~雪色の笑顔と~ 前編
「そろそろ……かな」
上り電車を見送った俺は、入れ替わりでホームに入ってくる下り電車を待ちながら、踏切の音に耳を傾けていた。
19時55分。正確な時間を聞いたわけではなかったけど、”これから乗り換えるところ”と、途中駅からメールをしてきた時間から察するにもうそろそろ着く頃だろう。駅まで迎えに来てほしいと頼まれたわけではない。それは単純に俺なりの優しさ。ちょっとしたサプライズのつもりもあったけど、でもやっぱり少しでも早く逢いたいだけだったりもした。
ゆっくりと電車がホームに入ってくる。
電車が少しずつ速度を落として止まろうとするのと反比例するように鼓動は少しずつ早くなっていく。あの電車に乗っているのだろうか。しかし、残念なことに車の中からではホームに降りる乗客の姿を見ることが出来ない。仕方なく俺は改札で彼女を待つことにして車を降りた。
「寒っ……」
暖房の効いた車内から一歩外に出ると、さすがに年も末。そこは雪も降りそうなほどに凍てついた空気が支配し、さっきから外を歩く人を全く見かけないのも頷けるほどに冷え込んでいた。でも、それくらいに寒いほうが頭が冷えて、冷静になって彼女を迎えるのには丁度良かったかもしれない。そんなことを考えながら俺は改札の前でポツポツとまばらに出てくる人々をやり過ごした。
ガタンという音と共にモーターの回転数が上がっていく。電車が再び発車したようだ。
さてどうしたものか、彼女はまだ現れない。
もしかしてこの電車には乗っていなかったのか。そんな不安さえよぎり始めた頃だった。
(いた……!)
気付いた瞬間の顔は自分でも分かるほどにほころんでいた。でも、彼女のほうはまだ気付いていないらしい。いつ気付くか、どこで気付くか、一歩ずつその距離を縮めていく彼女をとても愛らしく思って見ていた。
腕に提げていたバッグの中からICカードの入った財布を取り出しそれごと機械にかざして改札を抜ける。そしてようやく顔を上げた彼女はその姿に気が付いた。
「あっ……!」
「迎えに来た」
軽く右手を挙げて答える。
「えっ、だって私、時間とか言ってないよ?」
「メールくれたから、大体これくらいかなって」
本当は1時間以上も前からここに居たことなど言えるわけがない。
1時間以上待っていたというより、時間の計算を間違えて1時間も早く来たのだから……。
「寒くなかった?」
「うん、車だから」
そう言って俺は停めてある車の方を少し遠慮気味に指した。
「外車とか高級車ならこういうのもカッコいいんだろうけどさ……」
「そうね。60点かな」
60点という評価に現実というものを見ながら、俺達は可愛らしい軽自動車に乗り込む。
「軽トラよりはいいだろ?」
「それ、0点」
普段日常で大活躍してくれている軽トラがあまりにも可哀想だろうと思いつつ行き先を尋ねる。
「家に送ればいい?」
「どっかイイトコでも連れてってくれるの?」
「馬鹿言うなよ」
「冗談よ。せっかくだから夕飯食べに行かない? 私まだなんだ」
「ああ。じゃあどこにしようか……」
飲食店の立ち並ぶ国道へ出るため、駅前の交差点を右折する。
「あっ、あれがいい、あそこ。去年帰ってきたときに行ったとこ」
それは自家製のパンや自家栽培の野菜を使った料理を提供している店で、去年の夏のオープンしたての時に2人で行った店だった。
「ああ、いいね。じゃあ……」
じゃあ……。
信号を左折して、次の信号も左折して……。
最初の駅前の交差点を左折すれば素直に行けたのにと思いつつ、俺は車を走らせた。
「でさ、その子にもやっと彼氏が出来たわけよ!
