~秋風に舞う風花は~
連日連夜の猛暑日熱帯夜。9月になったというのに、この地球もいよいよ悲鳴を上げだしたということか……。
この暑さでは、ニンジンもジャガイモもダイコンも、畑の作物達は美味く育ってはくれない。代々農家として継がれてきた我が家でもそれは例外ではなかった。
「ったく、いつまで30℃が続くんかなぁ……」
父さんのこんな愚痴ももう何十回、何百回目。
それに対する母さんの相槌を聞くのも何十回、何百回目。
そして、俺が他人事のように右から左へ聞き流すのも何十回、何百回目。
「あんたもちょっとは深刻に考えなさいよ?」
「分かってるよ」
「採るものも採れなくなったら、継ぐものも継げないんだからね」
確かに俺は去年の冬に、家業である農業を継ぐと言った。それには両親共に納得してくれて、畑の手伝いをして仕事を覚えていくという条件付きではあったけど、俺が夏休みを受験勉強もせずに遊び呆けていても何も言わなかった。でも、それもこの異常気象ではどうやら雲行きが変わってきたらしい。そんな怪しい雲行きを察知した俺にできることはただ一つ。雷が落ちる前に自分の部屋へ逃げることだけだった。
(メールが着てる……)
机の上に置きっ放しになっていた俺の携帯電話が健気に光り続けてそれを教えてくれていた。差出人はユキちゃん。彼女は大学が夏休みの間こっちに帰ってきているのだ。メールの内容は何だろう?まさかデートの誘いか?でも付き合ってるわけじゃないし……。
それなら何だろう……?
今何してる?
そうだな、その程度かもしれない。
こんなメールひとつで一喜一憂できるなんて幸せ者だ。そんなくだらない妄想を駆け巡らせるよりもさっさと携帯を開いてメールを確認すればいいのに。きっとユキちゃんならそうやって俺に言って諭すだろうと、そんな妄想を思い浮かべながら俺はメールを開いた。
"デートしよっか❤"
…………カチャン。
思わず携帯を閉じてしまった。
そしてもう一度、恐る恐る携帯を開いて、それを確認する。
本気か? 本気なのか?
いや、絶対からかってるんだ。単純に遊び相手がほしいだけなんだ……。
そうだ、きっとそうに違いない。ユキちゃんが俺をデートに誘うなんて……。
こんなにも汗が吹き出てきているのは、クーラーや扇風機を付けていないせいではないような気がしていた。
***
「良かったっ、カズくんが暇してて」
「何もしてないみたいに言うなよ」
少しくらいの期待はあった。でも、やっぱりユキちゃんはそういうつもりだったらしい。
「どうせ家でゴロゴロしてたんでしょ。分かるんだから」
「監視でもしてたのかよ……」
「お姉さんはすべてお見通しなの」
お姉さん。そうだユキちゃんはお姉さんだ。昔から俺は弟のように見られていたんだろう。そしてそれは今も……。
聞き慣れないヒールの音がコツコツと響いている。昔はそんなもの履くような子ではないと思っていた。でもやっぱり都会に出ると、人は少しずつ、良くも悪くも変わってしまうのだろう。そのヒールの音は、ユキちゃんを悪い女へと変えていく呪文のようにすら聞こえていた。
そう、悪いお姉さん。
俺の気持ちに気付いていながら、あんな誘い方をしてくる、悪いお姉さん。
そんなことを考えていた俺の顔はさぞつまらなそうで無愛想な顔だったのだろう。ユキちゃんはさっきから幾度となく俺の顔色を伺っている。不安そうに、心配そうに、不満そうに、チラチラと視線だけを俺の方へと向けていた。でも俺はあえてそれに気付かぬ振りをし続けていた。それは全く何の意味もない俺の心の中の戦い。でも、俺にとっては大事な戦い。俺とユキちゃんのこの上下関係を逆転させるための戦い。逆転しなくても構わない。せめて対等になりたいという俺の想い。だから、つまらないかもしれないけれど、ここで気付かぬ振りをすることがそれに繋がると信じていた。
