異世界還りJKによる魔法少女式ダンジョン最速攻略
森谷 耕一は、優しげな顔立ちに眼鏡がよく似合う読書好きの少年だ。
高校からの帰り道、制服姿で行きつけの本屋に向かう途中の交差点、彼は信号待ちをする見知った少女の後ろ姿を見つけた。足どりが、ふわり軽くなったその瞬間。
見慣れた街並みに薄ら重なって、蜃気楼のように灰色の石壁が出現した。ドクンと足元が脈打ち、次の瞬間に壁はくっきり輪郭を伴って実体化する。
街は、出口のない巨大な迷宮──ダンジョンに変貌していた。
──ダンジョン禍。
そう呼ばれる一連の現象は、十年ほど前にイギリスの田舎町から始まったと、社会科の教科書にも載っている。そして今や世界中で連日確認され、発生頻度は日々高まっていた。
いずれダンジョンに飲み込まれ世界は終わる。そんな噂話を、誰も否定できずにいた。
ダンジョン内部は高層ビル並みの高さの壁に陽光を遮られ、真昼でも薄暗い。必然、夜には完全な闇と化す。あらゆる電子機器は誤動作で使い物にならず、外部との連絡手段は絶たれ、そしてダンジョンには付き物の、奴らもいる。
……グギ……ゲゲッ……
耕一の耳を、奇怪な声が逆撫でた。
ダンジョン発生からすでに一時間以上。彼が立っているのは、石壁に囲まれ長方形のフロアと化した元交差点だった。真横の壁には、光の消えた信号機が半分埋没している。
そして彼の背後には、合流した十人ほどの人々が身を寄せ合っていた。
対する奴らの数は五体。
シルエットだけならひどく猫背で小柄な人間の子供にも見えるが、まとう衣服は腰のボロ布だけで、緑色の肌に体毛はなく、耳も口も鼻も異様に大きい。
黄色く濁った目でこちらを睨みながら、じわじわ距離を詰めるそれぞれの手には、歪な形状の短剣がぎらりと光る。
──ゴブリン。ファンタジー作品に慣れ親しんだ人間なら、すぐその名が浮かぶだろう。
迷宮内には彼らに代表される魔物が徘徊し、閉じ込められた人々を無差別に襲う。最初にダンジョン化した町の住人たちは、一時間後には全滅していたと伝わっている。
……ギッギギッ……!
ゴブリンの一匹が、乗り捨てられた乗用車の屋根の上から、嘲笑にも聞こえる奇声とともに跳躍した。その手の歪な刃が狙うのは、身を寄せ合う人々のなかでも、幼い娘をかばうように抱く若い母親の背中だ。
──しかし、凶刃が届くことはない。
空中で見えない壁にぶつかったように、ゴブリンは体ごと後方へ弾き飛ばされる。その一瞬、少年を中心に人々を包み込む薄緑の光の半球が浮かんで見えた。
ダンジョンに閉じ込められた人間の中から、特殊な能力に覚醒する者が現れたのは、インドの農村部に出現した第三ダンジョンが最初だ。
そこで人類史上初のダンジョンボス討伐──すなわち「攻略」が成される。これも、社会科の教科書に載っていること。
ダンジョンに抗うため力を与えられたかのような彼らを、人は「探索者」と呼んだ。
──彼、森谷耕一は、ダンジョン発生直後に癒術士系探索者に覚醒したのだった。
ゴブリンを弾き飛ばしたのは癒術能力【熾天結界】。よく見ると彼を中心に、地面に薄く光る魔法陣が描かれているのがわかる。
「……阿久津さん……」
ゴブリンたちの動きに注意を払いながら、耕一はゆっくりその場に屈んだ。
彼の足元、魔法陣の中央には、彼と同じ高校の制服を着た少女が横たわっていた。
華奢な彼女のシャツの胸元は鮮やかな紅色に染まっていて、かざした彼の手のひらは、能力【治癒】に伴って暖かみある薄緑色にぼんやりと発光する。
ここに身を寄せ合う十人ほどの人々は、耕一によって傷を【治癒】され、【熾天結界】の庇護下にあった。
覚醒した直後にも関わらず複数人の治癒をこなし、かつ一時間近く結界を維持している彼は、国際基準に照らせばB級以上──おそらくA級癒術士に認定されるだろう。
もしこのダンジョンから、生還できたなら。
「なあ、きみ……その子はもう無理だ……あきらめよう……」
人々の中から、背広姿で白髪交じりの男性が、諭すように話しかける。
彼女は耕一の目の前で、その胸をゴブリンの凶刃で貫かれた。それをきっかけに、耕一の能力は覚醒した。
だとしても、男性の言っていることは決して理不尽ではない。自分の力が無限でないことは、自分がいちばんわかっていた。
ダンジョンに出口はない。外郭に入口は存在するが、一方通行だ。どこかに存在するボスを討伐することでのみ攻略され、壁も魔物もすべてが消滅する。