なんかもうそれだけでみんなで大騒ぎしちゃってさ」
半年間会えなかった分、色々と話したかったことも溜まっていたのだろう。面白い教授の話、レポート課題の話、新発見したスイーツのお店の話。そして今は、男性が苦手だったという友達に彼氏が出来たと言う話。もう止めようとしたところで止まらないだろうし、楽しそうに話すユキコを止めようとも思わなかった。
「そういえば……さ……」
コーヒーカップを口元に当てたユキコの口調が急に意味深げになる。その急な変化に俺も心を落ち着かせようとコーヒーを一口啜って向き合った。
「ああ……。うん……。やっぱり何でもない……」
「何でもないって、逆に気になるよ」
「すみません、そろそろラストオーダーの時間なんですが、何かご注文はございますか?」
なんとタイミングの悪いことか。いや、それこそ逆にタイミングが良すぎた。
結局、その後ユキコからその先の言葉を聞くチャンスは失われ、ついに気が付いたときには家の前。ユキコはシートベルトを外しドアに手を掛けていた。
「じゃあ、またメールするね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
バンッとドアが閉まるのを確認して、イマイチ晴れ切らない気分のままブレーキを踏み、ギアをDに入れ直す。
"コンコンッ"
降りたはずのユキコが窓を叩いて俺を呼んだ。
何か言い忘れたことでもあっただろうか。
「初詣、絶対一緒に行こうね」
「今年こそは」
去年は自分が風邪をひいて行けなかったことを思い出し、苦笑いで答えて、手を振り合って別れる。
あの時言いかけたのはこの事だったのだろうか。
いや、もっと思い悩んだ顔をしていた。
俺は何かユキコを悩ませるようなことをしていたのだろうか。
しかし、それは本人に聞かなければわからないことだった……。
”23時に行くね”
そう送られてきた彼女からのメール。
約束。
中学の同級生と忘年会をして、一応22時には帰り酔いを醒ましてから来ると言っていたから、大方、うちに来た後は紅白でも見て、見終わってから初詣に行けば時間的にも丁度良いという計算だろう。俺もおおよそそんな感じで良いのではないかと思っていた。
さて、時刻はまだ18時を回ったところ。夕飯にも早いし、かと言って大掃除はもう済んでしまったし、特にすることもないままに、さっきからただのんびりとコタツでミカンが続いている。
♫♬♩♬♩♫♬――。
またメールだ。ユキコが何か言い残したことでもあったのだろうか?
口に運びかけたミカンを一度房の中に戻し、俺は携帯を手に取る。
ああ、ジュンさんからだ――。
”忘年会しないか?”
と、丁寧に件名まで付けて来た。
すでに始まっているのだろうか、本文には店の場所が記されている。
(18時……、あと5時間か……)
”行きます”
ジュンさんは昔から世話になっている先輩だから、それだけでも誘いは断れない。それに今はバンドのギタリストとしてデビューして東京で生活しているからこういう機会でもなければ帰省も出来ないし、俺も会うことが出来ない。久々の再会ということもあり、俺が返事に迷うことはなかった。
携帯と財布を左右のポケットに押し込んで、母に一言、「忘年会行ってくる」とだけ告げ、玄関先でコートを羽織って俺は家を出た。
昨日積もった雪がまだ一面を白く覆っている。幸い凍ってはいないから滑る心配は無さそうだ。
店は、歩いて五分ほどのところにある居酒屋。俺は少し小走りでその場所へと急いだ。
「遅せーぞ、カズキ」
俺の到着を見計らっていたのか、店に入るとそこにジュンさんが立っていた。
「ああ、すいません……」
「いいよ。こっち」
