子作りを願い続けた5年間、私は義母に避妊薬を盛られ続けていた
ある匿名スレで、男が得意げにこう書き込んでいた。
「愛人が息子を産んでくれた。もうすぐ一歳になる。妻はまだ気づいていない」
住宅ローンも生活費も、すべては妻の稼ぎでまかなっている。離婚なんて絶対にできない――男はそう計算しているらしい。
野次馬気分でスクロールしていた私の指が、ある写真で止まった。
使われているカードの番号は、私の給与口座と一致する。男の左手には、ボーナスを数か月分貯めて夫に贈ったあの銀色の機械式時計。そして写真の隅に映る、淡いグレーのベビーカー――先月、夫が「会社の後輩への贈り物を選んでほしい」と私に頼み、立て替えさせられたあの品だ。
さらにスクロールを続けると、一枚のぼやけた自撮り写真が目に飛び込んできた。
その顔は、五年間同じ布団で眠ってきた男のものだった。
彼は私の金で女と子どもを養っていた。
そして私は、自分で選んだベビーカーで、夫と愛人の子どもを運ばされていたのだ。
1
玄関の扉を開けた瞬間、リビングから笑い声が聞こえた。
テレビの音ではない。何人かが同じテーブルを囲み、楽しそうに話している声だった。甘い生クリームの匂いが漂い、玄関には私のものではない淡い色のパンプスが置かれている。
声をかけず、静かに廊下を進んだ。
リビングのローテーブルには、小さなケーキが置かれていた。上には数字の「1」をかたどった蝋燭が立っている。
義母の和子は赤ん坊を抱き、満面の笑みを浮かべていた。淡い水色の服を着た赤ん坊は、和子の胸元にあるネックレスへ手を伸ばしている。
ソファには浩介が座り、その隣に若い女性が寄り添っていた。
肩まである髪と整った顔立ち。膝の上には赤ん坊の上着が置かれ、浩介の手は彼女の肩に回されていた。何度も繰り返してきたような、あまりにも自然な仕草だった。
ソファの横には、私が選んだベビーカーが置かれている。
リビングの入り口に立つ私に気づき、全員がこちらを見た。
笑い声が途切れた。
浩介の顔から血の気が引いた。女性の肩から慌てて手を離し、立ち上がる。
「美緒、どうしてこんなに早く帰ってきたんだ?」
質問には答えず、赤ん坊を見つめた。
赤ん坊には何が起きているのか分からない。澄んだ瞳でこちらを見ながら、柔らかな積み木を握っていた。
「その子は、誰?」
浩介の喉が動いた。目を合わせないまま、低い声で答える。
「会社の同僚の子どもだ。急に用事ができて、何時間か預かってほしいと頼まれた」
すぐに和子も口を挟んだ。
「知り合いの子よ。急に帰ってきて、そんな怖い顔をしてどうしたの?」
スマートフォンを取り出し、匿名投稿を開いたままテーブルに置いた。
「この投稿も、会社の同僚が書いたの?」
画面を見た浩介の身体が硬直した。
買い物履歴の画像を開く。
「私のカード番号」
続いて、腕時計とベビーカーが写っている写真を表示した。
「私が贈った腕時計。それから、会社の後輩への出産祝いだと言って、私に選ばせたベビーカー」
驚くほど静かな声が出た。
「浩介、もう一度聞く。その子は誰?」
若い女性がうつむき、目を赤くした。けれど本当に慌てているようには見えなかった。むしろ、この瞬間が来るのをずっと待っていたようだった。
「美緒さん、ごめんなさい」
「あなたは誰?」
「白石優奈です」
優奈は顔を上げ、浩介に視線を向けた。その目には、責めるような色と、決断を迫るような色が混ざっていた。
「悠真は浩介さんの子どもです。悠真が一歳になるまでに、美緒さんと離婚するって約束してくれました」
和子の表情が一変した。
「優奈、何を言っているの。今はそんな話をする場面じゃないでしょう」
「でも、悠真はもうすぐ一歳です」
優奈は赤ん坊の上着を抱きしめ、震える声で続けた。
「二年も待っています。浩介さんは、もう少しだけ待ってくれと何度も言いました。私はいつまで待てばいいんですか?」
浩介を見た。
「本当なの?」
唇が動いたものの、しばらく言葉は出てこなかった。
「美緒、説明するから」
「何を説明するの? 私のカードでこの人たちの物を買った理由? それとも、会社の後輩へ贈ると言って、私に選ばせたベビーカーを、自分の子どもに使わせている理由?」
「そんな言い方をするなよ」
浩介は眉を寄せ、ようやく少しだけ強気な態度を取り戻した。
「悠真は俺の子どもだ。放っておけるわけがないだろう」
「じゃあ、私は?」
胸の奥に重いものが積み上がっていく。
「私が一人でクリニックへ行っていたとき、あなたはどこにいたの? 治療に失敗するたび、私が謝っていたとき、何を考えていたの?」
浩介は視線を逸らし、答えなかった。
和子は悠真を抱き直し、不快そうに私を見る。
「帰ってきていきなり大声を出さないで。悠真が怖がっているでしょう」
「怖がっている?」
自分の耳を疑った。
「私が頭金を出し、今もローンを払っている家で、息子さんと不倫相手の子どもの誕生日祝いをしておいて、怖がらせているのは私だと言うんですか?」
「結婚して五年もたつのに、あなたには子どもができなかったでしょう」
