46.5 クラウディア II
人生の幕引きは必ずしも劇的ではない。
単調な日常の延長線上に、ただ終わりが訪れる。
やり残したことや、生への執着よりも、私という人間の物悲しさをどうにか挽回できないかと身動きの取れないベッドの上でただもがく。
それもまた日常になり代わる。
部屋を埋め尽くす花々を見ると陰鬱になる。
私の命を吸って、瑞々しく美しく咲き誇っている。
私が枯れて養分になるのを待っているではないか。
残念だったな。
「私は火葬だよ」
期待外れな解答にも花々は落胆を見せない。
「何が面白いんだい、クラウ姉さん?」
「よく来られたわね」
「……私は弟だよ。メイドも融通ぐらいするさ」
「違うわ。仕事は?」
失態を挽回するために、各地の不穏分子を根絶やしにする。
心に負担の掛かる仕事だ。
「順調だよ。安心して」
薄情な弟が心配で会いに来てくれた。
けれど、喜べない。
「体調はどうだい?」
「私がいつ死ぬか確かめに来たのね」
「ひどい言い草だ……家族じゃないか」
優しく語り掛け、私の頬に触れる。
この無防備な状態で、弟と二人きりになっている状況が恐ろしいと感じる。
美しい花でさえグロテスクに見えるほどに。
「姉さん、何が見える?」
「……悪魔」
悪魔は歪な笑みを浮かべた。
「熱は正常な判断を鈍らせる。薬を飲んだ方いい」
「死期を悟ることで目が開かれることもある」
宰相として、帝国を維持するために後ろ暗いことをしたこともある。
私の決定で大勢が死に、大勢が人生を狂わせた。
その判断の度に、私は消耗していった。代償だ。
フェルナンドは辛い決断の後も穏やかで、生気に満ちていた。
私は狩りに出て息絶えた獲物を前に罪悪感を抱き、彼は戦利品を得てただ満足する。
「あなたには、心が無いのね」
「分かっていて私を使っていたのでしょう?」
ギルバート軍の参謀として、フェルナンドは的確かつ迅速に反乱の芽を潰してきた。
それでも、心はあると思っていた。勘違い……いえ、ただ向き合っていなかっただけ。
「ユリースは美しかったわ」
「また、彼女の話ですか」
「聡明で、気が利いて」
「ですが、ウェール人とのハーフだった。だから、疎まれ濡れ衣を着せられた」
「あなたは……悪評を流したメイドを自殺に追い込んだ」
「まさか。当時私は7歳だ」
ユリースの死の前、失踪したメイドが二人。
フェルナンドのメイドは長続きしない。その後の足取りは調べてもわからない。
自分では手を下さない。
弱みを握ったのか、人を使ったのか、ただ噂を流しただけなのか。
フェルナンドは悪意のコントロールの天才だ。
他人を唆す。
当時は疑いもしなかったが、参謀としての腕を見ていれば、どんな類の人間を扱い、何をさせているのかは察しがつく。
私も父上もギルバートも知っていた。
母が身罷ったとき、10歳のフェルナンドは周囲を観察してそれらしく振舞っていた。
まるで退屈な行事に飽きてやりがいを見出すかのように。
冷血さは覇者の証。
周囲はもてはやした。
私は畏怖した。自分とは違う人間だと。
他人の命を使って、自分に何ができるのかを試している。
弟は異常者だ。
「ユリースもあなたが……」
「……姉さんは限界だ。悪魔に魂を売りでもしない限り、治療の見込みはない」
「……なら私を治せる?」
「カルテは読んだよ。現代の医学では手の施しようがない。外科的治療をしようにも姉さんの身体にその体力は残っていない」
「あなたは医者ではないわ」
「でも構造は理解している……ユリースのことは残念だったね。今にして思えば、私は彼女から大いなる道を示されたのかもしれない」
フェルナンドは話した。
よりよい未来について。
ユリースの願い。それを叶えたい。
植民地の人々を解放し、帝国を本来のあるべき姿にする。
それが、自分を宰相に指名させるための出まかせであることは明らかだった。
フェルナンドは練習しているようだった。私の反応を見て、どう言えば信用されるのか。
「殺した?」
「それはルージュ姉さんだよ。でも、彼女は自分を殺させた。不届きものとしてね。なぜかは、私にも分からない」
「……彼女はお前を愛していた。実の子のように……だからよ」
今ならわかる。ユリースの気持ちが。
こうなってしまっても、弟だから。
「それは行動心理に反していると思うけど」
「彼女はお前の正体を知ってしまった。お前がしたことも……だから、自分を犠牲にして秘密を守った」
「それは……面白い見解ですね。だとしたら、ユリースに感謝しないと」
「救いようがないわね」
「あはは、今の姉さんがそれを言うとちょっと面白いですね」
彼女の死は無駄だった。変えることはできなかった。
フェルナンドにとってはただの都合のいい死だった。
「ところで、『ダイダロス』の件を聞いたよ。すごい計画だ。バラバラの各派閥を一つの夢に向けてまとめた。姉さんは人を操る手腕を、グリム君には人を惹き付ける魅力がある」
「……邪魔はしないで」
「何もしないさ。ただ、姉さんの最後の仕事は実を結ぶことは無い。グリム君は重大なミスを犯している」
「ミス?」
弄ぶ気?
「……グリムは操れないわよ」
「そんな気はない。それではつまらない……彼はユニークだ。スカーレット、ルージュ姉さん、あなた、私、それに父上……彼には皇族を誑し込む才能がある」
「……彼を振り向かせたいの?」
「人生は長い。喜びが必要でしょう?」
フェルナンドは席を立ち、扉へと向かった。
「8年ですか。父上が生んだ無秩序をよくぞまとめましたね。代償は大きかったが、誇りある生きざまでした。どうぞ安らかに」
どうすることもできない。
私は不意に訪れた非日常に、恐怖を駆り立てられた。
このまま、何もできず死んでいくのか。
苦しみを与えに来た弟を呪った。
花は何の慰みにもならなかった。
◇
朦朧とする意識。
曖昧な時間感覚。
声が聞こえた気がした。
視界には何も映らない。
ついに死神が私に終わりを告げに来たか。
《希望を捨てないで下さい》
希望など何もない。
《あなたにはまだやらねばならないことがあるはずです》
そうかもしれない。
でも、もう無理なのよ。
《新たな人生……望むなら、与えましょう。新たな、命を》
死神ではなく、悪魔の囁きか。
対価に魂でも欲しいの?
《その代わり、あなたには使命を果たしてもらいます》
使命って?
《事の、決着ですよ》
決着……
《命をつなぎとめる不確かな手段のために、全てを捨てる覚悟をして下さい》
いいわ。
悪魔には悪魔よね。
真っ暗な部屋の中、意識を取り戻した私はそこに誰もいないことを確認した。
悪魔でもない限り、この部屋に入ることはできない。
夢か幻覚か。病人の末期症状。
意識が落ち着いたとき、暗闇に怪しく光るものを見た。
無人の『ゆりかご』が発する信号増幅機の光は、そこに希望があることを告げたあと、私に眠りを促すように消えた。
私は待つことにした。次の人生とやらが訪れるその時を。
「……天使だったのね」
月明りのわずかな光だけでも花々の色彩は美しく私の心を彩った。