俺はジュンさんの後に続き席へと通された。四人まで座れる個室。しかし、そこに人が居た形跡は一つだけだった。
「あれ? 一人ですか?」
「たまには二人だけで飲むのもいいだろ?」
「ああ――」
「生中、一つ」と、丁度通りかかった店員にジュンさんが注文する。当然それは俺の分だ。
ジュンさんは兄貴というか、本当に面倒見のいい人。それでいて気取らず飾らず、しかし熱いわけでもない。端整な顔立ちにクールな性格。だから今日もただ酒が飲みたいだけで誘ったのではないことが分かる。何か俺に話があったか、本当に一年に一度は俺と会いたいと思ってくれているかどちらかだ。
「乾杯」
「お疲れっす」
ビールが運ばれ、乾杯を交わして、俺は一気に半分ほどを飲み干す。こういうときは相手が誰であれ一口目は多少勢いを持たせたほうがいいものだ。
「急だったけど、平気か?」
「丁度、暇だったんで」
「彼女とかは?」
「彼女も忘年会行ってますから」
ジュンさんはユキコのことを知っている。直接面識があるわけではないが、ジュンさんには色々と相談をしたこともあったし、写真を見せたこともあった。
「うまくいってるか?」
「どうっすかね……」
「いってないのか?」
「いやぁ……」
話題がそうなるのはもはや酒の席では定番か。しかし、ジュンさんも土足でいきなり踏み込んでくるようなことはしない。俺が話すならば聞く、話さなければ話題を変える。それがジュンさんのスタンスだった。
「やっぱり、ちょっとは悩むこともありますね……」
「悩む?」
「休みのときにしか会えないのはもう慣れたんですけど、
逆に、居ないことにも慣れちゃったって言うか……」
「会えないときも連絡は取ってるんだろ?」
「取ってますけど、やっぱり違うんですよ……」
ジュンさんは「なるほどなぁ」と腕を組む。そして、そのまま両腕をテーブルに載せて俺に言う。
「いつも一緒に居るから相手のことが分かると思ってたけど、
離れてみて分かることも実は多くて、それに戸惑ってるんだな」
「そんな感じっす……」
ジュンさんが考えた後の一言は常に的確だ。だから頼りたくなってしまう。この人なら答えを知っているような気がして。それはいつかジュンさんの彼女のヒカリさんも雑誌のインタビューで答えていた。”ジュンは私が悩むことの答えを全部知ってるんです。だから私は付いていくだけなんです。時々その上から目線がムカつくこともありますけど(笑)”と。その気持ちに共感しつつ、ならばと俺はジュンさんに相談を始めた。
「何を考えてるかが分からなくなったんです……」
「例えば?」
「何で不機嫌なのか、何で怒ってるのかとか……」
「今までは全部分かってたのか?」
「はい。ほとんどは」
「今はどれくらい分かる?」
「半分……も分からないんです……」
ジュンさんはそれが深刻になり過ぎないように、枝豆をひとつふたつ頬張りながら俺の話を聞いていた。
「半分分かれば、充分だろ?」
「いや、でも……」
「正直、俺はヒカリが何で怒ってるのか、三割も分からないな」
「そんなもんなんすか……?」
「まぁアイツはちょっと変わってるし、参考になるかは分かんないけどな。
でも、よほど仲の良い奴でもない限りはそんなもんだと思うよ」
そうなのか……。
でも、俺はそのよほど仲の良い相手だと思っていた。それなのに分からなくなってしまったのは、やはり離れてしまったからに他ならないのだった。
「お前達は、知らないことが多すぎるんだよな」
「それは、思います……」
いつかの夏休み、それは俺がユキコに言ったことでもあった。都会に対する免疫が無かったユキコは、その環境に戸惑い涙を流した。そのときは俺も知ったような口でユキコを慰めたりもしたけれど、結局のところ、自分も今以外の環境に対する耐性が無かったということなのか。ユキコに諭していたはずの自分が、ジュンさんに諭されている。それがいい証拠だった。
