泳いで渡っていく。
あのピアス、
本当は人魚だったんだ。
ずっと近くに居たのに
どうして気づかなかったんだろう。
彼女はゆっくり近づいて
耳元で囁いた。
"このことは、内緒よ"
瞳はまるで、水晶のように
光を集めて、輝いていた。
「眩しい。」
目を細めると、ずぶ濡れになって
学校の音楽室にいた。
不思議な夢だった。
*
鏡に囲まれた練習室。
いつもなら、自分しか見えなくなって
集中できるけれど。
今はすこし、息苦しい。
泣き腫らした目がふたつ
赤い星のように並んでいる。
音楽を流して、体を伸ばす。
ドビュッシーの「海」
心に寄せては引いていく旋律。
泡の音ひとつも忠実に
音符が拾って、届けてくれる。
心の波長を水と合わせて。
床を滑っていく手足を
他人のように眺めていた。
踊ることは、裏切らない。
真摯に身体を動かせば、
快い疲れで満たされる。
求めれば、与えられる。
人は、そうとは限らない。
小さな頃から、身に染みて知っていた。
突き放されるかもしれないと
覚悟する癖がついている。
だから、無邪気に求めたりしない。
音楽をとめて、寝転んだ。
汗の雫が、ぽたぽた床に落ちていく。
彼女の肩に、髪に。
彼は、その手で触れていた。
すぐに背中を向けたから
表情までは、わからない。
なぜ、傷ついているのだろう。
彼女と同じ家に帰り着いて
それだけで幸せだったのに。
欲しがっても虚しくなるだけだ。
感傷的になるだけ、勿体無い。
息を吐いて、立ち上がろうとすると
かちゃりと扉の開く音。
彼女の、線を引いたような黒髪が
紅い革のジャケットに映えている。
「迎えに来たわ。」
「恋人の頼みだからね。従ってもらうわよ。」
わたしの額に手を当てて、彼女は言った。
「馬鹿ね。」
「傷だらけのくせに、まだ走ろうとするの?」
精神の騒めきがやんだ。
夏祭りの出店で
動きを止めた、風車の群れ。
誰にも、買ってもらえなかった風車。
彼女の肩にもたれて、暫くそのままでいた。
*
手をひかれて、バスへ乗りこんだ。
行先は告げられなかった。
通勤ラッシュの時間は過ぎていたが
車内には人の体温がこもっていた。
ひとりなら、ただ不快だったろう。
けれど今は、隣に彼女がいてくれる。
「景都は、何をしているときが幸せ?」
牧さんの、パープルのアイシャドウが
煌めいてひかる。
私はすこし考えて言った。
「夜寝る前は、幸せを感じます。
今日も一日終わったなぁって。」
「踊ることは?」
「踊ることは、しないと精神が死んでしまうことです。」
「幸せとは、すこし違うような。」
「そう。」
窓硝子がくもっている。
やっぱりこのバス、熱がある。
「私も似たような思いをしたわ。」
停留所に止まって
何人かの乗客が吐き出されていく。
「昔、もっと若い頃に。」
交差点で、車のライトが回っている。
「美砂子と出逢って、少し変わったの。」
彼女は優しい顔をして言った。
どんな風に?
