表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

あなたと


私と景都が出逢ったのは、小雪舞い散る冬の朝。

その雪は空から降ってきた子どものように、無垢な光を放っていた。


出社の準備を整えた私が、いつもの様にマンションの入口の扉を開くと

彼女が、まるで野良猫か何かのようにじっとうずくまっていたのだ。


私が声をかけると、彼女はゆっくりと頭を上げてこう言った。

「どうして。」


そして私の目を真っ直ぐ見た。

彼女の瞳は磨き上げられた鏡のようで、私はその中に自分の姿をはっきりと見ることができた。


澄み切るだけ澄み切ってしまった。もう元には戻れない。


だからその瞳は、一種の切実な哀しみをたたえていた。


暫く、目が離せなかった。



「ごめん。ちょっとお腹が痛くなって。大丈夫です。」

彼女は早口でそう言うと立ち上がって、あっという間に目の前からいなくなった。


それきり会うことはないだろうと思っていたのだけれど。


数日後、会社の帰り道に寄ったこじんまりとした喫茶店で

彼女が私の隣のテーブルに座ったのだ。


彼女は私を見つけると、初めて会った時とは別人のように人懐っこい目をして


「この間は、ありがとう!」


と爽やかに笑った。

笑うと口の端にニコちゃんマークみたいな皺がよって、とてもチャーミングだった。


「隣、座っていい?上京したばっかりで友達いないの。」


私が答える前に、ペールグリーンのコートをさっと脱いで

私の向かいの椅子に置いた。


彼女は、とても不思議な耳の形していた。

子供の頃外国の絵本のなかで見た、妖精か森に住むエルフの様な。

目は離れていて、くりっと愛らしいアーモンド型だ。


小顔で、手足もすらっと長いのでモデルかと思ったら

バレエダンサーらしい。

髪をきっちり一つに結わえていて、確かに彼女はキャットウォークよりも

縦横無尽に舞台を動き回る方が合っている。


「私は景都。青森から来たの。みずがめ座のO型よ。」


あまりにもベタな自己紹介に、思わず笑い出してしまいそうだった。

そして彼女が同じ日本の生まれだという実感が全く湧かなかった。


彼女は東洋系の顔立ちだったが、どこか人間離れした雰囲気をまとっていて

動作の一つひとつに、音が無かった。


彼女は存在そのものが、匂やかな風だった。


幾つか私にも質問をしてきたが、青森からの列車が狭くてたまらなかったとか

東京の冬が暖かくて嬉しくなって薄着をしたら風邪を引いたとか

ほとんどが彼女の上京にまつわる話だった。

本当に話し相手に飢えていたのだろう。


彼女は時折、眉間に皺をよせて笑った。

少し疲れているようだった。


「そろそろ行こうか。」

私の言葉に、彼女は子供のように拗ねた顔をして残ったコーヒーをすすった。



「ねえ、景都さんは今どこに住んでるの?」

私が聞くと、彼女はちょっと顔を赤らめて下を向いた。


「公園」


私はテイクアウトしたカプチーノを吹き出しそうになった。


「お金があんまり無くて。ご飯はちゃんとしたもの食べたいし

北国育ちで寒さには強いから、となると住まいを節約かなって。」


彼女は、なんだかとんちんかんなことを堂々と言って

私をその公園に案内してくれた。


それは私のマンションの近くにある小さな公園だった。

元々もっと大きな公園だったのだが、今はその殆どがマンションの駐車場になっていた。

地元の子供達の為にブランコと滑り台は残されていたが、

子供達はもっとのびのびと広い別の公園で遊ぶようになったらしい。


とり残された二つの遊具は、今では遺跡のようにその時を止めている。


「寝袋持ってるの。最後まで迷ったけど、持ってきて本当に良かったな。」


彼女は公園の隅に植えられた金木犀の傍で眠っていた。

ベンチの上にはコップと電池で動く湯沸かし器が置いてある。


「通りがかりの優しいおじいさんがくれたの。」


よく見るとそのセラミックのコップには、雲の上で眠る鳥の絵が書いてある。


私はその全てがなんだか嘘みたいで、涙が出るほど笑ってしまった。

彼女はきょとんとしながらも、つられて楽しくなったらしい。


私達の笑い声は、冷たいしんとした空気のなかに吸い込まれて、

やがて見えなくなった。


「家においでよ。」


今でもどうしてそんなことを軽い気持ちで言ったのか、不思議に思う。


私は人並みに神経質だったし、人見知りをしたのに。



景都はその後すぐに荷物をまとめて家に来た。


中型のボストンバック1個に寝袋。

湯沸かし器とコップ。


彼女は驚くほど軽装だった。

