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『帳簿の魔女は泥舟を降りる 〜両家当主の査問会〜』

掲載日:2026/10/24

王宮の貴賓室は、重苦しい沈黙と張り詰めた殺気に満ちていた。


この場に集まっているのは、当事者の若者たちだけではない。

上座には、国王の代理として冷徹な眼差しを向ける第二王子・ジークヴァルト殿下。

その右隣には、現・筆頭公爵家当主であるオズヴァルド公爵。

そして左隣には、新興ながら王国有数の経済力を誇るクライン伯爵家の当主――エルステラの父、ギルベルト伯爵が威風堂々と腰を下ろしていた。


事の発端は、オズヴァルド公爵の息子・ルークスが、王宮の夜会にて大勢の貴族の前でエルステラに婚約破棄を叩きつけようと騒ぎ立てたことだった。

だが、騒ぎが大きくなる寸前、ジークヴァルト殿下の命により、両家の当主および関係者全員がこの査問室へと強制的に連行されたのだ。


「――というわけです、父上!」


沈黙を破ったのは、息巻くルークスだった。

その腕には、可憐さを装って震える男爵令嬢マリアがすがりついている。


「婚約は家同士の約定。それは重々承知しております! しかし、このエルステラの性悪さは度を越しているのです! 身分の低いマリアを階段から突き落とそうとし、ドレスを引き裂き、悪辣な嫌がらせを繰り返した! このような醜悪な悪女を、伝統ある我が公爵家の正妃として迎え入れることなど、断じて認められません!」


「ルークス様……っ、私のために争わないで……っ」

悲劇のヒロインを演じるマリアが涙をこぼす。


ルークスは勝ち誇った顔で、父であるオズヴァルド公爵を見上げた。

親の名を盾にすれば、公爵家より家格の低い伯爵家の娘など、一方的に悪者にして放逐できると確信している顔だった。


「父上、直ちにクライン伯爵家との婚約破棄の裁可を! 我が家の名誉のため、この女に相応の制裁を――」


「黙れ、この大阿呆が」


地底から響くような、低く冷たい声だった。

発したのは、他ならぬオズヴァルド公爵本人だった。その額には青筋が浮かび、脂汗が滝のように顎を伝っている。


「え……? ち、父上……?」


「黙れと言ったのだ、この穀潰しがぁっ!!」


ドォンッ!とオズヴァルド公爵が拳でマホガニーの重厚な机を叩き割らんばかりに打ち据えた。

怯えきったマリアが小さく悲鳴を上げ、ルークスが後ずさる。


「貴様は……貴様というやつは、何一つ理解しておらんのか!? 自分が誰の慈悲で、誰の金でその贅沢な服を着て、王宮を我が物顔で歩けていたのかを!」


オズヴァルド公爵の目は血走り、震える手で頭を抱え込んだ。

その様子を、向かいの席に座るクライン伯爵――エルステラの父が、冷笑を浮かべながら見つめていた。


「オズヴァルド閣下。ご子息はずいぶんと威勢が良いようですな。『婚約は家同士の約定』と口にしながら、当主である閣下にも、私にも一切の断りなく、公の夜会で我が愛娘を『悪辣な悪女』『強欲な寄生虫』と罵倒された。……これは、我がクライン伯爵家に対する明確な宣戦布告と受け取ってよろしいのですかな?」


「ギ、ギルベルト伯……! 滅相もない、これは息子の浅慮、若気の至りで――!」


「若気の至りで済む話ではありませんわ、公爵閣下」


凛とした声で会話に割り込んだのは、当事者であるエルステラだった。

群青のドレスをまとったエルステラは、背筋を一切崩さず、手にしたアタッシュケースから分厚い書類の束を取り出し、卓上へ滑らせた。


「ルークス様が主張される『マリア様への嫌がらせ』の件ですが、すでにジークヴァルト殿下および王宮監察局によって裏付けが完了しております。私がマリア様を突き落としたとされる時刻、私は主計局長室にて財務監査の立ち会いを行っておりました。アリバイは完璧です」


エルステラは、青ざめていくマリアに冷ややかな視線を落とした。


「つまり、そちらの男爵令嬢が語った被害はすべて狂言。公爵令息を唆し、他家の令嬢を陥れようとした重大な不敬罪および偽証罪です。――衛兵、この女を連れて行きなさい」


「ひっ……!? ル、ルークス様! 助けて……!」

マリアは泣き叫びながら、入ってきた近衛兵によって部屋の外へと引きずり出されていった。


「マ、マリア……!? お前、何を……!」

取り乱すルークスに対し、エルステラは容赦なく次の書類を叩きつけた。


「そして公爵閣下。ご子息が公の面前で一方的な婚約破棄を宣言した以上、三年前、両家当主の間で締結された『婚姻特約条項・第十七条』が適用されます」


「ひっ……!」

オズヴァルド公爵が短い悲鳴を漏らし、椅子に崩れ折れた。


「第十七条……? な、なんだそれは!」

何も知らないルークスが喚く。


エルステラの父、ギルベルト伯爵が冷徹に告げた。

「三年前、放蕩と事業失敗で破綻寸前だった貴様らの公爵領を救うため、我が家が肩代わりした巨額の負債の契約書だよ。我が娘が無事に正妃として迎え入れられるならば、その負債は全額『持参金』として帳消しにする約束だった。だが――」


