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水に流して


雨上がりは憂鬱だ。


空が火を灯して

世界がすこし、明るくなる。


台所でお皿が割れたようだ。


彼女の、内面の不安定なとき

決まって一枚お皿が割れる。


ぱらぱらと、くずかごの壁を撫でていく破片。


雨が好きなのは、深海にいるようだから。

人に侵されない世界で、生きる魚達の頬杖。


部屋の明りを消して、ベットにうつ伏せて。


わたしの居場所と彼らの世界のこと

さっきまで降っていた雨のこと

順繰りに考える。


雨の雫に、しとしと濡れた後の格子窓。


"後悔しているの?"

誰かが私にそう聞いた。


私にとって、泣いてみせることは簡単だった。


それは遊びのようなもので

誰かを喜ばせるために

要らない言葉を掃うために。


作り物の涙は、心の作用を必要としない。


ただ、息を吐くように

池に小石を放るように。


軽く、。


「姉さんは冷たいわ。」


母が出て行った朝

妹は、両手をぎゅっと握りしめ

叫ぶように泣いた。


わたしは、怖くて泣けなかった。

本当に哀しかったから。


心が、割れてしまったら

破片は見つからないだろう。



雪解風が吹いた。


季節の変わり目は、緩やかにやって来るから安心する。


雅とふたりのシーンのお稽古。

彼女は髪を編み込んで、リボンでくるっと束ねている。


綺麗な色だね、と声をかけると

ウィンター・ローズです、と微笑んだ。


私は、青とグレーの縞のシャツに着替えて

準備体操を始めた。


今日はいつもより、体がすっきりとしている。


瑠璃が昨日つくってくれた、蒸し野菜を

たっぷり食べたおかげかな。


美砂子さんがラジカセを持ってきて

一曲、流し始めた。


リストの、「ため息」。

合わせて、雅がゆっくりと体を反らせていく。


わたしは床に腰をつけて

耳を澄ませるポーズをとる。


花をそっと岸辺へ渡すルイス。


木陰から、そっと顔をのぞかせるローサ。


爪先でトゥ。

パッセから、ピルエット。


可憐な脚さばきに、

芯のしっかりとした軸。


スカートの裾のレースが

一緒に舞っている。


ルイスのストールを手に取ると

肩に掛けて、愛おしそうに顔を寄せる。


頬は紅潮して、指先までじわりと赤い。


「もっと自分流に踊りなさい。」


汗を拭いながら、頷く雅。


しばらく、雅のソロを練習をすることになり

私はもう一つの練習室に移った。


男性ダンサーのひとりが居たので

細かく動きを微調整してもらった。


彼は、体格のわりに物腰が柔らかく

独特の、和やかな雰囲気の青年だ。


女性特有の筋肉の動きも熟知していて

話していてとても勉強になった。


お昼に、サンドイッチ屋さんのトラックがやって来た。


「一旦休憩!」


ぱたぱたと階段を降りていく足音。


雅は、蜜柑のフルーツサンド。

私はツナと胡瓜のサンドイッチ。


「雅、バレエも演技も上手だね。」


練習室の床は、磨き上げられて

まるで水面に座っているようだ。


「一通りこなせても、自分の色がなくては駄目です。」

「いつもここでつまづくんです。人って変われませんね。」


淋しそうな彼女の横顔。


「景都さんは、雰囲気のある人だから

踊りにも世界観があって、羨ましいです。」


昔、主役より目立つという理由で

役を動かされたことがあった。


表情が上手くつくれないから

真ん中に立つことは勿論できず

先生はいつも配役を悩んでいたっけ。


私を主役に選んだふたり。


「そういえば、美砂子さんってどういう感じだったの?