重たいものは、全て彼女から剥がれていったようだ。


「ここが洗面所とお風呂。…そういえば、お風呂どうしてたの?」

「銭湯行ってた。そこで会ったおばあちゃん達にシャンプーとか借りて。

帰りに一緒にお茶飲んだりしたよ。」

「 東京って初めて来たけど、みんな優しいのね。」


おばあちゃん達に囲まれてお茶を飲む彼女を想像してみる。

天衣無縫な彼女は、可愛がられたに違いない。


彼女は、愛らしい瞳をくるくるさせながら家の中を探険している。

その足音は微かで、耳で捉えるのは少しむつかしい。


しかし私は、その小さくていたずらな風達を

肌にしっかりと感じることができた。


彼女がポニーテールを揺らして窓の方に走っていく。


「ねえ!ベランダがあるのね!」

「工場が見えるわ…煙突から煙が出ている…。」

「電車よ!南のほうへ走っていくわ…。」


彼女は見るもの全てにわくわくしているようだ。

私もベランダに出て、彼女の隣に並んだ。


「私、いつか誰も私を知らないところに行くのが夢だったの。

そうして、自分を真っさらなシーツみたいにしたかった。

まさか、公園に住むなんて思わなかったけどね!」


彼女はけたけた笑った。


太陽が、一日の最後の光を街に投げかけている。


「今日はパーティね!私、焼きそば作る!」

彼女はそう言うと、白いコインパースを掴んで外へ出ていった。


彼女は気づいただろうか。

つい先日まで、ここにもう一人の住人がいたことに。



佐竹さんは、私が勤めている広告会社に

専属のイラストレーターとして入ってきた。


歳は五つ上で、高校を卒業して昼間は飲食店で働き

夜はひたすらイラストを描く、という生活を長年送っていたらしい。


彼の作品は独創的、といよりは

すでに存在しているものを彼独自の解釈で変形させ

新しい世界を構築する、というものだ。


一本のペンのみで緻密な輪郭線を描く彼のスタイルは

彼が自身の孤独と寄り添って歩いた時間の長さと深さを感じさせた。


私は彼の色つきの作品より、モノクロのものを好んだ。

彼は黒を、白に媚びず、独立したものとして置いたから。


今まで社内の男性に言い寄られたことは何度かあったが、

関係を持ったのは彼が初めてだ。


初めて彼と寝たとき、最初から最後までずっと無言だったのに

終わった後突然歯の浮くような台詞を言ったので笑ってしまった。


そう言うと彼は

「一つのことにしか集中できないたちなんだ。」

と、照れ臭そうにしていた。


彼との思い出は数え切れないが、中でも印象的だったのは

彼と九州を旅行した時のことだ。


私達は、山奥の古い旅館に一週間ほど滞在した。

こんもりとした山の中にぽつんと建っているので、まるで神様が片付け忘れた玩具のようだった。


部屋には小さな露天風呂がついていた。

真っ黒な山のシルエットの上に、無数の星がこぼれ落ちそうに輝いていた。


最後の夜、二人でお湯に浸かって楽しかった旅行の思い出を振り返っていると

彼は、高校生の頃に亡くなった妹の話をし始めた。


「うまく言えないけど、妹は自分の死ぬ時期を知っていた気がするんだ。

普通の、健康な女の子だったけれど。車の事故だった。」

「僕は白いアマリリスの花を棺に入れたよ。その花が一番妹に合うと思ったんだ。」


そう言って私に長いキスをして、彼は星の数を数え始めた。

私は、いつか自分が細長い煙になって空に昇ることについて考えた。


天国はあの空よりも綺麗なところだろうか。



景都の作ってくれた焼きそばは、香ばしくてとても美味しかった。

「去年、夏祭りの出店で焼きそば作ってたの!」

彼女は、私がお代わりするのをに嬉しそうに眺めながらそう言った。


そしてビールをごくごく飲んで、床の上にまるまって眠ってしまった。


私は毛布をかけて、彼女の寝顔を見つめた。

長い睫毛が、刺繍のような影を頬に落としている。


「瑠璃、こっちに来て。床が冷たくて気持ちいいの。」


しばらく眠った後彼女はそう言って、私を布団の中へ招き入れた。


「ねえ、人間って本当に寒いところにいる時ほど

温め合えるって気がしない?」


私は佐竹さんのことを思い出して、目を閉じた。


景都の肌から、緩やかな熱が伝わってくる。


「明日の朝ごはん、何がいい?」

「う〜ん、卵焼き!」


私達は夜のなかで、取り残された姉妹のように体を寄せ合って眠った。

心を開けば、暗闇はその大きな手で私達を抱いてくれる。


「おやすみ、景都。」


白い月が、朝とゆっくり結び合う。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