下
目眩がしそうな程に煌びやかなホールは、招待された貴族や各界の著名人で溢れている。
今日の晩餐会の招待客が貴族のみではないことに、カタリナは幾分かほっとした。
今回の晩餐会は隣国の皇太女夫妻の訪問を記念してのものだった。
二人は半年程前に結婚し、今はハネムーンを兼ねて近隣諸国を外遊して回っているのだと言う。
主催者である王家の横に座り、仲睦まじく寄り添っていた。
大国である隣国の皇太女の結婚についてはこの国までその慶事が伝わり、我が国からも隣国に縁のある貴族が参列していたらしい。
その華々しい内容を新聞で目にしていたカタリナは、話題の人物を眼前にして思わず胸の高鳴りを覚える。
さすがは大国の次期国王夫妻。その堂々たる立ち居振る舞いは周囲を圧倒している。心は庶民のカタリナにとってまさしく雲の上の存在のような人物だ。
お二人の姿を見られただけでも、今日ここに来て良かった、とカタリナは胸を躍らせる。
やがて晩餐会の開始が王の乾杯をもって告げられ、いよいよ晩餐会は社交の場へと熱気を帯びてくる。
カタリナはこの腹の探り合いのような貴族の交流が心底苦手だった。
まずは順に王家と主賓への挨拶を済ませなければならない。早々に回ってきた順番に、カタリナはいつものようにアレスティーナの横で気配を消すようにひっそりと息を潜め、カーテシーをして頭を下げながら時が過ぎるのを待っていた。
「アレスティーナ…?」
コルター侯爵が家族を紹介し終えると同時に、その呆気に取られたような声は聞こえてきた。
決して大きな声ではなかったが、思わず漏れたようなその声に一同が声の主へと視線を向ける。
「まぁ…!まぁ…!まさかこのご令嬢なの!?ジュード!」
今回の主賓である隣国の皇太女がキラキラと目を輝かせながら、アレスティーナとジュードと呼ばれた帯剣した美丈夫を交互に見る。
ちらりと盗み見たアレスティーナは驚きに目を見開いてその青年を凝視していた。
それは、彼の人も同じ。
「まぁなんてこと!こんな運命的なことはないわ!ねぇエディ!」
「…アルミラ、少し落ち着きなさい」
興奮を隠しきれない様子の皇太女を、傍のエドワード殿下が困ったような顔をしながら肩に手を回して宥める。
こほん、と態とらしい咳払いをして、王が場を収めた。
「さて、アレスティーナ嬢とジュード殿はお知り合いかな?」
「知り合いと言う程では…何度か面識のある程度です」
「でもでも、ジュードってばアレスティーナ嬢に心奪われてしまったのでしょう?」
「アルミラ様…!」
王の問いにどこか歯切れの悪い返事をしたジュードの言葉に被せるようにして、アルミラは夢見る乙女のような表情をして言った。
焦ったようにその名を呼んだジュードの耳が赤くなっている。
「こんな素敵なお嬢さんだったなんて…あのジュードが腑抜けるのも納得だわ。アレスティーナ嬢、このジュードは私の従兄弟にあたるのですが、生まれてこの方剣術に勤しんでばかりで…すっかり年頃なのにまだ縁談もまとまっていなくてどうしようかと思っていたのです。顔は見ての通り申し分ないでしょう?この若さで近衛副隊長という実績もあるし、生家も我が国では有数の名門、イェールネン公爵家の次男ですのよ?どうかしら?お嫁にこない?」
「アルミラ!」
「アルミラ様!」
アレスティーナの前まで歩み寄ったアルミラが、その手をきゅっと握りながらアレスティーナに畳み掛ける。
周りが口を挟む暇もない程軽快に、アルミラは周囲が度肝を抜くような発言をぽんぽんとした。
焦ったエドワードとジュードがなんとか諌めようとするが、その勢いは止まらない。
「アレスティーナ嬢もこの国の名門侯爵家のご令嬢なのでしょう?弟君もいらっしゃって後継も問題ないでしょうし、お家にとっても悪い話ではないと思うわ?何より御家の家業である紡績事業は我が国と縁あって損はないと思いましてよ?」
アレスティーナの手を握りながら、視線は横のコルター侯爵へと向けられた。
にっこりと美しい笑みが浮かんでいるその顔は、何故だろう有無を言わせぬ圧力がある。
アレスティーナの横でその話を聞いていたカタリナは、皇太女の思いつきのようで無計画ではないその発言に舌を巻いた。