和子の口調が鋭くなった。
「高梨家に跡取りがいないままでは困るの。浩介は一人息子だし、高梨屋だって、いつか誰かが継がなければならない。優奈は悠真を花澄町で育てて、将来は店を継がせてもいいと言っている。あなたより、よほど家のことを考えているわ」
かつて一緒に子授け祈願へ行き、御守りを私の手に載せた女性を見つめた。
「最初から知っていたんですね」
和子は答えなかった。
否定もしなかった。
それだけで十分だった。
「掲示板に書いてあった」
浩介を見る。
「離婚しなければ、私の金で不倫相手と子どもを養えるって」
浩介の表情が険しくなった。
「あんなのは適当に書いただけだ」
「カードは私のもの。住宅ローンの大半を払っているのも私。高梨屋の改装費を貸したのも私」
まっすぐに目を見た。
「最初から、私に知られないようにするつもりだったんでしょう?」
誰も答えなかった。
沈黙そのものが答えだった。
優奈が突然立ち上がった。
「浩介さん、今日こそ美緒さんに話すって言ったじゃない」
「今は黙っていてくれ」
「私が悪いみたいに言わないで」
優奈の目から涙が落ちたが、声には強い意志があった。
「美緒さんは浩介さんから離れられないって言ったでしょう。子どもが欲しくて、あれだけ時間もお金も使っているから、離婚を持ち出せば怖がって、私たちのことも受け入れるはずだって」
胸の奥を鋭い刃で切り裂かれたようだった。
彼らは私の結婚生活への執着も、子どもを望む気持ちも、すべて利用できる弱みだと思っていたのだ。
追い詰められた浩介は、青ざめた顔で私を見た。
「美緒、もう起きてしまったことは変えられない。悠真は俺の実の息子だ。父親として責任を取る必要がある」
「それで?」
「お前は今までどおり俺の妻だ」
浩介は深く息を吸い、まるでよく考え抜いた提案であるかのように話し始めた。
「俺たちはこれまでどおり暮らせばいい。優奈と悠真は別の場所に住んで、俺が定期的に会いに行く。皆が冷静になれば、わざわざ周囲を巻き込む必要はないだろう」
目の前にいる男が、恐ろしいほど見知らぬ人に思えた。
「私に住宅ローンを払い続けさせて、お義母さんの店を支援させたまま、私の金で別の家族を養うつもりなの?」
「そんな言い方をするな」
「では、どう言えばいいの?」
声が震え始めた。
「私は正妻だから、夫が外で女性と子どもを作っても受け入れるべき? それとも、子どもを産めない私は、あなたたちに感謝しなければならないの?」
「美緒、俺を追い詰めるなよ」
浩介の声が低くなった。
「どうしても受け入れられないなら、離婚するしかない」
そう言いながら、浩介は私の顔をじっと見ていた。
本気で婚姻を終わらせようとする人間の目ではない。私が怯え、泣いてすがり、これまで治療に失敗したときと同じように、自分を責めて折れるのを待っている。
やがて、胸の内が不思議なほど静かになった。
「分かった」
浩介が目を見開く。
「何が?」
「離婚しましょう」
左手の薬指から指輪を外し、テーブルに置いた。
「あなたの望みどおり、離婚する」
最初に反応したのは和子だった。勢いよく立ち上がり、怒鳴る。
「何を子どもみたいに意地を張っているの。浩介と離婚して、今のあなたを誰が選ぶと思っているの? もう若くもないし、子どもだって産めないでしょう」
和子を見た。
「少なくとも、自分の金で夫と不倫相手の生活費を払わずに済みます」
優奈は悠真を抱き、喜びを隠しきれないような表情を浮かべた。
その顔を見た瞬間、押さえていた感情が切れた。歩み寄り、優奈の頬を平手で打った。
乾いた音がリビングに響く。
「今の一発は、浩介が既婚者だと知りながら関係を続け、子どもを産み、私の家で私の代わりになる日を待っていたことに対してです」
優奈は頬を押さえ、よろめいた。
浩介がすぐに駆け寄り、優奈と悠真を背中にかばう。
「美緒、正気か?」
和子が甲高い声を上げ、私を強く突き飛ばした。
足元がもつれ、後頭部を壁に激しく打ちつける。鋭い痛みが弾け、視界が大きく揺れた。耳の奥では高い音が鳴り続けている。
それでも和子は止まらなかった。髪をつかみ、横へ引きずろうとする。
「悠真の母親に手を上げるなんて、何を考えているの!」
「母さん、もうやめろ」
浩介は口では制止しながら、優奈と子どもの前から動かなかった。
私を助けに来なかった。
怪我をしていないか確かめようともしなかった。
その瞬間、すべてがはっきりした。
五年間愛してきた男は、別の女性と子どもを守りながら、母親が私を傷つける姿を見ていた。
和子の手を振り払い、壁に手をついて立ち上がる。額を温かいものが伝い、触れた指先に血がついた。
「浩介」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「もう、終わりです」
彼らを見ずに寝室へ向かい、扉に鍵をかけた。
2
扉に背中を預けたまま、床へ座り込んだ。全身の震えが止まらなかった。
部屋の中は、朝に家を出たときと何も変わっていない。ベッドの横には結婚式の写真が飾られ、クローゼットには浩介のシャツが並んでいる。机の上の小さな木箱には、二人で子授け祈願へ行ったときの御守りが入っていた。
