ノウの羽
子供の頃、上手い下手にかかわらず夢中になってノートにかいていた絵も、大人になると上手い下手にこだわって恥ずかしくなり他人に見せたくなくなると聴く。僕は幼少より、絵を描くのが得意であったからそんな気持ちになったことは無いけど、そもそもまともに勉強せず図画に打ち込む僕に対して絵を見せたところで良い反応をしてくれる相手は周りにいなかった。暗く無愛想な僕には友達もいない。……と、話を戻して、だ……。
例えば、スケッチブックに描きだす前に脳に描きたい像がおさめられていて、実際に紙にかいた後で羞恥をこらえきれず描いたスケッチブックを捨てたとしたなら、像は誰の目にも触れない脳味噌にのみ存在することになる。
こう考えて言い換えるとあのときから僕のこの部屋は、ずっと僕の脳なのかもしれない。
六十歳を半ば過ぎた僕は、依然として友を作らず人を寄せ付けず、時々絵を描く仕事の依頼を受けながら細々と、二人で実家で暮らしている。
「天気が良いねぇ。外に行かないのか?」
開け放たれた窓のそばで、青空より降り注ぐ陽光を浴びる青年は笑って言う。椅子に座り、作業する手を休めていた僕は幾度も答えてきた質問に面と向かって苦い顔をして、机の上の紙に視線を落とし強い筆圧で線を繋げつつ、いやだ、と一言口にする。
「そうか」
目を遣らないので表情ははっきりしないけれどいつもと同じ、きっと笑っているんだろう朗らかな声だった。
僕は鉛筆を止めて、ちらりと目の前の壁に掛けてある、市販の薄いノートが一冊入った鍵穴つきの特注の額を視た。
いつだって目に入るようにするため、保存のため、唯一額縁に入れたものだ。
何でも話せる家族だけど、血はつながっていない人である、窓際でゆったりと風景を楽しんでいる青年は、僕が小学生の時分にノートに何の気なしかいた何者でもない人が突然、何者でもない人の絵の横方に、鉛筆を握る僕の手を使って文字をつづらせ、独りだった僕は恐怖よりも好奇で会話した末に、彼がこのノートで、僕の部屋の絵に自分を描いてくれと言うので見開きで自室をしっかり写実して、絵の具できちんと色を塗り終わった瞬間に、僕の真後ろから声が聞こえ振り向くと、笑顔で立っていた、絵と全く同じ人物、なのだ。
いつか訊いたら、彼は、このノートにこめた、真摯に絵を描く僕の強い想いだと言い、どういう仕組みかはさっぱりわからないけれど、とにかく独りぽっちの子供の僕は無性に彼がやっと現れた僕の理解者の気がして、泣きながら背高の細い腰に抱きついた。彼は僕の頭を静かに優しく撫でてくれたのだった。
彼が存在出来るのは――僕を含めて彼が人の目に映りなおかつ肉体にさわれるのは、かならず、最初に彼をかいたあのノートの紙で、いてほしい所に彼が居る絵を完成させたその絵の範囲と同じ現実の場所のみだ。広めに事細かく描き写さなければ、現実で絵の範囲外の域に進んだ途端彼は完全にいなくなる。
ページの最後までぎっちりかいたノートはとっくに彼の行く先を足せない。――なにより、五十年以上経過しても見た目が一切変化せず若々しい彼の違和感に万が一変な噂がついて騒がれたら困るので、三十年前から彼は一歩も外出していない。
誰よりも一番近くにいた僕の両親は、僕が彼を家の中に隠れさせてやり過ごしてきたため彼の存在を知ることはなく僕が三十歳になった年に亡くなった。僕は絵を描くことを認めてくれぬ、すなわち僕を認めてくれぬ両親という自身の印象をおいて、絵と向き合っていない僕に接するときの両親、つまりふだんはどういった心持ちなのかわかろうとすらしていなかったがゆえに、いざとなると、どうしたら彼について納得してくれて一緒に住んでいいと両親の心が揺れ動くのか、常に両親は僕の行いに否なんだと思い込んでいる僕にはちっとも方法が浮かばなかった。
そして、身近で僕を肯定してくれる人の言葉ばかり容易くうけいれて、身近で僕を否定するかもしれない人の言葉が一句でも怖くてきつく拒んだ。僕は終に両親の言行の奥にある本当の気持ちを解する気を起こさないままだった癖に、その機会が一生失われたと思うと、今度は、彼の事も自分の事も話し合おうとしないで両親の考えを知ろうともしないで逃げ続けた己を悔いた。けれども話をすれば良かったとの後悔はいなくなった両親に向いて、僕の精神は前を向くということをしなくなり、以前よりさらに彼に甘えた。
彼は、食べることも、飲むことも、眠ることも、温もりも、鼓動も、なかったが、息をしてここにいる、僕にとっての確かな家族なのだ。
両親を亡くした数日後、僕が用事があって他の部屋に行き短い時間で済ませて自分の部屋へ戻ると、彼は額におさめていたノートを取り出して持っており、はじめて僕が彼に色をのせて描いたページを破ろうとしていて、僕は思わず「やめろっ」と怒鳴った。僕に眉尻を下げた顔で微笑し「俺がいると、君はどこにもいけない」言って紙を持つ指を動かしかける彼に、僕は喉を絞った。
さわるな、と。
「僕が描いたんだ。……触るな」
すると、彼の手指はそっと、色鮮やかなページを開いた形で机上に丁寧に置き、僕と見合ってやわらかく笑い穏やかな声色で紡いだ。
「そうだね。……ありがとう。」
そんな一件があって、僕は額縁に鍵穴を備えた。
「今日もきっと、いい一日になるよ」
晴れ晴れとした空を背景に笑い顔で明るい彼は、窓を枠にした美しい絵のようで、僕は彼の言に心の泥が少し掬われて笑みを僅かに溢す。
ささやかで大切な日々。
何人にも見せない脳裏で、ただ一人の家族を閉じ込め、信頼の鍵を奪って。
今日も思考に、僕は錠をかけるのだ。
『彼がいてくれればいい。』