と、今まで聞こえていた煩わしい呪文が止まり、それに気付いた俺も足を止めて振り返る。
「何で無視するの……?」
「えっ?」
「ずっと気付いてたくせに……」
そうか、お姉さんは全部お見通しなのか……。
「無視したわけじゃないけど……」
「無理に誘っちゃったならいいんだよ……?」
「そんなことないって」
さすがに少しやり過ぎたのか。ユキちゃんのその沈んだ表情は初めて見るものだった。
「ゴメン。ちょっと考え事してたんだ」
すると、仕返しだろうか。
ユキちゃんは俺を無視して再び歩き出し、こっちなんて見向きもせずに真横を通り過ぎていってしまった。
完全に機嫌を損ねてしまったのか……。これからどうすればいいんだろう……。
2~3メートルの距離を置いて後を付いて行く自分の姿が情けなく、こんな時にどう対処したらいいのかもわからない自分はやっぱりまだ子供なんだと痛いほど感じた。
「カズくん。お昼食べた?」
「え?いや、まだだけど」
「ハンバーガーでもいい?私おごるから」
「いいけど、それくらい自分で出すよ」
あれ……。聞こえなかったんだろうか……。
ユキちゃんはさっさと足早に店の中に入っていってしまった。仕方なく俺も中に入ると、すでにユキちゃんはカウンターで店員と向かい合い注文をし始めていた。
「あぁ、俺は……」
「カズくんのはもう頼んだよ」
急ぎ足で駆けつけようとする俺に、いたって冷静にユキちゃんはそう言った。何も言っていないのにいったい何を注文したんだろう……。
いや、それよりもやっぱりユキちゃんは怒っているのか。だからいちいち俺に何がいいかなんて聞かずに適当に注文してしまったんだろう。
でも、幼稚園に入る前から知っているユキちゃんだけど今までにこれほど機嫌を損ねた姿を見たことはなかった。さっきのことがよほど彼女の心を傷つけてしまったのか……。でも、たしかもっとひどいことをして泣かせたこともあった。それはずっと昔の子供の頃の話だけど、それに比べれば今日のことなんて……。そう思ってしまうから、俺にはもう何が何だかわけがわからなくなっていた。
そうやってまた考え事にふける俺をいつからかユキちゃんが見上げていた。
しまった。やってしまったか。今度こそ本当に全然気付かなかった。
「ん。何?」
「あの子可愛いね」
「え?」
「ずっとあの子見てたもんね」
ユキちゃんの視線の先には、アルバイトの子だろうか、初々しい顔立ちの俺よりも年下と思われる女の子が働いていた。
「な、何言ってんだよ。全然見てないって」
「知ってる。ボーっとしてた」
急にそんなことを言われて焦ってしまったのが馬鹿みたいに、ユキちゃんは落ち着いていた。
「何でさっきは嘘ついたのか知らないけど、そういうのはカズくんじゃないと思う」
「ごめん……」
「そのほうがカズくんらしい」
条件反射的に謝ってしまった俺をユキちゃんはクスッと笑った。さて、しかし、俺には大きな問題が残されている。ようやくユキちゃんにも笑顔が戻ったところで、俺はいたって普通に話を続けた。
「つか、何頼んだんだよ」
「何って、カズくんはいつも同じのしか頼まないじゃん?」
確かに。俺は必ずチーズバーガーとLサイズのコーラとLサイズのポテトのセットを食べる。でもユキちゃんと一緒にここに来たのは2回か3回か、そんな程度。それなのにそのことをしっかりと把握しているのは――。
「上行こっ」
注文したハンバーガーを受け取った俺達は階段を上がり2階の窓際の席に座った。ハンバーガーの包み紙を広げるユキちゃんの手は、もうすっかり大人の女性の手に見えて、一口かじったその歯形がなぜか妙に艶やかで色っぽさを感じて、たった半年の間にユキちゃんという存在がまた少し遠くなってしまった気分にさえなった。
「さっき、上見た?」
そんな余計な考えをコーラで押し流す俺にユキちゃんが聞いた。
「上?」
「私のパンツ、見えた?」
「ぶはっ!」
「あぁっ……もう……汚いなぁ」