ここを家だと思っていた。
今は息をすることさえ苦しかった。
スマートフォンを取り出し、佐々木晴香へ電話をかけた。通話がつながっても、何度か口を開いただけで、まともに言葉が出てこない。
「晴香……」
「美緒? どうしたの?」
「浩介に、子どもがいた」
電話の向こうが静かになった。
「何を言っているの?」
「別の女性との子ども。もうすぐ一歳で、今日、その子を家に連れてきていた。和子さんも全部知っていた」
最後まで言い切れず、涙があふれた。
「晴香、私……離婚することになるかもしれない」
「かもしれない、じゃない」
晴香の声は怒りで震えていた。
「部屋の鍵をかけたまま、絶対に外へ出ないで。今すぐ行くから」
電話を切り、ティッシュで額の傷口を押さえた。扉の向こうから、かすかに言い争う声が聞こえる。
優奈が泣き、和子がなだめ、浩介が二人に先に帰るよう言っているらしい。
誰も寝室の扉をたたかなかった。
三十分ほどして、玄関のチャイムが激しく鳴った。
晴香は飛び込むように入ってきた。リビングに立つ浩介を見るなり、何も尋ねず頬を平手で打った。
「あなた、それでも人間?」
浩介は頬を押さえ、怒ったように晴香をにらんだ。
「夫婦の問題に口を出すな」
「妻の頭から血が出ているのに、夫婦の問題で済ませるつもり?」
晴香は浩介を押しのけ、寝室の扉まで来た。
「美緒、私よ。開けて」
声を聞いた瞬間、張り詰めていた力が抜けた。
扉を開けると、晴香は私の額の傷と頬の赤みを見て、目を赤くした。何も言わずにしゃがみ込み、強く抱きしめてくれた。
そこで初めて、声を上げて泣いた。
晴香に支えられて部屋を出たとき、和子と優奈は子どもを連れて帰ったあとだった。浩介はリビングの中央に立ち、近づこうとしながらも、その場から動かなかった。
「美緒、病院へ行ってこい。落ち着いたら、ちゃんと話そう」
足を止め、浩介を見る。
「これからは直接連絡しないで」
「本当に、ここまで大ごとにする必要があるのか?」
「私が大ごとにしたんじゃない」
テーブルに置かれたケーキと、ぽつんと残る結婚指輪に目を向けた。
「あなたたちが、私の結婚生活を壊したの」
晴香に支えられ、マンションを出た。
車に乗ってから、自分の手の中に子授けの御守りを強く握っていることに気づいた。布は汗で湿り、縫い込まれた金糸が街灯の下で鈍く光っていた。
晴香は最初に病院へ連れていってくれた。
医師は額の傷を処置し、頭部の検査を行った。幸い頭蓋内出血はなかったが、後頭部と肩、背中に強い打撲があり、しばらく安静にする必要があると言われた。
怪我の原因を尋ねられ、長い間答えられなかった。
けれど、もう和子をかばうことはしなかった。
「夫の母親に突き飛ばされ、髪を引っ張られました」
病院は怪我の状態を詳しく記録してくれた。
その後、晴香に付き添われ、近くの警察署へ向かった。負傷した箇所の写真と診断書を提出し、自宅には一歳前の子どももいたことを説明した。
警察はその場ですぐ誰かを逮捕するのではなく、まず被害の申告を受理し、後日それぞれから事情を聞くことになった。
警察署を出たときには、もう深夜だった。
晴香は私をマンションへ戻さず、自宅に連れていってくれた。
シャワーを浴びると、肩や腕に濃い痣が浮かび始めていた。湯が傷の近くに触れるたび、鋭い痛みに息をのむ。
けれど、身体の痛みよりもつらかったのは、浩介が優奈と子どもを背中にかばった姿だった。
結婚式の日、何があっても私を守ると言ってくれた。
あの言葉は、いつから意味を失っていたのだろう。
3
翌朝から、浩介は何度も電話をかけてきた。
十数件の着信を、すべて無視した。
その後に届いたメッセージには、昨夜のことは事故だった、母親も感情的になっただけだと書かれていた。悠真には何の罪もないのだから、警察や会社まで巻き込まないでほしいとも頼んできた。
すべて画面保存し、返信はしなかった。
晴香が、離婚事件を多く扱う弁護士を紹介してくれた。事情を聞いた弁護士は、離婚や慰謝料の話を正式に始める前に、不謝料の話貞関係と共有財産の流れ、義母から受けた被害に関する証拠を可能な限り保存する必要があると説明した。
午後、晴香と一緒にマンションへ戻った。
浩介は会社へ行っており、和子の姿もなかった。リビングのケーキは捨てられ、テーブルもきれいに片づけられていた。
まるで、前夜の出来事がすべて幻だったかのようだった。
壁にわずかに残った血の跡だけが、ここで確かに傷つけられたことを証明している。
着替えと身分証明書、通帳などをまとめた。
洗面所の前を通ったとき、晴香が足を止めた。
「美緒、前に言っていたよね。お義母さんから、妊活用のサプリをもらっているって」
うなずいた。
結婚三年目を過ぎたころから、和子は毎月、妊活用だというサプリメントを持ってきていた。知人を通じて海外から取り寄せたもので、ホルモンバランスを整え、卵巣の働きを助けるのだと説明された。
そのころの私は、何度治療を受けても結果が出ず、追い詰められていた。
