純黒に沈む
それは、とても暑い夏に突然迷い込んだ、非日常的な出来事だった。
その日はとても暑く、照りつける日差しは、肌を突き刺し、焼き焦がすようだった。
空を見上げれば、青々とした空に、太陽の光を遮るには、あまりにも頼りない薄雲が漂っていた。
正午を過ぎた町に人影はなく、夏の不気味な静けさを纏った景色の中、逆光に沈んで黒く染まった電柱が、妙に目についた。
左手に持ったコンビニ袋に、先ほど購入したアイスが入っているが、おそらく溶け始めているだろう。
そんななんでもない日常が一変したのは、ボロ臭いアパートに辿り着き、郵便ポストを覗いた時だった。
いつもの広告や、おそらく重要である郵便物に紛れ、見慣れない茶色い無地の封筒が入っていた。
不思議に思い手に取ってみても、差出人の名前はおろか、宛名すら書かれていなかった。
何かの悪戯か詐欺か、とにかく心当たりはなかったが、僕はそれを部屋に持ち帰り、中身を開けて、確かめてみることにした。
拝啓
初めまして。突然のお手紙に、きっと驚かれたことでしょう。
どうか安心してください。私があなたを知ることはありませんし、あなたが私を知ることもありません。
ただ、胸の奥で巡り続けるこのどうしようもない気持ちを、誰かに聞いて欲しくて手紙を書いています。
これから綴る言葉は、映画や小説の一節のような、そんなささやかな物語だと思っていただいて構いません。
どうかただの戯言として、軽く読み流していただけたら幸いです。
それはとても暑い夏に突然迷い込んだ、非日常的な出来事だった。
その日はとても暑く、窓から差し込む日差しは、冷房の効いていない教室にいる僕たちを、蒸しているようだった。
座っているだけでも脇に汗が滲み、ふと窓から見上げた空は青く、山の向こうに大きな積乱雲が聳え立ち、夏を鮮やかに彩っていた。
窓辺に視線を移したせいで、空いている石川の席が目に入った。
彼が学校に来なくなってから、一週間が経つ。
石川は、入学式の時に仲良くなった、最初の友達だった。
見た目は男の割にふわふわしていて、頼りなく見えがちだったが、優しく穏やかな性格に、僕は不思議と惹かれていった。
登下校は家が近かったため、一緒にすることが多く、放課後は日が暮れるまで互いの家でよく遊んだ。
彼の両親は共働きで、小学生の妹の世話をしないといけなかったため、遅くまで遊ぶことはなかったが、彼の作った晩御飯を、彼の妹のみかちゃんと一緒に、三人で食べることはよくあった。
つい一週間前までは、そんな日が続いていたのに、急に連絡が取れなくなったと思ったら、学校にも来なくなってしまった。
一体どうしてしまったんだろう。
午後の授業が終わり、その日も一人で帰路に着いた。
夕陽が僕の顔を寂しく照らす。
何かあったとしても、僕に相談できないくらいの事なのだろうか。
それでも少しくらいは、頼ってくれてもいいんじゃないか。
俯きながら、いろんな考えが頭の中を駆け巡る。
そうして歩いているうちに、石川の家が近づいてきた。
どうせ行ったって、誰も出てきやしない。
そう思って前を通り過ぎようとした時、二階の部屋の明かりが、ぱっとついた。
「あっ」思わず声が漏れ出した。
頭よりも先に体が動くとは、こういう事なのだろう。
気づけば、僕は石川の家のインターホンを鳴らしていた。
ゆっくりと扉が開く。
そして覗いた石川の顔に、僕は驚いた。
驚いたというよりは、彼だとは気づかなかった。
以前よりも痩せた顔に、目の下にできた大きな隈、そして、あの穏やかさは一体どこにいったのか、僕を見る彼の表情は、別人のように変わり果てていた。
「……久しぶり。元気してたか?」何か話さなければと思い、とりあえず言葉を発した。
僕を見つめたまま、彼はしばらく言葉を話さなかった。
その黒い瞳に耐えきれず、目を逸らそうとした時、彼はゆっくりと口を開いた。
「妹が、自殺したんだ」
時が止まった。
いや、僕の思考が停止した。
彼が何を言ったのか、分からなかった。
「妹は、いじめに遭ってたんだ」
「みかちゃんが……?」信じられなかった。
僕は戸惑いながらも、頭の中を整理しようと必死になった。
そして俯いた先に見えた、彼が右手に持っていた物に目を疑った。
「それは……?」恐る恐る尋ねた。
彼の右手にあったのは、ハンマーやナイフなど、サスペンスドラマに出てくるような、物騒な凶器ばかりだった。
「ああ、殺しに行くんだよ」冷たく凍りつくような声色で、彼は淡々と言葉を発した。
「ダメだよ……」震える手を強く握った。
「なんで?」
「殺しちゃダメだ!」勇気を出して、正義の言葉を口に出す。
「妹は殺されたのに?」
「っ……」僕は言葉に詰まった。
なんて言い返せばいいか分からなかった。
「なあ、どうしようもない奴らなんて山ほどいるよ。人が傷ついているのに気づかない奴。自分が人を追い詰めていることに気づかない奴。そんな憎い奴らがいる世界、僕は生きたいとも、死にたいとも思わない。ただただ殺してやりたい。今はもう、それだけなんだ」
そう言って、彼は家に戻った。
玄関先に取り残された僕には、彼の最後の言葉と、怒りの中に紛れた少し寂しげな彼の声色、そして、夕日の中に響く蝉の鳴き声だけが残った。
私は彼を止めたかったのでしょうか。止めることができたのでしょうか。けれど、彼の言葉が間違っていたとは、どうしても思えないのです。
明日、私の友達は、犯罪者になるかもしれません。取り返しのつかない大罪を犯すかもしれません。それでも私は、彼を悪人だとは思いたくないのです。
復讐は復讐を生むだけでしょうか。
黒に塗れた歯車を、彼が止めようとしたところで、彼の心は、何に救われるのでしょうか。
それが良人だと謳われる世界に、私たちは生きているのでしょうか。
敬具
彼に、自分に、世界に問うたその言葉は、届くべき人の元へは届かず、僕の手元の舞い降りた。
何か、夢でも見たような、そんな気分だった。
カーテンを開け、日が沈みかけた夜の景色を眺める。
空はまだ薄暗く、遠くの街では電灯や車のライトがぽつぽつと輝いていた。
ビルや家々は日の光を失い、鮮やかな色を徐々に闇へと沈めていく。
光が差さなければ、全ては黒色だ。
間違いや正しさは人の価値観であり、意思や決断は、人の本能であると僕は思う。
それが美しさなのか、はたまた醜さなのか。
少なくとも僕はこの手紙を、大事に取っておきたいと思った。