「な、何言ってんの!?」
思わずコーラを逆流させてしまった俺は、とにかく落ち着きを取り戻すため、飛び散った飛沫を拭った。
「見た?」
「何言ってんだよ……」
「見たんだ?」
「つか、今日のユキちゃん何か変だよ?」
落ち着きを取り戻した俺は改めてコーラを一口飲み、ポテトを1本ずつ、ユキちゃんが答えるのを待つように、少しずつちまちまとかじった。
「それは、お互い様だと思う。カズくんも変。ずっと考え事してるみたいだし」
「俺は、ユキちゃんがいつもと違うから、何かあったかと思って考えてただけだよ」
半分は本当で半分は嘘。
もっと他に色々、邪な考え事もあったけど、でも確かに半分くらいはユキちゃんが心配だった。メールの誘い方にしても、化粧にしても、服装にしても、言葉にしても、顔色にしても、態度にしても。いつものユキちゃんはハートの絵文字なんて使わないし、俺と会うときは大抵スッピンだし、Tシャツにシーパンみたいなラフな格好で、ヒールのある靴なんか絶対履かないし、自分で自分のことをお姉さんなんて言わないし、あんなに悲しそうで不安な顔なんて見たことがなかったし、他の女の子に嫉妬したり、俺に対しては女の部分を見せようとはしなかった。それが俺の中にある、いつものユキちゃん。今日のユキちゃんとはひとつとして共通点のない、俺の大好きなユキちゃん。
「あーあ……。私もカズくんに心配されるようになっちゃったのかー……」
「俺だってそれくらいするさ」
ユキちゃんは、頬杖を付いて窓の外を眺めながら、深く沈んだ目をしていた。。ただ遠くを見つめ、俺という存在も視界に入っていないほど遠くを見つめ、何かを思い出していた。
声をかけるべきなのか……。
それとも何も言わないほうがいいのか……。
考えたところで、やっぱり俺にはまだどっちが正しいのかわからない。ただ、正直に言うならば、声をかけたくても何と言っていいのかがわからなかった。
そのまま10分、20分。実際には1分、2分くらいしか経っていなかったかもしれない。とにかくユキちゃんをこっちの世界へ連れ戻さないといけないと感じた俺は名前を呼んだ。
「ユキコ」
「えっ……?」
少し驚いた表情でユキちゃんは振り向いた。
「おかえり」
「ただいま……」
ばつが悪そうなユキちゃんはポテトを1本くわえ、視線を下に落としていた。
ここで会話が途切れてしまったら、たぶんこの靄は今日一日晴れないだろう。
だから、賭けではあったけれど俺は言葉を止めなかった。
「何かあったの?俺には言えないこと?」
「うん。いや……言えなくはないけど……」
「無理にとは……」
言いかけた俺の視界に何かが落ちるのが見えた。
何かじゃない。涙。一粒だけではあったけど、確かにユキちゃんの目から涙が零れていた。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
「いいの。ごめん」
再び溢れて零れ落ちそうになっていた涙をハンカチで押さえながらユキちゃんは顔をあげた。
「本当はそのためにメールしたの。カズくんといたら気が晴れるかなって。
それに、もしこうなってもカズくんなら話せるから」
「そっか……」
「私さ、フラれたんだ」
失恋か。思っていたよりは普通で想定内だった。でもそれは好ましいことではなかった。自分の好きな人が自分の知らないところで誰かを好きになっていた。そして、その誰かも知らない相手に悲しい思いをさせられていた。でもその事実には俺は何も言うことはできない。それはユキちゃんの自由だし、今は離れたところにいるんだから俺が知らないのは当然だった。
「彼氏いたんだ……」
「うん。ほら、大学生になったってだけで私も浮かれてたのよ。
サークルの勧誘で知り合ったんだけど、ちょっとカッコいいだけで私も付いて行っちゃって
後から聞いたけど、そういうのって多いみたいね。一年生狙ってひと夏の恋で終わらせるの。