妊娠に役立つと聞けば、断るという考えさえ浮かばなかった。
晴香は洗面台下の引き出しを開け、白いボトルを取り出した。簡素な日本語ラベルが貼られているだけで、製造元の住所や詳しい成分表示はどこにもない。
「これ、どのくらい飲んでいたの?」
「一年半以上。悠真が生まれてからも、ずっと」
「病院の先生には見せた?」
「和子さんが普通の栄養補助食品だと言っていたから、わざわざ見せていなかった」
晴香の表情が険しくなる。
「もう絶対に飲まないで。残っている分は全部、触らず保存しよう」
ボトルと未開封の小袋をそれぞれ密封袋に入れ、そのまま書斎へ向かった。
浩介の個人用パソコンが机の上に置かれている。これまで彼は、私がパソコンを使うことを嫌がったことがなかった。私が他人のファイルを勝手に見るような人間ではないと知っていたからだ。
結婚記念日の日付を入力すると、画面は簡単に開いた。
デスクトップのほとんどは仕事関係の資料だった。ざっと確認しても怪しいものは見つからなかったが、「生活」という名前のフォルダーが目に入った。
その中はさらに何層にも分かれており、一番奥に非表示設定されたフォルダーがあった。
名前は「幸せ」。
開いた瞬間、何十枚もの写真が表示された。
優奈の妊娠検査結果、赤ん坊の超音波写真、浩介が優奈の通院に付き添ったときの写真。悠真が生まれた直後の姿や、三人で月影温泉郷へ旅行したときの家族写真まであった。
浩介は悠真を抱き、幸せそうに笑っていた。
私には一度も見せたことのない、満たされた父親の顔だった。
下へ進むと、大量の振込記録が見つかった。優奈が妊娠したころから、浩介は毎月決まった額を送金していた。
自分の給与口座だけではない。
私たちが生活費に使っていた共同口座からも、何度も金が引き出されていた。
粉ミルク、紙おむつ、妊婦健診、家賃、ベビーカー、そして一歳の誕生日ケーキ。
その一部は、私の収入から支払われている。
私は一つの家庭を守るために働いているつもりだった。
実際には、二つの家庭を養わされていたのだ。
晴香は背後で、怒りに震えていた。
「全部コピーしよう。一つも残さずに」
写真や振込記録、購入履歴を順番に保存した。さらに、浩介がバックアップしていたメッセージの履歴も見つかった。
優奈は何度も離婚を迫っている。
【子どもが生まれたら別れるって言ったよね?】
【もう少し待ってくれ。美緒が住宅ローンを払っているし、高梨屋の改装費も残っている】
【私はいつまで待てばいいの?】
【あいつは俺から離れられない。子どものために時間も金も使ってきたから、離婚を持ち出せば折れる】
文字を見つめていると、視界が暗くなった。
さらに過去へさかのぼると、浩介と和子の会話が残っていた。
【優奈さんが妊娠したなら、美緒さんまで妊娠させるわけにはいかないでしょう。美緒さんに子どもができたら、悠真が店を継げなくなるかもしれない】
【母さんが渡しているもの、本当に効くのか?】
【知人は排卵が乱れて、しばらく妊娠しにくくなると言っていたわ。今の美緒さんなら、妊活にいいと言えば何でも信じるでしょう】
【大ごとにはするなよ。美緒には働いてもらわないと困る。店の改装費だってまだ返していない】
【分かっているわ。悠真が生まれて、落ち着いたらやめるつもりよ】
マウスを握る手が激しく震えた。
晴香も隣で言葉を失っている。
その後の履歴を読み進める。
悠真が生まれてからも、和子はサプリを渡し続けていた。
【美緒さん、また人工授精を受けたみたい】
【なら、しばらく続けて。今離婚されたら、住宅ローンも店の支援もなくなる】
【疑っていないのか?】
【全然。私が身体のことを気にかけてくれてうれしいって、お礼まで言っていたわ】
最後の一文を見た瞬間、胃の奥がせり上がり、机に手をついて何度もえずいた。
あの一年半以上、和子は薬を渡すたび、優しく私の手を握っていた。
「私にもできることはあるから、焦らなくていいのよ」
「一人で抱え込まなくてもいいの」
私は信じていた。
妊娠できない私に対して、義母がまだ見捨てず寄り添ってくれているのだと、心から感謝さえしていた。
あの優しさはすべて嘘だった。
私を妊娠させないための薬を、妊娠を助けるサプリだと偽って飲ませていた。
そして浩介は、最初から知っていた。
私は治療に失敗するたびに、自分の身体が悪いのだと泣きながら謝った。浩介は真実を知りながら、一度も自責を止めてくれなかった。
スマートフォンのメモには、二つの名前が残っている。
男の子なら、湊。
女の子なら、結衣。
二年前、クリニックから一人で帰った夜に書いた名前だった。口に出せば期待が壊れてしまいそうで、浩介にも誰にも話せなかった。
パソコンの前に座り、二つの名前を見つめた。
あの子たちは、ただ来なかったのではない。
来られたかもしれない道を、誰かが故意に塞いでいたのだ。
証拠を三つの記録媒体に保存し、さらに暗号化したデータをオンライン上にも保管した。
パソコンを閉じ、涙を拭う。
「晴香」
「うん」
「離婚する」