今回の主賓、皇太女夫妻の母国はこの大陸で最も影響力を有している大国である。
この国の同盟国であり、最たる貿易相手国。もはや隣国の庇護下にあると言っても過言ではない程に、この国はその恩恵を受けている。
はっきり言えば、格上の相手。
何の勝算もなく、無鉄砲な発言をしている訳では断じてないのだ。
きっとコルター侯爵家と隣国王家の外戚が縁続きになることは、カタリナには計り知れないような意味があるのだろう。
「いや、しかし、アレスティーナには…」
やっとのこと、言葉を発することができたコルター侯爵は、カタリナが聞いたこともないしどろもどろな話し方をした。
いつも厳格な姿からは想像もできないほどに、場の空気に押されている。
「まさか、もう婚約者がいらっっしゃるの?」
「恐れ多くも皇太女殿下、アレスティーナ嬢と婚約することになっているフィバート大公家のミハイルと申します。この件に関して発言をお許しください」
「えぇ許します」
どこから現れたのか、ミハイルがカタリナの横に並んだ。
割って入ることに礼をし、穏やかな笑みを浮かべた悠然たるその姿に、カタリナの胸はときめく。
「ご心配には及びません。幸いにもまだ正式な婚約を交わす前ですので、私は両国の発展の為に喜んで身を引かせていただきます。アレスティーナ嬢にとっても、コルター侯爵家にとってもこの上ないお話かと存じます」
「まぁ!ミハイル卿の寛大なる御心に感謝致しますわ。フィバート大公家には何か御礼をせねばなりませんね」
にこやかに笑みを浮かべ、アルミラは満足気に頷いた。
コルター侯爵は、尚もしかし、と言葉を言い淀む。
「それでは、フィバート大公家は…」
侯爵の憂いも理解できる。幼い頃から進められてきた縁談の話だ。何年もかけて両家が良好な関係を築きながらこの日までやってきた。
それが予想外の出来事で破談となれば、大公家はまた相手を探すことから始めなければいけない。
貴族同士の婚姻は、国の発展のために様々な要因を計算した上で執り行われている。もちろんこの婚姻にも王家の意思が少なからず関与していた。王家の最側近と言える傍系家系なのだ、当然と言えば当然のこと。
「コルター侯爵、驚きの余り失念しておられるようですが、御家にはもう一人ご令嬢がいらっしゃるではないですか。私はこのカタリナ嬢と婚約させていただくので、何も問題はありませんよ。ねぇ父上」
そう言って肩にそっと回された腕に、カタリナは意識が遠のきそうになった。
蚊帳の外だと思っていた自分が、まさかこんな形で渦中に引っ張り込まれるなんて誰が想像できただろう。
見上げた先に見えた包み込むような優しい笑みに、何も心配はいらないとしっかりと支えられたその腕に、カタリナは何故だか涙が溢れそうになる。
ミハイルの背後にいた大公が諦めたような顔をして「如何にも…王家の御心のままに」と述べ、匙を投げたように首を振った。
今この場で否を突き付けられる人間など、果たして存在しているだろうか。
王の眼前、多くの貴族たちが固唾を飲んで見守るこの空間で、大国の皇太女の采配に異を唱えるなど良識ある者であればできるはずもない。
大公の言葉を聞いて、ミハイルはカタリナに対して安心させるように大きく頷く。
夢見心地なように、ふわふわとした感覚がカタリナを襲っていた。
自分が偉大なる大公家の正妻になるなど、あり得るはずもなかったことが、今実現しようとしている。
いっそ自分に都合の良い夢だと言われた方が納得するような出来事だ。
ミハイルに支えられていなければ、この場にへたり込んでいたことだろう。
「アレスティーナ嬢」
アルミラの後ろに控えていたジュードがアレスティーナの前に跪き、片手を差し出す。
「まだ貴女と知り合って間も無い上、互いのことをほとんど何も知らない。だが私は貴女を伴侶に迎えたいと思っている。何故だかわからないが、貴女以外いないと、そう確信できる。どうか私の手を取り、我が国に共に来てくれないだろうか。貴女にどうしようもない程心惹かれているこの憐れな男に、どうか慈悲を」
まるで絵本のお姫様と騎士のワンシーンのように、二人の周りだけが華やいでいた。
乙女たちがうっとりとその光景を眺め、感嘆の息を漏らす。
熱く燃えるような瞳に射抜かれて、アレスティーナはこくりと喉を鳴らす。