私もそれにまんまと引っかかっちゃったわけ。
私は変なことはされてないからいいけど、やることやって捨てられたなんて話もあるみたい……」
「大学って怖いんだな……」
「色んなとこから色んな人が集まってくるから、そういう人も結構多いのね……。
でも、本当にその人のことを好きになりかけてたから
全部遊びだったんだって気付かされたときは、本当につらかった……」
「良くも悪くも、俺達ってこんな田舎で育ったから、そういう免疫がないんだよね。
だけど、それだけユキちゃんが純粋だったってことだよ」
「夏休みで帰省してる間に浮気されて、それでお前はつまんないから別れるなんて
なんか、すごく悔しいよ…………」
膝の上で両手をグッと握り締め、嗚咽を噛み殺しながら涙を流すユキちゃんをそれ以上放ってはおけなかった。
でも、俺に何ができるのだろうか……。泣かないでと言って、泣き止んでくれるのだろうか……。
もしかしたらそれは逆にユキちゃんを追い詰めてしまうことになるかもしれない。
じゃあどうすればいい……。
ふと、俺の脳裏に昔の光景が蘇った。
”泣きたいなら好きなだけ泣け。泣いて泣いて、好きなだけ泣いたら笑え。
笑って笑って、泣いた分だけ笑え。そしたらみーんな忘れちまうから”
それは俺のおばあちゃんが昔言っていた言葉。俺やユキちゃんや、子供が泣くとおばあちゃんはいつもそう言っていた。それで実際俺達が泣き止んだのかなんてそんなことは覚えていないし、今重要なのはそこではなかった。
俺は少し身を乗り出して、ユキちゃんの頭をそっと撫で下ろし、頬に伝う涙を親指で拭うとその言葉を言った。
「泣きたいなら好きなだけ泣け。泣いて泣いて、好きなだけ泣いたら笑え。
笑って笑って、泣いた分だけ笑え。そしたらみーんな忘れちまうから」
「懐かしいこと……言わないでよ……。全然似てないし……」
気付けばユキちゃんの涙は止まっていた。俺の下手くそなモノマネの効果もあっただろうか。口元は少し上がり、微笑んでさえいるようにも見えていた。
「これ、食べちゃおうぜ」
せっかく泣き止んだところで深く掘り下げてしまうのは得策ではない。
俺は残りのチーズバーガーをいつもより少し豪快に大きな口で飲み込んだ。ユキちゃんもそんな俺につられるように残りのハンバーガーとポテトを食べ終え、少し遅めのランチを少し長めに取り終えた俺達は店を出た。
その頃にはもうユキちゃんの顔は晴れやかに、さっきまでのことなど全く気にしていない様子で、その姿に俺も安心して、いよいよ”デート”の始まりだと気分も弾みだしていた。
「カズくん、ちょっと付き合ってもらえる?」
「いいけど、どこに?」
「靴買いたいなって。なんかこのヒール疲れちゃった」
それには大賛成だ。と言っても、まだユキちゃんがどんな靴を買うのかはわかっていない。でも、俺は勝手にスニーカーのような動きやすい靴を買うものだと決め付けていた。
「どっちがいい?」
世の女性諸君に心の奥底から言いたい。
その聞き方は男にとっては究極の選択を迫られているようなものであると。
大体、Aが良いと言えばBも良くないかと言われ、Bが良いと言えばAが良くないかと言われる。仮にそうでなかったとしても九分九厘自分の中で決まっている答えと違うほうを言ってしまったら、どっちがいいかと聞いておきながら男の意見なんてそれこそ九分九厘採用されないのである。
しかし……。
聞かれてしまったら答えないわけにもいかないのだ……。
片方ずつに別のスニーカーを履いて問いかけてくるユキちゃんの足を品定めしつつ、それくらいは究極の選択を迫られる対価として受け取ってもいいだろうとわけのわからない言い訳をしつつ。どうみても片方は白くてどこに履いていくにも無難な色。もう片方は蛍光色の黄色が眩しいちょっとユキちゃんにはないような色だったから、白がいいんじゃないかと言うと、ユキちゃんも納得した表情で私もそう思うと言ってくれた。