少し間を置いてから、はっきりと言った。
「それだけじゃない。あの人たちには、自分たちがしたことの責任を取ってもらう」
4
翌日、晴香に付き添われ、治療を受けていた生殖医療クリニックへ向かった。
保存していたサプリと、過去一年半以上の服用記録を医師へ渡した。和子と浩介のメッセージも印刷して持参していた。
内容を確認した医師は表情を硬くし、すぐに血液検査と卵巣機能の再評価を行うことになった。
結果を待つ間、廊下の椅子に座り、顔を上げられなかった。
周囲には検査を終えた夫婦や、一人で診察を待つ女性がいる。壁には治療後に生まれた赤ん坊の写真と、家族からの感謝の手紙が飾られていた。
かつては希望をくれた笑顔だった。
今は、その一枚一枚を見るだけで息が苦しくなる。
検査の結果、三年前に比べ、卵巣機能とホルモンの数値が大きく低下していた。
医師は、今回の検査だけですべての変化がサプリによるものだと断定することはできないと前置きした。それでも、ボトルの表示にはないホルモン作用を持つ成分が検出されており、長期服用によって排卵が乱れ、身体へ負担をかけた可能性は高いという。
医師は慎重に言葉を選んだ。
「現時点で、妊娠の可能性が完全になくなったとは言えません」
「ただし、自然妊娠の可能性は数年前より低下しています。今後治療を続ける場合も、一度すべて見直して、新しい方針を立てる必要があります」
検査結果の紙を見つめた。
「これを飲んでいなかったら、どうなっていましたか?」
医師はすぐには答えなかった。
「医学では、すでに過ぎた時間について、別の結果を断定することはできません」
とても慎重な言葉だった。
それでも意味は分かった。
和子が薬を渡さなければ。
浩介が私を裏切らなければ。
間違った方向へ一年半以上を費やさなければ。
今ごろ自分の子どもを抱いていたかもしれないのか。
その答えを知ることは、もう二度とできない。
診察室を出て、廊下の奥にある椅子へ座った。
スマートフォンを開くと、メモに残した二つの名前が静かに並んでいる。
湊。
結衣。
長い間見つめているうち、涙が画面の上へ落ちた。
「ずっと、私のせいだと思っていた」
晴香は隣に座り、何も急かさなかった。
「治療が失敗するたび、浩介に謝ったの。もう一度だけ協力してほしいって頼んで、諦めないでほしいってお願いしていた」
顔を覆う。
「全部知っていたのに……」
晴香が肩を抱いた。
「美緒のせいじゃない」
「でも、一年半以上も無駄にした」
「悪いのはあの人たちよ」
晴香は私の手を強く握った。
「夫を信じたことも、家族から渡されたものを信じたことも、罪じゃない」
その日の午後、もう一度弁護士と面会した。
弁護士はメッセージの履歴、振込記録、匿名投稿、病院の診断書、サプリの検査内容を確認したあと、これは一般的な不貞関係だけの問題ではないと説明した。
和子は私へ暴力を振るい、妊娠に役立つと偽って、成分表示のないものを長期間飲ませていた。浩介も、その目的が排卵を妨げることだと知りながら黙認し、私の収入を不倫相手との生活費に使っている。
弁護士は、共有口座から自分の資金を保全し、銀行から過去の明細を取り寄せるよう勧めた。住宅、婚姻中の預金、高梨屋へ貸した改装費、不貞行為による精神的損害についても、項目ごとに整理する必要があるという。
「これから相手が謝罪することも、すべて否定することも考えられます」
弁護士は資料を閉じた。
「正式な交渉を始めるまでは、一人で会わないでください。連絡は可能な限り文字で残し、必要な場合はこちらを通しましょう」
事務所を出ると、浩介から新しいメッセージが届いた。
【母さんは反省している】
【優奈も悠真を連れて帰った】
【話し合おう。美緒はずっと子どもが欲しかっただろう? 悠真も俺の子どもだ。美緒さえ受け入れてくれれば、これからは一緒に育てられる】
最後の文章を読み、吐き気がした。
私が子どもを望んでいるのだから、自分と別の女性との子どもを渡せば満足する。
浩介は、本気でそう思っている。
私が欲しかったのは、欠けた場所を埋めるための赤ん坊ではない。
愛する夫と一緒に待ち望み、その愛情の中で迎える子どもだった。
その願いを壊したのは、浩介自身だ。
メッセージを弁護士へ転送し、返信はしなかった。
その夜、会社へ短期間の休暇を申請した。上司は家庭と健康上の事情があることを知り、詳しい理由を尋ねず、落ち着くまで休むよう言ってくれた。
晴香は自宅の一室を空け、私が眠れるように整えてくれた。
知らない部屋ではないのに、自分の寝室とはまるで違う静けさがあった。浩介の帰宅を待たずに眠る夜は、結婚してから初めてだった。
眠れないと思っていた。
けれど身体は、もう限界だったことを認めたように、すぐ深い眠りへ落ちた。
目を開けると、外は明るくなっていた。
数秒だけ、何が起きたのか忘れていた。
すぐに記憶が戻り、胸が痛んだ。
それでも分かっていた。
今日から先、もう以前の暮らしへ戻ることはない。
5
三日後、弁護士は浩介、和子、優奈へそれぞれ内容証明郵便を送った。