ギルベルト伯爵は書類を指先で弾いた。


「『公爵家側の不貞、もしくは一方的な過失によって婚約が破棄された場合、貸付金は即時一括返済とする』。……ここにあるオズヴァルド閣下の直筆署名と血判が、貴様には見えんのか? 金貨四万五千枚だ。十日以内に返済してもらおう」


「よ、四万五千枚……!? な、なんでそんな……父上、本当なのですか!?」

ルークスが血の気を引かせて父にすがる。


「当たり前だろうが、この愚息がぁぁッ!」

オズヴァルド公爵が涙と鼻水を流しながら絶叫した。

「エルステラ嬢が領地の帳簿を立て直し、魔導肥料の特許を無償で貸し与えてくれたからこそ、我が家は破産を免れていたのだ! それを、あの男爵家の泥棒猫に誑かされ、恩人であるエルステラ嬢を公衆の面前で罵倒するとは……! 我が家は終わりだ、貴様のせいで完全に破滅だ!」


「そ、そんな……! 悪女に騙されていたのは、俺のほうだったというのか……!?」


がくりと膝から崩れ落ちるルークス。

そんな彼らを見下ろしながら、上座で事の推移を黙って見ていた第二王子ジークヴァルトが、ゆっくりと口を開いた。


「オズヴァルド公爵。王家としても、これ以上の庇護はできん。四万五千枚の負債に対する差し押さえとして、公爵領の東部鉱山および港湾の管理権を直ちにクライン伯爵家へ移譲せよ。また、公爵位の継承権を持つ長男ルークスについては――」


ジークヴァルトは、冷酷な目でルークスを見据えた。


「王家公認の婚約を公の場で愚弄し、虚偽の罪で伯爵令嬢を貶めようとした大罪により、爵位継承権の永久剥奪、および平民への降格処分とする。北方の開拓地へ送り、一生をかけて労働で罪を償うがよい」


「そ、そんな……殿下! 父上! エルステラ、頼む、許してくれ! 俺が悪かった、愛しているんだエルステラぁぁッ!」


みじめに床を這い、エルステラの靴に縋り付こうとするルークス。

だが、その手を冷たく払ったのは、エルステラの父・ギルベルト伯爵の靴先だった。


「気安く触れるな。我が愛娘は、貴様のような泥舟に乗せるにはあまりに惜しい逸材だ」


衛兵たちがルークスを取り押さえ、引きずっていく。扉が閉まる直前まで、かつての婚約者の情けない絶叫が廊下に木霊していた。


静まり返った室内で、オズヴァルド公爵は床に額を擦り付けたまま、小刻みに震えていた。

もはや公爵家に、かつての威光は微塵も残されていなかった。


「さて、ギルベルト伯爵」

ジークヴァルト殿下が立ち上がり、穏やかな、けれど熱のこもった眼差しをエルステラへと向けた。


「エルステラ嬢の才覚、噂以上だった。我が王室主計局は、まさに彼女のような『数字で国を動かせる真の頭脳』を求めている。……伯爵、大切な愛娘を、王室直属の最高財務顧問として迎え入れたいのだが、許可をいただけるだろうか?」


ギルベルト伯爵は、娘と視線を交わした。

エルステラは、悪戯っぽく、けれど晴れやかに頷いてみせる。


「殿下。娘の意志がすべてです。……ですが、我が家の至宝を差し上げるのですから、相応の待遇をお約束いただかなければ」


「もちろんだ。彼女に相応しい執務室と、一切の妥協のない予算執行権を与えよう。――そして、私自身の隣の席もね」


ジークヴァルトが微笑み、エルステラに手を差し伸べる。

エルステラは優雅に淑女の礼(カーテシー)を執り、その手を取った。


「謹んでお受けいたします、ジークヴァルト殿下。……公爵家の負債回収も含め、私の仕事は大変容赦がありませんことよ?」


「望むところだ。君の手腕を、心から楽しみにしている」


背後で崩れ落ちた公爵家の残骸に、振り返る者は誰一人いなかった。

家格の重圧も、しがらみも、自らの知性と両親の揺るぎない結束で完全に粉砕したエルステラ。

彼女の前に広がる未来は、王宮の青空のように高く、どこまでも澄み渡っていた。



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