上
カタリナ・コルターはコルター侯爵家の次女である。
しかし彼女自身も、彼女を取り巻く環境も、誰もカタリナが"ホンモノ"の侯爵令嬢だとは思っていない。
片やアレスティーナ・ラルフ・ジャクリーン・ラ・コルターは名実ともに認められたコルター侯爵家の長女である。その先祖代々を受け継ぐような長ったらしい名前からもわかるように、由緒正しき血統を受け継ぐ生まれながらのご令嬢。
カタリナとアレスティーナの生まれの差はわずか半年。これはつまり、そういうことである。
「私とアレスティーナ様に流れる血の、何がそんなに違うのでしょうね?」
カタリナは大きな窓から降り注ぐ光に手をかざし、赤く透ける自身の手を眺めながらぼんやりと呟く。
「皆血統、血統とそれを重んじてますが、正確には血ではなくてDNAというものの中に遺伝子という高度な情報を持つものがあって、それが脈々と受け継がれているのだそうですよ」
そんなことをつらつらと語るカタリナを、怪訝な顔をして見ているのはアレスティーナだ。
ぎっしりと書物が並べられた本棚にもたれかかって座り込み、片肘をついて頬杖をつきながらめんどくさそうに息を吐いた。
「はぁ…貴女、また小難しい本を読んだのね。本当に家庭教師にでもなろうと思ってるの?」
太陽にかざしていた手を下ろし、カタリナはアレスティーナを振り返りながら微笑む。
「そうですね、そうなれれば嬉しいです」
たぶん、いやきっと、そんな未来は来ないだろうけれど。
どこか寂しげな笑みを見て、アレスティーナの表情もわずかに曇る。
「…もうじき、私とミハイル様の婚約がまとまるそうよ」
「そうですか…それは、誠におめでとうございます」
一瞬驚きに見開いた目をすぐに細め、カタリナは仰々しいまでに美しいカーテシーをした。
とはいえカタリナにとって最大限に美しいこのカーテシーも、"ホンモノ"であるアレスティーナのものと比べれば劣ってしまう。
「やめてちょうだい。まだ決まったわけじゃないわ」
ご令嬢にあるまじきしかめ面をして、アレスティーナは首を振った。
そんな彼女の姿を、カタリナは微笑ましく眺める。
「わかっているでしょう?私が決まれば、次は貴女よ」
「…そうでしょうね」
「ほんと、嫌味なぐらい達観してるんだから」
「それは貴女様もですよ、アレスティーナ様」
ふふ、とカタリナが笑ったのを見て、アレスティーナも肩をすくめて笑った。
「そろそろ行くわ。貴女はまだいるの?」
「はい。まだ探している書物があるので」
そう、とカタリナの返答を気にも留めない様子で返し、アレスティーナは座り込んでいた床から立ち上がる。
こんな姿、彼女の家庭教師が見たら顔を真っ赤にして怒り狂うだろう。
だが、ここには誰も来ない。
ここは、カタリナとアレスティーナだけの場所。
じゃあね、と言ってその場を後にするアレスティーナを軽く頭を下げて見送る。
カタリナはそのすっと伸びた背を見ながら、不謹慎にも大きくなったなぁとぼんやりと思った。
そしてここで初めて彼女と出会った日のことを思い出し、思わず笑みを溢すのだった。
*
カタリナの母はコルター家のメイドだったらしい。らしいと言うのも母から直接聞いたわけではないからだ。
母とは5歳頃まで小さな家で暮らしていたが、あまり覚えていない。裕福とは言えない庶民には姿絵なんてあるはずもなく、もうカタリナの中で母の顔もぼんやりとしか思い出すことはできなかった。
母が流行病で亡くなった後は孤児院に引き取られた。そこで10歳まで過ごし、ある日突然コルター家の使いだと言う者が現れて、カタリナを引き取って行った。
初めて訪れたコルター侯爵家は正に異世界。
こんな煌びやかな世界があるのかとその屋敷にただただ唖然とした。
身綺麗にされた後、侯爵の書斎に連れて行かれ、そこで初めて父である人物に引き合わされた。
「…ふむ、まぁ良いだろう」
磨き上げられた立派な書斎机で何やら書類に目を落としていた侯爵は、連れて来られたカタリナにちらりと視線をよこし、上から下まで目を走らせるとそれだけを言った。
まだ10歳だったカタリナは、この時全てを悟った。この人はただ生物学上の父でしかなく、自分に無償の愛を与えてくれる存在ではないのだと。
正直なところ、少し期待していたのだ。自分のこれまでやそして母のことを、気にかけて声をかけてくれるのではないかと。これまで苦労をかけたと労ってくれることを。
だが侯爵は軽く一瞥をくれて、何が良いのかわからないその一言だけを告げ、また書類に目を落とした。
もう用はないと言わんばかりのその態度に、カタリナはスカートをぎゅっと握り締めて、父であるはずの人物を見つめる。
ちらりと見えたその瞳は、自分と同じブルーグレーだった。薄れゆく記憶の中の母の髪色は黒で、自分と同じ。侯爵の軽く後ろに撫でつけられたプラチナブロンドの髪を見て、あぁこの目は父譲りだったのかとよくわからない感慨のようなものがカタリナの中を駆け巡った。