無事に靴を買うとユキちゃんはその場で履き替えて、さっきまで履いていたヒールはスニーカーの箱の中に追いやられていた。そして当然のようにそれは買い物袋の中に入って、俺の手にぶら下がっていた。
「やっぱりこっちの方が歩きやすいわ」
「うん。そっちのほうが似合うと思う」
もちろん、白か黄色かじゃなくて、ヒールかスニーカーか。幸か不幸か、さっきの涙のせいでマスカラが少し落ちたこともあって、靴を履き替えたユキちゃんはそれだけでいつもの姿にぐっと近づいていて、これも怪我の功名と言うのか言わないのか、いずれにせよ俺は少し安心していた。
「なんか、スッキリした」
さて、これから行くあてもなくフラフラと歩き続けてきてしまっていた俺達は、いつの間にか駅前の繁華街から遠ざかり、周りには何も無い田んぼの中の農道を歩いていた。
「気が済んだ?」
「うん、ありがとね、付き合ってくれて」
いくら残暑が厳しいとは言え暦の上ではもう秋、さすがに午後も5時を周ると日が傾き始めている。この辺りは暗くなってしまうと街灯も少ない場所だから、そろそろ解散というところだろうか。でも、俺達の足はどちらも家の方向へは向いていなかった。どちらからともなく、このまま別れてしまうのが惜しいような寂しいような、まだもう少しだけこうしていたいという想いを重ね合わせていた。
「たしかこっちの方に神社あったよね」
「ああ、あるけど」
「せっかくだし、お参りしていこうよ」
それはまだこっちに住んでいる俺でも今はあまり行かない場所。年に数回、初詣とか豊作祈願とかそういう時にしか来ない場所だった。
「やっぱりこういう小さいほうが神社って感じ」
それは褒めているのか貶しているのか。でも、確かに有名な大きい神社を神社と言われるよりは、こうした小さくて地元住民しかお参りに来ないような神社のほうが馴染みもあってしっくりくるものがあった。
賽銭を投げ入れて鈴を鳴らし二拝二拍手一拝。
今の時代、何も言わずにこの作法ができる高校生大学生はどれくらいいるだろうか。と、少しだけつまらない自慢をしてしまう邪念を振り払って願いを込める。
顔を上げると、丁度同じタイミングでユキちゃんも顔を上げ、一瞬だけ目が合うと、俺達は自然に手を繋いで参道を歩いた。
「覚えてる?昔ここで遊んでたよね」
「大人が祈祷してもらってる間な」
「ああいう木とかよく登ったよね」
懐かしい思い出。都会へ行ってしまったユキちゃんの心の中にもまだそれが残っていることが嬉しかった。
「木登りなんて、もう出来なくなっちゃったかな……」
「俺はまだ出来るよ」
自慢ではないけれど木登りなんてものはこの歳になっても朝飯前だった。「ほらっ」と簡単によじ登って見せて、下から見上げるユキちゃんに手を差し伸べた。するとユキちゃんもスカートであることなど忘れて俺の腕にしがみつきながらも懸命によじ登り、登り切ると俺が後ろから抱きかかえるようにして一番太い枝の上に2人で座った。
「こんなきれいな夕日久しぶり」
山の向こうに沈んでいく夕日を眺めながら、ユキちゃんが言った。
「東京はやっぱり夕日は見えないの?」
「そんなことはないけど、でもやっぱり違うかな」
「でも、羨ましいな。逆に俺は東京の夕日って見たことが無いから……」
「ビルに隠れちゃって、ほとんど見えないけどね」
俺にはそのビルに隠れる夕日すら完璧には想像出来なかった。
「でも、いいんだ。俺が知らないものでもユキちゃんが教えてくれる」
それは、ユキちゃんがお姉さんだから。俺より1つ年上だから、俺よりもすべて一年早く経験している。小さいときからそう、ユキちゃんは俺より色んなことを経験して知っていて、俺が初めて経験するときにはいつも手を取って教えてくれていた。
「私にだって教えられないことはあるよ?