その・・・男の人の役って。」


口の端についているクリームを

手で拭ってあげながら、聞いてみた。


「そうですね・・。優しい性格のために

周りのことを考えすぎて動けなくなってしまう、

不器用な男性を演じていることが多かったような。」



彼は電話の受話器を手に取ると

ダイヤルを回さずに喋り続けた。


本当は、愛していると言いたかった。

隠さずに言えば、幸せになれただなんて

信じられないけれど。


喋って、喋って、喋り疲れて

椅子に座ったまま眠ってしまう。


夢を見た。


一本道。

女性がひとり、向こうから走ってやって来る。


彼女は目の前で止まると、両の手のひらを

彼のそれと合わせた。


ぴったり同じ大きさだ。


「そうよ、わたし達双子なのよ。」


君のこと、どうして今まで忘れていたんだろう。


「忘れ物をしたから、汽車を降りるわ。」


彼女は目を閉じた。


「さよなら。」


そこで目が覚めた。


開けっ放しにした窓から風が吹きつけて

カーテンをはためかせていた。


彼はダイヤルを回した。

受話器の向こうに、愛しい人を見つけた。


忘れ物をしたんだ。



「景都は、どうして自分が女性だと思うの?」


午後の練習で

性別の違う役を演じることへの戸惑いを

そのまま美砂子さんに打ち明けた。


「そうですね・・生理があるから。

 胸もお尻も女性のものだし。」


「心は?」


心に性別はあるだろうか。

わたしは、女の心をしているだろうか。


「心は、裸だ。」


「心は、なんにだってなれる。」


「天使にも、悪魔にも。」

「動物でも植物でも。」

「水にも星にもね。」


何処から聞いていたのか、

ダンサーの男性たちが口々に呟いた。


コップのなかの水をじっくりと見つめると

水と私の境界線が、だんだん無くなって

わたしが水に、水がわたしに。


世界と私のボーダーラインの喪失。

踊りに没頭したときの感覚に似ていた。


「人はその、精神世界の広がりのようなものを

 思い出すために、劇場に足を運ぶのだと思うの。」


美砂子さんは、私の肩に手を置いて言った。


「だから、性別のことは考えないで。

 ルイスの生きる世界を感じて頂戴。」



「面白いわね。」


家に帰って瑠璃にこの話をすると

興味しんしん、といった風だった。


「でもわたしの心は、女だと思うわ。」


カップに、カモミールの香りが注がれる。


「自分が女だということについて、考え続けてきたから。」

「そのことは私の人間形成に大きく関わってきたの。」


少し黙った後で、瑠璃は付け足した。


「私の心は、自分が女だという事実に支配されているのよ。」


答えに困って、お茶を注ぎ足した。

「生理痛くらいかな、わたしが女であることの悩みは。」


私の言葉に、瑠璃はしばらく考えて言った。


「例えば、女の子が女の子に恋をしたら?」


お茶をごくっと飲み込んだ。

熱い液体が喉を通って、体を廻っていく。


母の手をひいて去ったあの人。


宛名をアルファベットで綴ると

ふたりをもっと、遠くに感じた。


切手を水に浸して、そのまま沈めてしまう。


「でも。」


「心で感じた真実に、人は結局、嘘がつけない。」

「嘘はついちゃ駄目なんだよ。」


それはその人が思うより強い力を持っていて

最後には自分自身を、一番傷つけてしまう。


「女の子の相手が男の子だなんて、誰が決めたの?」


言ってあげたかったんだ。

本当は、この言葉を。


若い頃の母に。

わたしと出逢うずっと前の彼女に。


瑠璃は目を伏せて言った。


「その子に、教えてあげなくちゃね。」



行くあても無く走り続けた。


最初から、この方が楽だったんだ。

帰る場所なんて、持たない方が。


いつもなら、好きなように

涙を止めることができるのに。


扉を開けると、知らない靴があった。


居間で、彼らは向かい合っている。

彼は彼女に触れていた。


蝶が花にとまるように。

蜜を吸うのは簡単なことだ。


自然で完璧な流れだ。


母のことを思い出したせいだろう。

胸が掻きむしられるように痛い。


何がこんなに哀しいのか。


橋を渡ると、林に出た。

人は誰もいなくなった。


わたしは声をあげて泣いた。


冬の空が、裂けていく。




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