「喧嘩なんてしたことないだろ」
「ほとんどないですね……」
「それは良いことばっかりじゃないんだよ」
喧嘩をしないに越したことはない。それはおそらく誰もが思うこと。好きな人と喧嘩なんてしたくないし、出来ればずっと波を立てずに仲良くいたい。でも、俺達は極端にそれが少ないのもまた事実だった。特にここ最近は、なかなか会えない反動からか、喧嘩のけの字も見えないほどに穏やかな日々しか過ごしていない。そんな姿をジュンさんにも他の誰にも見せていたわけではないけれど、少しの相談でそれを見抜くのは、さすがとしか言いようが無かった。
「一つだけ、カズキに忠告するよ」
「何ですか……?」
そんな言葉をジュンさんの口から聞いたのは初めてだった。いつもの穏やかな表情がいささか険しく厳しくなっている。
「喧嘩を知らないままでいると、たった一度の喧嘩が致命傷になり兼ねないからな」
「別れるかもしれないってことですか……?」
「それは本人次第」
言っているのがジュンさんだから、俺は余計に恐れをなした。世紀の大予言と呼ばれるものは過去にいくつもあってそのどれもが外れてきたけれど、そんなものよりも遥かに高い確率でこの予言は的中してしまいそうな気がしていた。
「脅かさないでくださいよ……」
弱り口調で和やかな雰囲気に戻そうと試みる。しかし、それは出来なかった。
「百聞は一見に如かず」
「どうすればいいんですか……」
俺はすぐに助けを求めた。しかし、それも許してはくれないほど、今日のジュンさんは難かった。
「それは、お前達がぶつかって越えなきゃいけない壁なんだよ。
今からでも少しずつ経験していかなきゃいけないんだ」
俺は追加で注文したビールが運ばれてくるなりそれを一気にあおった。いくらジュンさんとは言え、止めても聞くつもりはない。そんな覚悟だった。でも、ジュンさんは止めなかった。むしろ、俺に付き合って次々とジョッキを空けていった。そして、最後には二人揃って完全に潰れてしまった。高々とそびえる壁に怖気付いて錯乱へと逃げた者への代償。そんなものが頭によぎるほどの余地は無く、度を超えた酩酊は大切なものさえ忘れさせた。今は何もかも忘れてしまいたい。嫌なもの難しいもの面倒なもの、すべて今年に捨てて、まっさらな状態で新年を迎えればいい。
だから俺は時間さえ忘れた。
朦朧とする意識の片隅で聞こえる携帯の振動音。しかし、何度か震えては止まってを繰り返していた。その都度、意識が少しだけ戻っては消えてゆく。
かすかに残る正常な思考が必死に何かを訴えかけている。
何だっけ……?
ああ、ここはお店だから、ここで寝てちゃいけないんだ……。
ようやく身体を起こし、続いてジュンさんを起こす。そう言えば約束があった。と、何食わぬ顔で俺は思い出す。床に転がった携帯を拾い上げ、液晶画面に表示される時間を確かめる。
”23時59分――”
――今年もあと1分か。
――違う。
――約束。
時刻と共に、着信6件という文字が見える。
――ユキコ
――ユキコ
――ユキコ
――ユキコ
――ユキコ
――ユキコ
俺は財布から適当にお札を抜き取りジュンさんの手に握らせる。そして、コートを羽織る間もなく腕に抱え、とにかく自宅への帰路を急いだ。
――――。
ザクッ。ザクッ。と、こちらへと歩み寄る足音だけが響く。
家の前、降り出した雪に傘も差さずに待っていたと思われるその人影。
頭や肩に積もった雪が、一歩ずつ落ちては消えてゆく。
足音は俺の直前で止まり、そして、俺を見上げた。
「…………おめでとう」
「あ……ぁぁ……おめ――」
――パシンッ!!