浩介には離婚の意思と、共有財産の移動をやめるよう正式に通知した。優奈には、相手が既婚者だと知りながら長期間関係を続けたことについて、慰謝料請求の交渉を始めると伝えた。
和子には、暴力行為と成分不明のサプリを意図的に飲ませた件について、今後は警察の捜査にも協力する旨が記載された。
書類を受け取った浩介は、ようやく慌て始めた。
何度も電話をかけ、その後は晴香の家の近くまで来て、直接話をさせてほしいと頼んだ。晴香は家に入れず、弁護士からも、第三者のいない場所で会わないよう念を押された。
最終的に、弁護士事務所の会議室で面会することになった。
浩介は和子と一緒に現れた。
優奈の姿はなかった。
数日しかたっていないのに、浩介は目に見えてやつれていた。私を見るなり立ち上がり、血走った目を向けてくる。
「美緒、ここまでする必要はないだろう」
答えず、病院の検査結果をテーブルへ置いた。
「先に読んで」
浩介は紙を手に取り、読み進めるにつれて顔色を失った。
「これは、どういう意味だ?」
「お義母さんが私に飲ませていたものから、表示されていないホルモン作用のある成分が検出された」
まっすぐに見る。
「卵巣機能は三年前より大きく低下している。今後妊娠できるかどうかは、改めて検査し、治療方針を立て直さなければならないそうよ」
和子の唇が震えた。
「あれはただのサプリよ」
「警察へ提出した残りの薬と、購入先から押収された同じ製造番号の商品から、同じ成分が検出されています」
弁護士が記録をテーブルへ置いた。
「購入履歴も確認されています。さらに、あなたが妊娠を妨げる目的で美緒さんへ渡していたことは、メッセージの内容からも明らかです」
和子は私を見ず、言い訳するように口を開いた。
「傷つけるつもりなんてなかったの。少しの間、妊娠しにくくなればいいと思っただけで……」
「少しの間?」
声が震えた。
「悠真が生まれてからも、なぜ飲ませ続けたんですか?」
「それは……」
和子は続けられなかった。
代わりに答える。
「私が住宅ローンを払い、高梨屋へ金を入れていたからでしょう。優奈さんの子どもを跡取りにしたい。でも、私の収入も失いたくなかった」
浩介が顔を上げた。
「美緒、俺は身体に害が出るなんて知らなかった」
「排卵が乱れて、妊娠しにくくなることは知っていた」
「一時的なものだと思っていたんだ」
「一時的なら、私から妊娠の機会を奪っても構わないと思ったの?」
浩介は何も言えなかった。
「治療に失敗するたび、私はあなたに謝った」
胸の痛みが再び押し寄せる。
「自分の身体が悪いのだと思って、何度も謝った。あなたは真実を知りながら、一度も止めてくれなかった。その間、私の金で優奈さんの妊婦健診を払い、悠真のミルクを買い、私に選ばせたベビーカーを使っていた」
「美緒、本当に後悔している」
「何を後悔しているの?」
静かに尋ねた。
「私を裏切ったこと? それとも、見つかったこと?」
浩介の目が揺れた。
和子が焦ったように顔を上げる。
「美緒さんは子どもが好きだったでしょう? 悠真は浩介の実の子なの。離婚しないで、優奈さんには離れてもらえばいい。悠真は高梨家で育てれば――」
数秒間、言葉の意味を理解できなかった。
「母親から子どもを取り上げて、私に育てさせるつもりですか?」
「あなたにも悪い話ではないでしょう。子どもができなかったあなたと、父親のいる家が必要な悠真。お互いに――」
弁護士が厳しい口調で遮った。
「子どもの養育環境は、こちらの依頼人に押しつけて決めることではありません」
私はゆっくり息を吐いた。
「悠真には何の罪もありません」
一言ずつ、はっきり伝える。
「悠真は、自分がどのように生まれるかを選べなかった。実の両親には、きちんと責任を取る義務があります」
和子を見る。
「でも、私は悠真の母親ではありません。あなたたちのしたことを片づけるために、子どもを引き受ける義務もない」
会議室の扉がノックされた。
優奈が悠真を抱いて入ってくる。
泣いたあとなのか、目元は赤く腫れていた。悠真は母親の肩で眠り、指で服をしっかり握っている。
「浩介さん、美緒さんと離婚するって言ったよね」
優奈は扉のそばに立ち、かすれた声を出した。
「今、美緒さんが本当に離婚すると言っているのに、どうして引き止めるの?」
浩介はいら立ったように優奈を見た。
「ここはお前が来る場所じゃない」
「二年も待ったの」
優奈の目から涙がこぼれた。
「悠真が生まれたら。次は一歳になったら。美緒さんはあなたから離れられないから、もう少しだけ待てって」
「子どもを連れて帰ってくれ」
「どこへ帰るの?」
優奈はかすかに笑った。
「あなたが借りてくれた部屋は来月で契約が切れる。離婚したら結婚して、悠真と一緒にこの家で暮らすと言ったでしょう。和子さんも、悠真に高梨屋を継がせると言ってくれた」
和子の表情がさらに強張った。
「優奈、今はその話をする時期ではないわ」
「皆、いつも今じゃない、もう少し待てって言う」
優奈は子どもを抱き直し、私を見た。
「美緒さん、許してもらえるなんて思っていません」
「なら、許しを求めないでください」