*
その翌朝、食堂に連れて行かれたカタリナは、大きなダイニングテーブルの末席に促され腰掛けた。
既に侯爵とその他にも数人が腰掛けている状態で、一同の目が冷え冷えと自分に向くことに恐縮する。
恐らく侯爵夫人であろう、美しい女性の射抜くような鋭い目が、カタリナをすくみ上がらせた。
その横に座ったまだ幼い少年は好奇心を隠せないように食い入るようにこちらを見ている。
そしてその向かいに腰掛ける少女を見、彼女と視線が絡み合った瞬間にドキリと胸が跳上がった。
父譲りの艶やかなプラチナブロンドをハーフアップにし、人形のように整った顔に母譲りと思われるスカイブルーの瞳が宝石のように輝いていた。
この世にこんなにも美しい人がいるのかと、カタリナは息をすることを忘れて魅入られた。
「以前話した通り、コルター家の一員となったカタリナだ」
侯爵がそう一言だけ言って、食事を開始する。
それに倣って他の面々もカタリナから視線を外し、食事を始めた。それとほぼ同時に侯爵の後ろに控えた執事が今日のスケジュールを読み上げていく。
その合間に控えめなカチャカチャという食器の音が聞こえるだけの、実に静かな食卓だった。
孤児院での騒々しい食事とは比較にもならない。
カタリナは扱ったこともないカトラリーを恐る恐る手にし、できるだけ音を立てないようにして食べた。
今振り返れば実にお粗末な作法で食べていたが、それを指摘する者は誰もいなかった。
とにかくカタリナは存在していないも同然、まるで空気のような扱いだった。
それはその後も、今も、特段変わることはない。
戸籍上、家族とされる面々とは食事の時以外に顔を合わせることはない。
カタリナには別の家庭教師がつけられ、姉弟と共に学ぶこともなかった。
正統な血筋である二人と同じ教育など必要もないのだろう。とりあえず侯爵家として恥じぬだけのマナーと知識さえ覚えさせれば十分、そう暗に言われているような采配だった。
使用人たちもそんな主人の態度に倣ってカタリナには一定の距離を置いている。
そんなカタリナの行動はあまり制限されることがない。
授業以外の時間は迷惑をかけず、静かにしていれば何も言われなかった。
そうしてひっそりと屋敷内を探索しているうちに、カタリナは憩いの場となる書庫を発見する。
そこは屋敷の奥から繋がる別館であったが、普段は誰も利用することのない寂れた場所だった。
ただ使用人が定期的に掃除はしているので、綺麗に整理整頓されていて滞在するには何の問題もない。
孤児院でたまに開催される勉強会で元々文字の読み書きは少しだけ学んでいたが、侯爵家の教育で十分に文字を読めるようになったカタリナはまさしく本の虫となった。
書庫で読みきれなかった本は自室に持ち帰り、連日読書に明け暮れた。
そうして書庫に通っていたある日、カタリナは書庫の奥で自分以外の人間の気配を感じて身を固くした。
間違いなく鼻をすするようなスンスンいう音が聞こえる。
そっと書棚の陰から覗き込んだ先には、淡いピンクのドレスをふわりと広げて座り込む妖精がいた。
大きな窓から差し込む太陽の光に照らされたその姿は、ここが書庫だということを忘れさせるほどに神々しい光景だった。
カタリナのいる場所からは横顔しか見えなかったが、間違いなく彼女は泣いている。
「…誰っ!?」
人の気配を感じたらしい少女がカタリナの方をキッと睨みつけると、慌てたように涙を拭い立ち上がった。
カタリナはどうすべきか一瞬思案した後、恐る恐る書棚の陰から姿を現す。
「も、申し訳ありません、盗み見るつもりはなかったのです、アレスティーナ様」
カタリナは最近少しは様になってきたカーテシーをしながら頭を下げて詫びた。
「何故、貴女がここにいるの…!」
そう言って目を吊り上げたアレスティーナは、まるで猫が毛を逆立てて威嚇しているようだった。
カタリナはアレスティーナの問いに困ったように眉を顰める。
「申し訳ございません。以後ここには立ち入らないように致します」
「何故、ここに居るのかときいているのよ!」
「申し訳ございません。許可が必要だとは知らず…」
「〜っなんなの!?その態度!?」
「も、申し訳…」
「さっきから謝ってばかり…!貴女には意見を口にする能はないの!?いつもいつも何食わぬ顔して全てを受け入れて、本当に腹立たしいわ!!」
「え、あの、」
ふぅふぅと肩で息をして、アレスティーナは捲し立てた。
そのままツカツカとカタリナの前まで歩み寄ると人差し指をビシッと顔に突きつけて更に続ける。
「貴女、何も可笑しいと思わないわけ!?家族から相手にされず、使用人からも冷遇されて…!」
「ッ…アレスティーナ様は…」
「何よ!?」
「私を、家族だと思ってくださっているのですか?」
「なッ…!」
唖然とした表情でぽつりと問うたカタリナの言葉に、アレスティーナは思わずたじろぐ。
一歩身を引くと、幾分か冷静さを取り戻したかのように大きく息を吐いた。