いずれどこかの探索者が攻略してくれると信じて待つしかない。
ゴブリンたちは遠巻きに結界を取り囲み、断続的に襲いかかっては弾き飛ばされるのを繰り返す。耕一の消耗を待っているのだろう。
攻略前に結界を維持できなくなったら、一斉に襲い掛かったゴブリンに蹂躙され、全滅するしかない。それなら、助かる見込みのない彼女の治癒をやめて、少しでも結界維持に余力を残すべきじゃないか。
──わかってる。わかってるけど、それでも。
「微かだけど、まだ息はあるんです……」
端に血のついた彼女の唇に、触れそうなほど耳を近付けた、そのとき。
「……もう、大丈夫……」
「──!?」
耳元で囁かれ、彼は跳ね上がるように上体を起こしていた。
その目の前で彼女──阿久津 美黎は、ゆっくり立ち上がる。肩上で切りそろえた黒髪が、はらりと揺れる。
「阿久津さん……? ほんとに、大丈夫なの?」
「うん。耕一くんが繋ぎ止めてくれたから、還ってこれたみたいです」
「そう、なんだ……」
ぱっつんの前髪の下で、いつもは自信なさげに泳いでいる瞳が、今日はまっすぐ彼を見つめていたから、そこで言葉が詰まってしまった。
そんな彼と、背後で身を寄せ合う人々に穏やかな視線を向けてから、彼女はぐるりと周囲を──遠巻きにこちらをうかがうゴブリンまで、見渡す。
「……まずこの状況を、なんとかしないとですね……」
「え……?」
そして結界の外側、ゴブリンの待ち受ける方へ歩き出していた。
「だっダメだよ、またあいつらに……!」
少年が背後から右腕を掴む。
「ううん、大丈夫です」
その手を左手でゆっくり包みこむ。
はじめてちゃんと触れた彼の手は小刻みに震えていて、指の力は驚くほど弱々しく、簡単に引き離すことができた。
きっともう、限界が近いのだろう。
「見ていて、耕一くん」
二人は、同級生だった。
両者とも内向的だから、同じクラスになって半年は一言も話したことがなかった。
ただ、図書室や本屋でちょくちょく顔を合わせているうち、お互い意識するようになっていった。
いつからだか少しずつ、好きな本や作者、そこから派生したアニメやゲームのことを話すようになった。
最近は行きつけの本屋で待ち合わせて、そこから途中までいっしょに帰るのが日課だった。
そして昨日の別れ際に、彼は言った。明日、どうしても伝えたいことがあると。
まだ勇気が出ないから、伝える約束だけさせてほしい、と。
──美黎は「うん」とだけ答えて、別れた。
彼女の右の手のひらには、銀のリングに黒い宝石の輝く指輪が乗っている。
結界の外に向かって歩を進めながら、眼前に掲げた左手の薬指に、指輪をするりと嵌めて宣った。
「魂約」
──瞬間。彼女の全身を、指輪から溢れた紅と黒の花吹雪が包み込む。
「阿久津さんっ!?」
驚く耕一たちの前で花吹雪は彼女の制服に同化し、再構築してゆく。
高校の制服のシルエットから大きく外れないまま、真紅と漆黒の二色の、高貴で優雅なコスチュームに変貌してゆく。
「いったい、何が……」
耕一は、呆然とその光景を見つめていた。
後ろの人々も、そしてゴブリンさえも。
ただひとり、母親に抱かれた幼い少女だけが何かに気付いて、満面の笑顔を浮かべる。
「だいじょうぶ、あのお姉ちゃんぷいきゅあだよ」
彼女が舌足らずに口にしたのは、日曜朝の平和を二十年来──ダンジョン禍が発生するずっと前から──可憐に癒し続ける少女たちに冠された名。
「だから、みんなを助けてくれるもん」
花弁に包まれた黒髪が、銀髪に変じながら縦ロールを描いて腰まで伸びる。
あどけなさ残る素顔にアイシャドウとルージュが彩りと強さを添えて。
最後に茶色の瞳を深い藍色に変え、花吹雪は四方に散った。
同時に、彼女の両足は完全に結界の外に出ていた。
少女の言う通り日曜朝系魔法少女のような──けれど決定的に悪役的な漆黒と真紅の衣装に身を包んだその美少女は、優雅な膝折礼と共にゴブリンどもに向けて名乗る。
「悪役令嬢、ミレイ──!」
我に返ったゴブリンたちが、五匹同時に美黎──悪役令嬢ミレイに襲い掛かる。
しかし彼女の唇には、不敵な微笑が浮かんでいた。
一匹目の顔面に右の拳を放ち、二匹目の首筋を左の手刀で薙ぐ。三匹目に向かって飛び膝蹴り、着地と同時に四、五匹目の胸に左右の掌底。
一匹目、頭部爆散。
二匹目、切断された生首が宙に舞う。
三匹目、上半身破裂。