声を荒らげる必要はなかった。
「浩介が結婚していると知りながら関係を続け、私の家へ入る日を待っていた。自分の選択には、自分で責任を取ってください」
優奈はうつむいた。
眠っている悠真を見る。
「ただし、悠真を傷つけるつもりはありません。浩介が父親として責任を負うことも、邪魔しません」
「今後の認知、養育費、親子交流については、あなたたちが弁護士を通じて決めてください」
浩介が信じられないように私を見た。
「美緒、本当に俺に何の気持ちも残っていないのか?」
少しだけ黙った。
「以前はあった」
「なら、もう一度だけ機会をくれ」
浩介は立ち上がり、テーブルを回り込もうとした。
「優奈とは終わりにする。悠真には養育費を払う。母さんにも花澄町へ戻ってもらって、もう俺たちの生活に口を出させない。二人でやり直そう」
かつて、一生を任せてもいいと思っていた男を見た。
「浩介」
「何だ?」
「もう、あなたを愛していない」
浩介が立ち止まった。
口にしても、勝ったという喜びはなかった。復讐を果たしたという満足もない。
ただ、長い疲労の果てに、ようやく終わりへたどり着いたような静けさだけが残った。
「離婚、財産分与、慰謝料については、これからすべて弁護士を通してください」
鞄を手にして立ち上がる。
扉の前まで来たところで、浩介が背後から叫んだ。
「美緒、俺は一度、間違えただけだ!」
足を止めたが、振り返らなかった。
「一度だけじゃない」
静かに答える。
「私があなたを信じるたびに、あなたは何度でも裏切るほうを選んだの」
6
浩介は当初、離婚届への署名を拒んだ。
時間を引き延ばせば、私が年齢や身体の状態、五年間の結婚生活を惜しみ、考え直すと思っていたのだろう。
けれど弁護士が離婚調停を申し立て、振込記録や匿名投稿、メッセージの履歴を正式に提出すると、ようやく私が戻らないことを理解した。
共有財産の清算は、想像以上に複雑だった。
マンションの頭金の大半は私の婚前資産から出しており、婚姻中の住宅ローンも主に私が支払っていた。高梨屋の改装時には、貸付金としてまとまった額を出したが、和子は一度も返済していない。
浩介は共有口座から何度も金を引き出し、優奈の家賃や妊婦健診、育児用品へ使っていた。
弁護士は、すべての入出金を一つずつ確認した。
最終的にマンションは売却され、残っていたローンを返済したあとの金額は、出資割合や返済状況を踏まえて大半が私に分配された。浩介には、無断で婚外生活へ流用した共有財産の返還と、不貞行為に対する慰謝料の支払いも課された。
浩介が既婚者だと知りながら関係を続けた優奈も、分割で慰謝料を支払うことになった。
優奈が逮捕されることはなかった。
子どもを失うこともなかった。
弁護士を通じて浩介は悠真を正式に認知し、法律上の父子関係を成立させた。悠真は引き続き白石姓のまま優奈が養育し、浩介は毎月決められた養育費を支払い、子どもの生活に支障が出ない範囲で親子交流を行うことになった。
優奈は悠真を連れ、北澄県雪代市にある実家へ戻った。
両親は、娘が他人の家庭を壊したことを簡単には許せなかった。それでも孫の生活まで不安定にすることは望まず、優奈が仕事を再開し、自分で子育ての責任を負うことを条件に、しばらく同居を認めたという。
弁護士からその話を聞いたとき、私は一言だけ答えた。
「悠真が、きちんと守られるならそれでいいです」
晴香がこちらを見た。
「その子を恨んではいないの?」
首を横に振った。
「悠真は、自分の生まれ方を選べなかったから」
責任を取るべきなのは、何をしているのか理解しながら、他人を傷つける選択を重ねた大人たちだ。
和子については、刑事手続きが進められた。
病院の診断書、怪我の写真、浩介とのメッセージ、残っていたサプリの検査結果に加え、警察は和子の購入履歴と、未開封の同一製造番号の商品を確認した。
同じ未表示成分が検出され、和子が妊娠を妨げる目的で私へ飲ませていたことも、捜査の中で本人が認めた。
医師は、身体機能の低下について、すべてが薬だけによって起きたとは断定できないものの、長期間の服用と悪化との間に強い関連があるという意見を提出した。
最終的に和子は、暴力行為と薬物を用いて身体へ害を与えた行為について有罪となった。前科がなく、事実を認めて損害賠償を支払ったことなどから執行猶予が付いたが、今後私へ直接連絡したり、接触したりすることは禁じられた。
高梨屋の経営も急速に悪化した。
ここ数年、和子は私からの支援を当てにして、改装資金の返済を続けていた。離婚後、私は貸付金の返還を正式に求めたため、和子は店舗を縮小し、裏手の土地の一部を売って債務を整理することになった。
悠真を利用して家業を守ろうとしていた。
けれど最後には、自分が何より執着していた店さえ、以前と同じ形では維持できなくなった。
浩介も会社を去ることになった。
資金の流れを調べる中で、優奈との旅行代や家賃の一部を捻出するため、浩介が虚偽の出張記録や接待費の申請を行っていたことが分かった。
社内調査の結果、重大な経費不正が認定され、浩介は職を失った。