冷えきった頬を冷えきった掌が乾いた音を立てて打ち抜いた。
頬がこれだけ痛いのだから、その手も相当に痛かっただろう。
いや、違う……。
痛いのは頬でもなく手でもなく、心。
ユキコは俺に肩をぶつけながら俄然強く降り始めた雪の中に消えた。
あれだけの酩酊にあった俺の意識はすっかり冴えていた。
そして、妙なほど冷静になった俺はユキコを追った。
頬を叩き肩をぶつけながらもユキコは神社に続く道を歩いて行った。
ここで追わなければ……。
ジュンさんの言葉が脳裏によぎる。
ユキコにはすぐ追いついた。
しかし、振り返ることも隣に並ばせることもしてはくれなかった。
同じように年明けと同時に初詣へやってきた人の列、並ぶ間も会話は無い。
一緒に鳴らすはずだった鈴も、2回鳴った。
自分だけの祈りが済むと踵を返し甘酒を受け取ることも焚き火で暖を取ることもせず、ユキコは来た道を同じように歩いて行った。
これ以上追いかけていいものか……。
ユキコの家と俺の家を分ける十字路。
ユキコは真っ直ぐ行き、俺は右へ曲がらなければならない。
最後まで送り届けるべきか、これ以上はもう触れぬべきか。
俺の迷いとは裏腹に、ユキコは躊躇無く進んでしまう。
「……ユキコ」
十字路の真ん中で立ち止まってしまった俺は、せめてもの思いで彼女を呼んだ。
「…………」
答えてはくれない。
でも、足を止めてくれた。
「ごめん……。本当に、ごめん……」
少しこちらを振り向くような素振りも見せてはくれたが、横顔すらハッキリとは見えない程度だった。結局、ユキコは何も言ってくれることはないままに再び歩き出し、俺はもうその背中を追うことは出来なかった……。
「それは、俺も悪いことしたな……」
あの日以来、ユキコの笑顔を見ていない。
電話で少しだけ話すことが出来たが、それは向こうから掛けてきたたった一度だけ。
こちらからのメールや着信は、すべて無視されていた。
そして、今となってはもう会うことは叶わなくなってしまった。
「でも、まさか帰られるとは思ってなかったです……」
ユキコは東京へ帰ってしまった。”三箇日も終わったし、向こうの友達にも会いたいから帰る”とのことだった。ユキコが帰った日、その日は以前から観に行こうと言っていた映画を観に行く予定だった。しかし、それもキャンセルしてユキコは帰ってしまった。
「”期待しすぎてた”って言われちゃって……」
「うーん……」
ジュンさんは自分にも責任があるからと、こうして俺の話を聞いてくれていた。でも、ジュンさんには何の非もない。俺があらかじめ約束のことを言っていればよかったことだし、そもそも時間を忘れて飲み始めたのも俺。だけど、俺一人ではもう何の解決策も浮かんでこなかったから、無理を言ってジュンさんを呼び出していた。
「追いかけるしかない……な」
「追いかけられなくて……」
帰ると告げられた俺は、とにかく駅へと走った。そして、今まさに改札へ向かおうとするユキコを見つけ、肩を掴んだ。一瞬驚いた表情をして、しかし、その表情はすぐに強張った。
そして言われてしまったその言葉――。
自分との約束が先にあり時間まで決めていたにもかかわらず、俺がジュンさんとの付き合いを優先したことを確実に根に持っていた。
俺の手を振り解き、ICカードひとつで入場を許されるユキコはその大きな壁を易々と乗り越えていった。もちろん俺もすぐに追いかけようとした。電車はまだ来ないから切符を買う時間もあった。しかし、どこまでを買えばいいのかも分からない。持ち合わせの小銭だけで果たして東京まで追いかけることが出来るのか。そんな知識すら俺は持ち合わせていなかった。改札の前で立ち尽くす俺に見向きもせずユキコは階段の奥に消え、本当に見えなくなってしまった。ルールを無視してとにかく一駅分。もしくは、そんな改札飛び越えてしまえばよかったのに。今となっては、そんな後悔が浮かぶばかりだった。
「本当はこんな風に渡すつもりじゃなかったんだけどな……」
「何ですか……? それ」
ジュンさんは見慣れぬ細長い紙を2枚取り出すと俺の前に置いた。
「チケット。俺のライブの」
「ああ……」
おそらく、俺達に楽しんでもらうために用意した物だったであろうそれは、本来の意図とは違う形で使われることになってしまうことになるのか……。
このチケットもある意味では被害者の一人だった。
「それ、渡しに行け」
「はい……」
ジュンさんは、俺に謝罪以外の口実を与えてくれた。その気持ちを無下にしないためにも、俺は行かなければならない。出来ればそれは今すぐにでも。
居ても立っても居られなくなった俺は、ジュンさんに礼だけを言って一度家に戻った。
別れ際、ジュンさんは住所が分かれば最寄り駅も分かるからそれを後で教えるようにと言ってくれたから、俺はその通りにユキコの住所を教えた。するとジュンさんは経費と経路と使用路線を分かりやすくまとめたメモをメールで送ってきてくれた。
この通りに行けば、そこにユキコがいる。
見えなくなってしまった背中を追うため、俺は越えられなかった壁の向こうへと足を踏み入れた。