四、五匹目、同時に吹き飛んで迷宮の壁に激突、肉片も残さず染みと化す。
文字通りの瞬殺だった。なお衣装にたっぷり浴びた返り血は、元が紅と黒なのでぜんぜん目立たない。
「あ……阿久津さんも、探索者に……?」
体術のみで戦うレアクラス・拳撃士の存在は耕一も知っていた。しかし悪役令嬢なんてクラスは、聞いたこともない。
「わたしね、異世界で悪役令嬢してきたんです」
「……え……?」
「乙女ゲームにそっくりな世界だったから、いろいろ上手くやって強くなって、それで還ってきた。やらなきゃいけないこと、思い出したから」
そして半分だけ振り向いて、彼女は静かに微笑んだ。
「だから行ってきます。その後で、ちゃんと聞かせてね」
理解が追い付かずに混乱していた耕一も、最後の一言の意味だけは理解できたから、「うん」とうなずき返す。
「びらねすー! がんばえー!」
幼い少女の声に続いて周りからも、弱々しくも激励の言葉が掛けられた。
美黎は──悪役令嬢ミレイはそれらに応えて大きくうなずくと、少しだけ身を屈め、跳躍する。
ドン、という爆発じみた衝撃音を残して、黒と紅の姿は斜め上空に跳躍、その勢いのまま前傾姿勢で壁を垂直に駆け上がって──見送る耕一たちの視界から消えていった。
◇ ◇ ◇
天宮 傑龍は“七人之侍”──日本に七人しかいないS級探索者のひとりだ。
しかも彼は盾衛士と剣撃士の能力を兼ね備えるダブルクラス、聖騎士。世界中でもほとんど類を見ないSSレアクラスであり、最強ランクの探索者として国内外のダンジョンを攻略してきた。
その上にモデルばりの長身と甘いマスクで、何度も雑誌の表紙を飾っている。スポンサーから提供されたスタイリッシュな白い防護服には、無数の企業ロゴが踊っていた。
ここまで来れば、多少の俺様な言動も許されるだろう。
──しかし天宮は今、絶望の底にいた。
複数の上級魔法士の未来予知スキルによって、今までにない大規模迷宮化災害が予見されたのは三日前。
パニックを避けるため国民には情報が伏せられ、代わりに天宮をリーダーとしたA~S級混合最高戦力部隊の即時投入をもって最速攻略する作戦が立案された。
予知から時間も位置も大きな誤差なく迷宮は発生し、領域内に待機していた部隊は即時攻略を開始する。
道中には過去にボスとして確認された強力な魔物が立ちはだかるも、最高戦力部隊の前に次々と撃破。攻略開始から約四十五分後には、未だ充分な余力を残して十体目の三頭狼を葬り、ボスフロアまで到達する。
──そこまでは。
駅ひとつをまるごと内包した広大なボスフロアに、そいつは待ち受けていた。
『聞け、愚昧にして脆弱なニンゲンよ』
全員の脳内に直接、威圧的な思考が響く。それだけで十六人の精鋭部隊の大半が恐慌に陥り、戦意を喪失した。
『我が名は異宮龍皇ドルディガス、すべての世界を支配圏にする者なり』
全身を黄金の鱗で覆われた二足歩行の巨大なドラゴン。五階建て屋上ほどの高さから黄金の瞳で見下して、さらに思考を浴びせ続ける。
『我が降臨により、この下級世界の守護結界は完全に無力化された。ほどなくすべては我が支配圏に塗り潰されよう』
だとすればこいつが、あらゆるダンジョンの元凶ということになる。そしてこれから、世界は終わる。
逆に言えば、この異宮龍皇を討伐すれば迷宮化災害はもう発生しない。各地に残る未攻略ダンジョンもすべて消滅させられるかも知れない。
もしそれが成せたら、ダンジョン禍を終わらせ、世界を救った英雄として社会科の教科書に──いや、人類史に名を刻まれるだろう。
そして、討伐が不可能だと悟ったからこそ彼は絶望していた。
初手の炎息掃射で既にパーティは半壊。能力で顕現させた鉄壁を誇る白銀の聖盾は飴細工のように熔け落ち、決死で足元に打ち込んだ聖剣は黄金の鱗に弾かれ刃こぼれした。
『管理者が悪あがきをしたようだが、こんな下級世界の能力では我に傷ひとつ付けること叶わぬ。さあ、終わりにしてやろう』
彼らの脳内に、死刑宣告が鳴り響く。
再度の炎息掃射に向けて胸部の鰓から取り込む大気の流れが、激しい風となって異宮龍皇の方に吹いてゆく。
この風が止まった時、炎息はフロア全体を焼き尽くすのだろう。
なお、フロアの入り口のゲートは閉ざされている。
ボスフロアからは、ボスを倒さねば出られない。
──無理だ、レベルが違う。どうする、俺だけでも死なずに済む方法はないのか!?
