序章.40
毎日決まった時間に起きる。
柔らかすぎて寝心地の悪いベッド。シーツにしわができている。そのままでは気持ちが悪い。
直したいが、人の仕事を取るのは良くないし、これぐらいが自然だ。
枕についている髪の毛を見つける。掴んで紙に包んで捨てる。
身支度に時間はかけないが手は抜かない。
もう慣れたものだ。
この一人で自分自身を作り上げる時間は安心できる。
一種のルーティンといえる。
鏡の前の自分を見る。
すると虚像が語り掛ける。
『世界は狂っている。ならお前はまともだ』
この虚像は雄弁だ。毎日このおしゃべりに付き合っている。
「カオスは自然の摂理だ。それとおれは関係ない」
『自身の異常性に無自覚な奴は多い。他者を理解できない無能さを自覚しているお前は、他者を特別理解できる。特殊なだけだ。おかしくはない』
「矛盾だね。おれはお前を他者と認識しているが、理解できているとは言い難い。それに虚像を自分だと認識していない時点でまともじゃない。世界は狂っている。だからおれも狂っている」
一人で鏡の中の自分と話してしまう。
悪い癖だが治らない。
『お前は自由だ。望むべく何者にでもなれる』
「この権力構造の檻の中に、自由などない。皇族のおれは権威と融合した個人であり、同時に、自分自身を監視するよう強いられている。ここからの脱却に真の自由はない」
『だからこそ、お前の行動には意味がある。構造的歪みを正すことで積極的自由を手に入れろ』
この問答に意味はない。
扉がノックされた。
メイドが入ってきた。
良く働いてくれる。
唯一、長く続いているメイドだ。
「フェルナンド様、管理庁で問題が」
「ああ、すぐに向かうよ……」
まだ、朝食前だ。
朝食を食べ損ねた顔をするべきか?
「お早く。皆さまお待ちです」
「ああ、うん」
おれは中央技術管理庁へ出向いた。
連日、慌ただしく動く職員たち。
おっと、おれも慌てているフリぐらいはしておこう。
「みんな、すまない。遅くなったようだね」
「殿下!」
駆け寄ってくる職員たち。随分と寝不足のようだ。
対応に追われているのだろう。
「朝早くから申し訳ございません! 先ほど、パルジャーノン家の管理する西のザルタス製造工場が夜襲を受けたとの報告が……!」
「ザルタスだって? あそこは基礎フレームを担っている要所じゃないか! それで、被害は?」
「……基礎フレームとアブソーバ、それに各種感応機とのライン製造のマニュアルが盗まれたと」
慌ただしかった居室が静まり返った。
製造マニュアルは金銀財宝より価値のある情報だ。
これでパルジャーノン公爵家はお終いだな。
「なぜなんだ……一体どうやって……」
みんなどうやらおれの発言を待っている。
「視察の際、警備の穴は指摘したのだが。公爵に重要性が伝わっていなかったのかもしれない」
「敵に情報が洩れている可能性は?」
「その可能性は高いだろう」
まぁ、情報を流したのはおれなわけだが。
◇
9日と2時間半前。
パルジャーノン公爵家が管理する帝国西地区ザルタス工業都市を視察した。
「殿下、実は最近孫が生まれまして。ぜひ抱いてやって下さい」
「もちろん」
公爵に抱き抱えられ泣きじゃくる未来の当主。
「とても元気な赤ん坊ですね」
「いやはや、恐れ入ります殿下」
「きっと、おじい様の恐ろしい悪だくみに気付いているんですよ。赤ん坊は勘がいい」
「ふはは、それは良いですな。この子は大物になりそうだ! ふははは!!」
子どもは嫌いだ。
勘がいい。
「おお、さすが殿下。泣き止みましたな」
「属州に赴くと、現地民とよく話します。彼らによく頼まれるんですよ」
「なるほど。殿下の徳にあやかろうとは殊勝なことだ」
その無垢な瞳におれはどう映っていたのか。気付いていたのだろうか。
おれがこの家に破滅をもたらすものであると。
どうでもいい身内の近況話にはうんざりした。
真面目に取り合う気が無い公爵にもおれは熱心にアドバイスをした。
防衛の穴、敵の侵入する可能性やリスク。必要な増援。
公爵はその場では感謝を表し、防衛を強化すると言った。
だが、公爵はひねくれた金の権化。
無能だ。跡目争いで兄弟を殺し、前当主から受け継いだ資産を食いつぶしてきた。
投資に失敗し、都市経営は火の車。隠しているがバレバレだ。
警備体制の刷新には莫大な金が掛かる。
だが視察で指摘を受けた手前、何もしないのは不安だ。
案の定、公爵は兵士の勤務時間を増やした。
いつ来るかも分からない襲撃に備え、兵士に負担を強いる。一週間もすれば、疲労はピークに。緊張感のゆるみから、警備に無かったはずの穴が生まれる。
その結果は明らかだ。
9日と2時間半後。
公爵の失態に管理庁が揺れた。