そう聞くと顔を少し傾けて
「答えは言わないわ。自分で見つけるでしょう?」
三日月のように緩んだ瞳。
私は、上手に笑顔がつくれなくて
窓の外に目を向けた。
街路樹のなかに、鳥が隠れている。
牧さんは私の頭に手をのせた。
彼女の手のひらは、大きくてあたたかい。
*
辿り着いたのはマンションの一室。
表札に「常盤・五十嵐」と書いてある。
ここは二人の住いのようだ。
もちろん来たのは初めて。
言われたとおりにノックすると
とんとん、と足音がしてドアが開いた。
そこにいた女の子は
目をまるくして、私を見た。
私達は、お互いそっくりの表情をして
暫く見つめ合う。
瑠璃の瞳から、涙がこぼれた。
おろおろして下を向くと
「ちょっと〜・・寒いんだけど!」
牧さんから、ぱんっと背中を叩かれた。
「早く入って。夕飯の支度できたわよ。」
美砂子さんがひょこっと顔をだした。
彼女の顔を見たら、なんだか安心して
私まで泣いてしまった。
「泣き虫景都〜!」
何か言いたかったのに、言葉が出ない。
涙がとまるまで
もう少しだけ、待っていて。
*
みんなでお鍋を囲んだら
まるで一つの家族みたいだ。
初めてここに来た時は
誰も知った人がいなかったのに。
今は、こんなに暖かな時間を
共に過ごせる人達がいる。
こういう種類の幸福を
昔は信じていなかった。
「それじゃあ美砂子はもらっていくから~!」
十二時ぴったり。
ほろ酔いのふたりは、奥の部屋へ消えていった。
リビングに、二人分の布団を敷いて
今夜は、泊まっていくことになった。
電気を消すとすぐに
家具は夜の顔に変わっている。
部屋の隅の観葉植物は
月の光で、濡れていた。
「いっぱい話したね。」
「うん。ふたりとも素敵な人達。」
枕を並べて、向かい合う。
泣顔を見られたから、照れくさい。
牧さんに借りたパジャマが
瑠璃には少し大きめだったようだ。
一番聞きたかったことを尋ねた。
「あの人誰?」
瑠璃は少し間を置いて、言った。
「前の、恋人。」
そうだろうな、と思っていたけれど。
眉間に小さく皺をよせた。
「元に戻るの?」
「ううん。」
「彼、景都に会いたいって家に寄っただけ。」
「でも、瑠璃に触ってた。」
言葉じりが鋭くなって
思わず背中を向けた。
あの人は、瑠璃をさらって行くだろうか。
居なくなってしまう前に
大切さに気がつけただけ
わたしは幸せ者だろう。
ふたりの間に、
時のない沈黙が流れる。
次の言葉を紡ぐのはわたし。
だけど、喉の奥に詰まって
一人では、取り出せそうにない。
ううん、取り出す必要なんてない。
さよならするのなら
もっと表面だけの言葉で
心のなかを、悟られないように。
枕を指で、ぎゅっと押して
目をつぶる。
「ねぇ・・・。」
「あんな風に出て行ったりしないで。」
「誰かが急に消えたりするのって、嫌だから。」
瑠璃は、ぽつりと言った。
「これからも、一緒に居てくれる?」
その魔法のような言葉を、
もう一度頭のなかで反芻して
ゆっくりと振り返った。
今どんな顔しているんだろうわたし、
ちゃんと嬉しそう?
瑠璃の目のなかの自分を、じっと見つめた。
「景都、泣いてる。」
鮮烈に、胸の奥が染まっていた。
強い衝動と恐れ。
わたしは怖くてたまらない。
あなたが欲しい。
顔を隠そうとしたら
瑠璃はそれを手で制して、言った。
「好きよ。」
思考が溢れていく前に
体は確かな反応を始めて
何のためらいもなく、
私達は唇を合わせていた。
知っている気がした。
この女の子を、遥か昔から。
同じ樹に、隣りあった若葉は
別れても、風が引き合わせてくれる。
花が編まれて、冠を作るように
一度抱き合ってしまったら、離れられない。
「あなたがいいの。」
私はもう一度キスを返して
彼女を抱きしめた。
甘い香り。
花の香り。
目を閉じると、瞼に夜が染み入るようで
無性に哀しくなってしまう。
「もう一度」
私達はまたすぐにキスをして
そう、数え切れない位に。
ふたりの体の間に空いた
隙間を埋めるように、多く。
世界に取り残された姉妹は、
手を取り合って
新しい世界へ歩みだす。
ふたりでいることが、自由だと
そう感じられた初めての夜。
*
二部へ続く