周りが息を潜めて見守る中、差し出された大きな手にアレスティーナの白魚のような手がそっと乗せられた。
「…はい、喜んで」
一瞬の静寂の後、辺りをワァっという歓声が包み込んだ。
何処からともなく王国万歳、隣国万歳という声が聞こえてくる。
その中心となる二人は、照れ笑いを浮かべながら互いを見つめていた。
立ち上がったジュードとアレスティーナが並ぶと、その姿は絵に描いたように様になっている。
「…おめでとう、アレスティーナ。…カタリナも」
侯爵の隣に控えていた夫人が、薄く笑みを浮かべながらアレスティーナとカタリナに声をかけた。
アレスティーナは思わずカタリナの方を見、そして夫人へと向き直って大輪の花のような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、お母様。…そしておめでとう、カタリナ」
美しいカーテシーを夫人にして、アレスティーナはカタリナを振り返った。
その顔にはあの書庫でいつも向けてくれるような親しみを込めた笑みが浮かんでいる。
カタリナは侯爵家に迎えられてから、初めて夫人に名を呼ばれたこと、そして笑みを浮かべて祝いの言葉を述べられたことに驚きで言葉を失う。
もちろんアレスティーナに向けられる目とはまだ同じではない。けれど明らかに嫌悪以外の念が籠った眼差しであった。
まさかこんな日が来るとは思わず、カタリナは溢れ出る涙を堪えることができない。
コルター侯爵家のカタリナとして、堂々として良いのだと初めて認められたような気がした。
これまで灰色がかっていた貴族としての世界が、一気に色付いて広がっていくような、そんな感覚。
このままただ侯爵の手駒として、侯爵家の事業に役立つようなどこかの商家や男爵家にでも嫁ぐのだと思っていた。このまま、アレスティーナ以外のコルター家の者とは他人も同然のままで、言葉も交わすことはないのだと。
それがまさか、このような事態で祝いの言葉を述べられるなどと、誰が想像できただろう。
愛娘であるアレスティーナは自分の目の届かない国外へ嫁ぎ、ニセモノの娘であるカタリナが釣り合いが取れるとは思えない格上の大公家へ嫁ぐのだ。
「あ、ありがとうございます…」
まだ、夫人をお母様と呼ぶ勇気はない。
でも二人の関係に変化があったことは明白だった。
これが、この先良い方に発展していくことを、カタリナは希望を持って願う。
どこか悪戯っ子のような笑みを浮かべたアレスティーナの背後には、呆気に取られ何も言うことができない侯爵の姿がある。
まさしく鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな表情に、カタリナも大粒の涙を一粒ぽろりと溢して笑った。
それはまさしく二人が夢にまで見た、その瞬間だった。
「今日は実におめでたい日ですわ。さぁ初々しい二組に祝いの曲を」
侯爵同様、呆気に取られていた王の横で、王妃がにこやかにパンッと手を鳴らして楽団に指示する。
オーケストラが晴れやかな門出に相応しい軽快なワルツを演奏し、ジュードがアレスティーナをエスコートしてダンスホールの中心に進み出る。
初めてとは思えない息もぴったりな美男美女のダンスに、周囲がほぅっと感嘆の息を吐いた。
「僕たちも行こうか、カタリナ嬢」
人差し指で優しくカタリナの涙を拭ったミハイルが、カタリナの手を取ってダンスホールへ誘導する。
カタリナはその笑顔に見惚れながら、誘われた先でしっかりとミハイルを見つめ返して手を握った。
社交界デビュー以来、異性と踊ることもなかったカタリナの辿々しいステップを、ミハイルが周囲に悟られないようにカバーしながら踊る。
カタリナはまるで自分が地に足を着けられず、ふわふわと浮かんでいるような感覚だった。それ程までに身も心も軽い。
こんな感覚は母と別れてから初めてだった。
そんな二組に倣い他の面々も徐々にダンスを始め、皇太女夫妻もダンスホールに躍り出る。
「嬉しいわ、恋のキューピットにずっと憧れていたのよ。二組も似合いのカップルが生まれるなんて、私にその才があると思わない?」
ねぇ、エディ?と向かいの夫を仰ぎ見て、アルミラは美しく微笑む。