仕事を失ったあとも、責任は消えない。
マンションは売却され、毎月の養育費と慰謝料の支払いが残った。私が生活を支え、高梨屋を援助し、問題が起きれば片づけるという環境は、もうどこにもなかった。
匿名掲示板で浩介は、妻も不倫相手も息子も手に入れながら、自分はほとんど金を払わずに済むと自慢していた。
今は、自分で選んだすべての生活に対して、自分の金と時間で責任を負わなければならない。
離婚届が正式に受理された日、市役所の職員が書類を見ながら確認した。
「婚姻前の氏に戻られるということで、こちらで間違いありませんね」
紙に記された名前を見つめた。
水野美緒。
「はい。間違いありません」
市役所を出たあと、しばらく建物の前に立っていた。
五年前、私は期待を胸に離婚届ではなく婚姻届へ「高梨美緒」と書いた。姓が変わることは、浩介と同じ家庭の一員になることだと信じていた。
五年後、私は再び水野美緒になった。
五年前の自分へ戻ったわけではない。
失ったものも、変わってしまったものもある。
それでも今日からは、この名前も、この先の人生も、高梨家のものではない。
7
離婚から数か月後、朝凪市を離れ、都心への通勤に便利な場所にある小さなマンションへ引っ越した。
以前の部屋より狭く、キッチンも半分ほどの広さしかない。それでも東向きのベランダがあり、朝になると日の出を見ることができた。
リビングに高価な家具はない。結婚式の写真もない。
自分で選んだ本棚と淡い色のカーテン、それから新しい葉を出した小さな観葉植物だけがある。
会社へも復帰した。
最初のころは、通勤電車の中で突然過去を思い出した。ベビーカーを押す人を見ると胸が痛み、和菓子店の前を通るだけで、和子から渡された白いボトルが頭に浮かんだ。
医師は身体の回復を見ながら、検査と治療の方針を改めて考えてくれた。
将来必ず妊娠できると保証する人はいない。
二度と子どもを持てないと決めつける人もいなかった。
医師はただ、まず身体を休ませ、少しずつ整えてから、治療を続けるかどうかを考えればいいと言った。
私は初めて、すぐに答えを出そうとしなかった。
以前は、結婚し、子どもを産み、家庭を築くという順序に従わなければ、人生は完成しないのだと思っていた。どこか一つでも欠ければ、自分そのものに価値がないような気がしていた。
今は少しずつ分かる。
人生は、決められた順番どおりに項目を埋めていく書類ではない。
治療を続けてもいい。
いったん立ち止まってもいい。
いつかまた誰かを愛する日が来るかもしれないし、一人で静かに暮らし続けるかもしれない。
その答えを、今すぐ決める必要はない。
裁判所と弁護士から最後の書類が届いたのは、冬の終わりの早朝だった。
和子が判決に基づく最初の賠償金を支払い、浩介も合意した金額の支払いを開始したことが記されている。弁護士からの手紙には、主要な手続きはこれですべて終了したと書かれていた。
封筒を引き出しへ入れ、もう一度開こうとは思わなかった。
名前、振込記録、診断書、怒鳴り声。
あれほど生活のすべてを埋め尽くしていたものが、今では数枚の薄い紙になっている。
もう、今日をどう生きるか決める力はない。
ベランダの窓を開けた。
湿り気を含んだ冷たい風が部屋に入り、遠くの空はまだ青みがかった灰色をしていた。街は完全には目覚めておらず、始発に近い電車だけが高架線を静かに走っていく。
やがて建物の間から太陽が昇り、金色の光が少しずつ窓辺へ届いた。
あの五年間は、決して越えられない深い谷のように思えた。
子どもを持てず、結婚を失い、身体まで傷つけられた自分は、もう二度と完全にはなれないのだと思っていた。
けれど朝の光の中に立ち、ようやく気づいた。
私の人生を完成させるものは、誰かから与えられるものではなかった。
傷つけられたことは事実だ。
奪われたかもしれない未来も、すべてが終わったからといって消えてなくなるわけではない。
あの人たちのおかげで強くなれたなどとは思わない。
傷つけられたことに感謝するつもりもない。
ただ、ようやくあの家から出てきたのだ。
自分のために温かいお茶を淹れた。白い湯気がゆっくりと立ち上り、カップのぬくもりが手のひらに伝わる。
窓の外では、太陽が完全に建物の上へ姿を現していた。
朝の光が、私の手元に落ちる。
長い夜は終わった。
それでも私は、ここにいる。
働き、食事をし、ときには過去を思い出して悲しくなる。
何でもない朝に差し込む光を見て、幸せだと思える日もある。
この先、もう一度誰かを愛するのか。
子どもを持つことになるのか。
どんな部屋で、誰と年を重ねるのか。
まだ何も分からない。
けれど、分からない未来を、以前のように怖いとは思わなかった。
窓をもう少し大きく開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
あれほど越えられないと思っていた日々は、もう後ろにある。
今日からも、私は私の人生を歩いていく。
一歩ずつ。
これからの毎日を、大切に生きていく。