「…貴女はコルター家の一員でしょう」
「確かに一員ではありますが…家族とは思っていませんでした。おこがましくて」
カタリナの返答に、アレスティーナは片眉を上げて怪訝な顔をする。
「確かに私は戸籍上はコルター家の一員ですが、皆様のことを家族などと軽々しく言える立場ではないと思っています。使用人の皆さんが私に取る態度も、差別だとは思っていません。…区別です。"ホンモノ"と"ニセモノ"の」
いつだったか、屋敷内の窓から庭を見下ろした際、庭でアフタヌーンティーを楽しんでいる夫人とアレスティーナ、弟に当たるレジナルドの姿を見かけたことがある。
その際にテーブルに並ぶ、スコーンやマカロンといった色とりどりの美しいスウィーツが乗ったアフタヌーンティーのセットを見て、カタリナは衝撃を受けた。
そうか、自分は冷遇されていたのかと。
これまで自分に与えられていたのはドーナツ1つとミルク、といったものばかりだったが、それを特段気にも留めていなかった。
むしろ、毎日おやつを食べさせて貰えるなんて、なんて恵まれているのだろう、そう心底思っていたのだ。
孤児院ではおやつなんて、たまに支援者からの施しで食べられるようなイレギュラーなものでしかなかったから。
それから振り返ってみれば、確かに自分へのこの屋敷での処遇は、側から見れば冷遇以外の何でもなかった。
着る物、身に着ける物、食べる物…与えられる物全てが正統なコルター家の者たちより明らかに劣っている。
食事も一見すると同じ物が出されているがお肉は硬い部分が多い気がするし、勉強の際に使用している筆記用具は明らかに誰かの使い回しだった。
「正直なところ、使用人の皆さんに冷遇されているとは感じていません。罰として食事を抜かれることもなく、理不尽な暴力を振るわれることもなく、必要なものはきちんと与えてくださって、しっかりと仕事をこなしてくださっていると思っています。本当は、こんなニセモノの世話なんて焼きたくもないだろうけれど、それでも私に対して何か当て付けのような態度を取ることもなく…さすがは侯爵家の使用人だなと、恐れ多くも感心している程です」
これはなんの嫌味でも、謙遜でもなく、カタリナが本心で思っていることだった。
孤児院にいれば、食事のない日もあった。できた大人ばかりではなかったので、気分で八つ当たりされることだって少なくなかった。
それに比べれば、侯爵家での暮らしは雲泥の差。
これ以上何かを望むなんてバチが当たると、本当にそう思っていた。
彼らはただ、主人の態度に倣っているだけなのだ。
そしてその主たちがカタリナを"ホンモノ"として扱わないのは至極当然なのだから、誰も間違ってはいない。
「はぁ…馬鹿馬鹿しいわ。完全に八つ当たりね、許してちょうだい」
カタリナの言葉を驚きの表情で聞いていたアレスティーナは、毒気を抜かれたように力を抜くと、とんっと傍の本棚にもたれかかった。
「そんな、許すだなんて…私の方こそ何かお気に障るようなことを…」
「もういい、いいのよ、それ以上謝らないで。本当に自分が惨めになってくるから」
呆れたように手をひらひらと振って、アレスティーナは言葉の先を遮った。
そうしてどこか気怠げな表情でカタリナの顔を見遣る。
「自分がお父様やお母様に何の意見も言えないことに嫌気が差していただけなの。だから貴女の態度が悪いわけじゃないわ」
アレスティーナは不思議だった。カタリナの前ならば、本心がこんなにもすらすらと溢れ出てくる。
いつも被っているコルター侯爵家の令嬢という仮面が、カタリナの前ではあっさりと剥がれ落ちてしまったのだ。
「とりあえず、ここで見たことは誰にも言わないで。まぁ…言う相手もいないでしょうけど」
何故だか少し意地の悪い言い方をしてしまう自分を、取り繕う気もしない。
カタリナなら大丈夫だと、変な確信があった。
「もちろんです」
やんわりと口元に笑みを浮かべて頷いたその様は、立派な貴族令嬢のように見える。
「貴女、ここにはよく来るの?」
「そうですね…ほぼ毎日」
少しバツの悪いような顔をして、カタリナは言った。
できればこれからもここを利用したい、とはカタリナの口からは言い出せない。
「そう…なら、貴女がここにいる時は扉を少し開けたままにしておいて頂戴。突然現れたらびっくりしちゃうから」
私もそうするわ、と事もなげに言ったアレスティーナを、カタリナは驚きで目を見開いて見つめる。
「あ、ありがとうございます…!」
「何よ、そんな泣きそうな顔しないでもらえる?」
喜びの余り、泣きたくもなる。ここを失ってしまったら、カタリナは何を心の拠り所にすれば良いのかわからない。
この場がカタリナにとっての憩いの場であったように、アレスティーナにとっても束の間の休息の場であった事実が、二人の心を急激に近づけた。
これがカタリナとアレスティーナ、二人が初めて言葉を交わした日である。