その姿にエドワードは何とも言えない微妙な顔をして、妻の手を取りくるりと回した。
「さすがにおイタが過ぎるぞ、今回は」
「あら、私が何の考えもなしに行動してるとお思いで?」
「そうではないが…ハァ、頼むから事前に知らせておいてくれ。肝が冷える」
「うふふ、貴方の…いいえ、我が国の不利になるようなことは誓ってしないわ。だからこれからも楽しみにしていて?」
時々この妻の計略の深さに怖くなることがある。
果たしてどこまでが彼女の計算のうちだったのか。
間違っても敵に回してはいけないと、エドワードは固く心に誓うのだった。
▼▼以下、書ききれなかった蛇足設定▼▼
アレスティーナと比較して劣っているように見られがちなカタリナですが、彼女はどこか影があって艶っぽい美人さんです。
カタリナの母が侯爵に気に入られたぐらいなので、十分その要素を継いでいます。
アレスティーナが大輪の花のような華やかな美しさなのに対して、カタリナは凛とした百合のような涼やかな美しさを持っています。本人に自覚はありませんが。
侯爵夫人が第一子であるアレスティーナを身籠ってから、カタリナの母は侯爵に手篭めにされました。
そんな野心家ではない人だったので、愛人に収まろうだなんて気は毛頭ありませんでした。
侯爵夫人は妊娠中だったこともあって精神的に不安定で、カタリナの母のことを知り激怒して暇を出します。
この時カタリナを妊娠中だったことは誰も知りませんでした。カタリナの母も。
カタリナの母は亡くなる直前、遺されるカタリナのことを思って苦渋の決断をして、世話になった侯爵家のメイド長に手紙を出しました。
メイド長はカタリナの母の処遇を憐れに思い、仕事を紹介してくれた恩人です。
カタリナの母が亡くなった後、手紙はメイド長の元に届きますが、メイド長は驚愕の事実に対応を悩みます。
ひとまず孤児院に保護されたことを確認しましたが、その後も悩み続けていました。
そうして年に一度、カタリナの様子を確認していましたが、孤児院の悪い評判を耳にして、意を決して当時のことを知る執事に相談しました。
そうして事実確認が行われた後、侯爵家の娘として利用価値があると判断されたカタリナは引き取られることになったのです。
侯爵夫人はあの時まさか身籠っていたとは知らず、罪悪感に苛まれます。
自身も母であるが故に、その葛藤はひとしおですね。
なのでカタリナを見る度に過去の過ちを責められているような気持ちになってしまい(母親に容姿が似ているので余計に)、またどんな風に接すればいいのかわからなくて、冷たい態度を取ってしまっていました。
侯爵家に仕える使用人たちも当時のことを知る者は随分と減り、またカタリナの母が働いていた期間も短かったためにカタリナとそのメイドを結びつける者はいませんでした。メイド長もカタリナが引き取られる前に退職しています。
育児を経験して10年以上が経ち、夫人の中にはカタリナの母にも、カタリナ自身にも憎むような気持ちは微塵もありません。
全ての諸悪の根源は夫である侯爵であることは重々承知でした。
そんなこんなで侯爵には思うところが色々とあったので、正直あの破談、縁談劇にはスカッとした夫人です。
アルミナは現国王の娘で第一王位継承権を持つ人です。なのであの場では最強の発言権を持っている人物でした。
大国の姫君だけあって、情報網は果てしなく、その実態を知る者は直系の王家の人間のみです。
ジュードは皇太女夫妻の護衛計画について事前に調整しておく必要があるために、1週間程前に前入りしていました。そしてアレスティーナと運命的な出会いを果たします。
ミハイルはカタリナに好意を持っていましたが、大公家の役割を重んじているのでカタリナへの淡い思慕は甘酸っぱい思い出になるだろうと割り切っていました。
しかし棚ぼた的に巡ってきたチャンスは逃しません。これ幸いとばかりにあの場でカタリナとの婚約を大衆の前で父である大公に認めさせ、隣国の皇太女に恩を売るまでの策士家です。腹黒いと言った方が正しいかもしれません。
これからカタリナと侯爵家は徐々に和解していくことでしょう。
むしろこれからはアレスティーナの方が異国で苦労するかもしれません。
以上、お粗末様でした。