それにもう全部が全部私のほうが先ってわけでもないでしょ?」
「いや、俺はこっちに残るし、新しいことはたぶんみんなユキちゃんのほうが先だと思う」
俺の言葉にユキちゃんは少し困惑しているようだったけど、俺自身それでいいと思っているわけではなかったし、いつかは自分がリードしたいとも思っていた。
「でも、俺も受身ばっかりでいるつもりじゃない。
ユキちゃんはお姉さんだから、それを越えるのは難しいかもしれないけど、
でもユキちゃんにちゃんと向き合ってもらえるように、せめて対等に思ってもらえるように、
俺も頑張らなきゃって思ってる」
「私はもう対等に思ってるよ。カズくんもこんなに大きくなったんだし」
確かに昔はユキちゃんのほうが身長は高かった。でも、そんなのは男と女なんだからいつか俺がユキちゃんより大きくなるのはわかってたし、そういうことじゃないんだと言おうとしたけれど、ユキちゃんは「わかってる」と言って、さっきまで少し前屈みになっていた体を俺を背もたれのようにして寄りかかって、俺の腕を何かの道具のように自分の前できつく交差させた。
「私が大学で何の勉強してるか知ってる?」
母さんからユキちゃんが東京の大学へ行くと聞いたあの日、俺は詳しいことまでは聞かなかった。強がって、自分の気持ちを見透かされるのを嫌って、何の興味の無い振りをしていた。その態度がやっぱりまだ子供だったんだ。それ以来、どこの大学でどんな勉強をしているのか、聞きだそうとしていたわけではないけれど、俺は興味が無くてでもすでに知っているものだという扱いになってしまっていたから、改めてそれを聞き出すチャンスは失われてしまっていた。だからこうしてユキちゃんと直接話すくらいしか俺がそのことを知る術は残っていなかった。
「農業とか畜産とか環境とかね、そういう勉強してるの」
「ユキちゃんって農大だったんだ」
「えっ?知らなかったの?」
「うん、東京ってだけしか聞いてなくて。でも、何で農大なの?」
境内を吹き抜ける風が青々とした葉を揺らす。木々の揺れ動くその音を聞くだけで心地良く、涼しささえ感じられた。
「実りの秋ってよく言うでしょ?人間もそれと同じで、秋が一番実る季節なんだって。
ひと夏の恋なんて言って、夏が恋の季節みたいにみんな言ってるけど、
本当に真剣に人が恋を出来るのは、一番実ることの出来る秋なんだってさ」
それは答えになっていなかった。
理解しようとして、でも、そんなことはどうでもよくなった。
まだまだ暑さの残る毎日だけど、夕暮れに吹き抜ける風は確実に秋の装いをし始めて、そんな初秋の薫り漂うこの場所でこうして2人いられることがとても幸せで、それだけで俺達の心は満たされていた。
***
それから数日。9月も半ばになり、ユキちゃんも大学の夏休みの終了と共に東京へ帰っていった。
少し肌寒く感じるのは、季節がすっかり秋に変わったせいだろうか。
それとも、あれから毎日隣にいた彼女が居なくなってしまったからだろうか。
でも、俺はあの日の熱さを忘れてはいない。それさえあれば、この肌寒さにも負けずに実ることが出来る。
彼女もきっとそうであると信じて、また次の季節に出逢うために。