「ねえ待って、あれは何かしら?」
パーティのひとり、無駄にヒラヒラのついた防護服の女が、負傷メンバーを治癒しつつ緊張感の欠ける声を上げた。
だいたいこの女が悪い。なにが「美しすぎる聖女癒術士」だ。たしかに顔は可愛いしスタイルもいいが、自分一人分の【熾天結界】しか張れないんじゃ連れてきた意味がない。
「ねえ見て、壁を駆け下りてきてる! あれって人間?」
スポンサーの推薦なんか突っぱねるべきだった。下心からつい口添えしてしまったことを後悔する間も、癒術士は視線を上方に向けて能天気に何かほざいている。
「もしかして壁を越えてきたのかしら……あっ! 跳んだ!?」
ばかばかしい、どんなに戦士系の能力で身体能力を高めようと、高層ビル並みに高い壁を越えてくることなどできるはずがない。
「うるさい黙れッ! 集中しろ、この足手まといどもがッ!」
ついにキレた彼が、他のメンバーへの不満もまとめて吐き捨てたのと、それは同時だった。
ドン、という爆音を響かせて、パーティと異宮龍皇の中間に何かが着地し、土煙をもうもうと巻き上げた。
土煙を風が運んで、その向こうに浮かぶ細身のシルエット。異宮龍皇に背を向けて、片膝と左手は地面に着き、右腕は手刀の形でまっすぐ真横に伸ばしていた。
漆黒と真紅の衣装をまとい、風に銀髪なびかせる少女──悪役令嬢ミレイ。
「──悪役令嬢 断罪刃」
技名らしきものを口にした彼女の真後ろに、一拍遅れて上空から巨大な塊──異宮龍皇の頭部だけが落下し、更に大きな地響きと土煙を巻き起こしていた。
「へ……?」
呆然とする天宮の視界の中で、少女は悠然と立ち上がる。入れ替わるように、斬首された異宮龍皇の巨体は、スローモーションで前のめりに倒れ込む。
──風は止んでいたから、フロア全体に巻き上がった土煙が晴れるまでだいぶ時間を要した。
小山のような巨龍の骸を前に、パーティは幸いにも全員無事だった。
しかし、その立役者である少女の姿はどこにもない。
「……なあこれ……俺が倒したってことで、いいかな……?」
天宮の問いかけに、パーティメンバーの誰ひとり応えることはなかった。
◇ ◇ ◇
壁の輪郭が、上端から徐々に薄れて消えてゆく。
その上を耕一のもとに帰るため跳び越えていた悪役令嬢ミレイは──しかし途中で足をもつれさせ、迷宮の一角に転落していた。
力を振り絞って立ち上がる彼女の、衣装も銀髪も、みるみる元の姿に戻っていく。どうやら異世界との繋がりが切れたらしい。
同時に、それまで使っていた強大な力の反動が、帰宅部系女子である美黎に容赦なく襲いかかっていた。
薬指から、指輪が煙のように蒸発していった。
全身が引き千切られるような痛み、動かない手足。そして霞んでゆく視界の先には、緑色の小柄な人影がいくつか見えた。
ゴブリンだ。奴らは弱者の匂いに敏感だ。
魔物は、迷宮が完全消滅するまでは存在できる。それまでに通常は三十分から一時間は掛かる。最後の瞬間まで、彼らは人間を狩るのだ。
そして今の彼女に、抵抗する力はわずかも残されていない。
──ごめんね耕一くん。伝えたかったこと、聞けそうにない。
意識が薄れて、前のめりに倒れ込む彼女を……横合いから駆け寄った誰かの腕が抱きとめる。そしてそのまま、ぎゅっと抱きしめられていた。
「ごめんなさい! でも抱擁が治癒力が高いはずだから……」
聞きなれた声が耳をくすぐる。並んで歩いていたとき、手が一瞬触れただけでめちゃくちゃに謝られたのを思い出す。森谷耕一はそういう少年だった。……そういうところが、好きだった。
かすんだ視界に、柔らかな薄緑色の光が見えて、抱きしめられた全身に体温とは別種の優しい温もりが流れ込んでくる。──激痛が、嘘のように消えてゆく。
「どうして、ここに……?」
「ええと……みなさんが、追いかけないと駄目だって言ってくれて……」
周囲から「きみがウジウジしてるから」「まったく女心が分かってない」とか聞こえてきた。耕一と一緒にいた、彼が助けた人々が、背中を押してくれたらしい。
すごく嬉しかった、けどダンジョン内はまだ魔物が徘徊していて危な……ってそうだゴブリンは!?
我に返って目を開くと、自分を抱きしめる耕一の肩越しの景色のなかを、ものすごい勢いで緑色の塊──ゴブリンがふっ飛んでいき、地面を何度かバウンドしながら転がって、やがて動かなくなった。
「……え……?」
抱きしめられたまま後方に首を巡らせると、あの母親に抱かれていた幼い少女が、蒼い光に包まれた拳を真っすぐ突き出して満面の笑顔を向けてくれた。
周囲には他にも数体のゴブリンが、情けなくのびている。
後方ではその母親が、腕組みして誇らしげに頷いている。
「あの子が、拳撃士に覚醒したんだ。たぶん、阿久津さんの姿が刺激になったのかも」
「そ……そうなんだ……」
耕一は苦笑を浮かべながら、ゆっくりと体を離す。
痛みはもうなかった。疲労感はあるけど、支えられなくとも一人で立てるだけの体力は戻っている。
「もしかして……阿久津さんが、ボスを?」
「うん」
「すごいね」
「ううん。力を貸りただけだから」
彼の言葉で、今も異世界に存在する悪役令嬢としての自分に思いを馳せる。遺してきた記憶のなかの完璧な攻略プランを使って、どうか皇太子と幸せになってほしい。
「……それじゃあ……阿久津さん。約束通り、伝えたかったこと……今ここでもいいかな」
「……えっ、ここで……?」
不意打ちに、美黎はゴクリと唾を呑み込んだ。……なぜか、周囲からも同じ音が幾つか聞こえた気がする。
目を向けると、全員が不自然にこちらに背を向けて、何か話したり口笛を吹いたりしている。わざとらしさに、ちょっと噴き出してしまう。
「ええと、その……僕と……」
「……はい」
「お……お……」
「お……?」
そして彼は、必死で想いを絞り出した。
「おでかけ、しませんか!? ふっ二人でっ、古本市にでも!!」
「…………え?」
それが想像していたよりもだいぶ手前の言葉だったから、美黎は思わず固まってしまう。だって「お」で始まるなら「おつきあい」だと思うじゃない……。
二人の間に、沈黙が流れる。そこにトコトコ歩み寄るのは例の幼い少女。
「もう! そこは『けっこんしてください』だよ!」
「えっ!? けっ!?」
少女が腕組みしながら言い放ったまさかのフレーズに、唖然とする美黎。しかし幸いというべきか、耕一の真っ赤に染まった耳にその言葉は届かなかったようだ。
「……それはそれでさすがに早い……かな……」
「わたし、ユウヤくんとハヤトくんと、あとマサトくんからも言われたよ?」
「もっ……モテモテなんだね……」
「えへへ!」
軽い敗北感をおぼえつつ視線を戻すと、彼は両目と両手をギュッと閉じたままで彼女の返事を待ってくれていた。その一途な姿がひどく愛おしく思えて、鼓動がひとつ、大きく高鳴る。
少し想像しただけでもわかる。彼と二人で巡る古本市は、めちゃくちゃ楽しいに決まっていた。
もしかしたら、そこで今度こそ告白してくれるかも知れないし。
いいや、何ならこっちからしてしまおう。
「……うん。おでかけ、しましょ」
おおおおお……と周囲から歓声が上がる。次の瞬間には、なぜか背広のおじさんが彼と抱き合って喜んでいた。
さっきまで、そこはわたしの席だったのに……おじさんに嫉妬心が芽生えてしまった美黎は、横から耕一の手をそっと握ってみる。
「阿久津さん……?」
驚いた顔で彼女を見た彼は、遠慮がちに、でもしっかり手を握り返していた。
──この日。地球上の全ダンジョンが消滅し、奥手な少年と少女の距離が、少しだけ縮まった。
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