2 後編
あまりにも緊張して縮こまってしまう為、課長を部屋の外へ追い出す。すると子犬は、急に饒舌になった。
「どうですか? 僕、シャノンさんのアドバイス通りに色々綺麗にしてみたんですけど……でも、眼鏡がないとやっぱりよく見えなくて」
確かに、さっきからあちこちにぶつかっているわね。
「とても素敵です。ちゃんとフレームを選べば、眼鏡もお似合いになると思いますよ」
「本当ですか!? 今度、ぜひ一緒に選んでください! 美容院は何とか行ったんですけど、もう怖くて怖くて」
ドアの隙間から、『断れ』という課長の無言の圧を感じる。でも、このキラキラした目で見つめられると……
「分かりました。私が担当になるかは分かりませんが、眼鏡は一緒に選びに行きましょう。とりあえず今日は、あの眼鏡をかけてください。危ないので」
「うわあ、ありがとうございます! じゃあ、ちょっと取りに行ってきますね」
いそいそふらふらと部屋を出ていく。
……困ったわ。これが狼のフェロモンてやつなのかしら。でも婚約していた女性には効かなかったってことよね? 不思議だわ。
「……おい! 何で断らないんだよ」
「私にも分かりません。でも担当になるかは分からないって、ちゃんと言いました。眼鏡くらいならいいじゃないですか」
「分からないじゃなくて、“担当にはなれません” だろ? しかも眼鏡くらいって……あんなイケメンと出掛けたら、デートみたいなものじゃないか」
「お待たせしましたあ」
言い争っていると、あの瓶底眼鏡をかけた彼が、何やらトレーを手に戻って来た。課長は慌てて身を隠す。
「これ、今僕が研究している新しい調味料なんです。よかったら召し上がってみてください」
目の前に置かれたのは、小皿に載ったピーナッツバターみたいなペーストと、黒い液体。そして……オムレツ? に、焦げ目の付いた、茶色い米の塊だ。
「大豆から作った調味料です。ほら、十五年前に、小麦が不作でパン騒動が起きたでしょう? 王室が、パンがなければ米を食べればいいなんて言ったけど、みんな不味いって不満タラタラだったじゃないですか。だから、少しでもお米を美味しく食べられたらと、開発しているんです」
お米……ねちゃねちゃしていて、私も苦手なのよね。
備蓄米も大量に余っていると新聞で見たわ。
勧められるままにペーストと液体を舐めてみるも、しょっぱいだけで微妙だ。本当にこれでお米が美味しくなるの?
「では次にこちらを……この黒い調味料と砂糖で作ったオムレツです」
期待せず入れた口の中に、ふわり、とろりと優しい甘さが広がる。
「……美味しい! 普通のオムレツとは全然違うのね」
「でしょう? こちらもどうぞ。このペーストを塗ってから、網でこんがりと焼いたお米です」
「美味しい! これも香ばしくて大好き! ちっともねちゃねちゃしていないわ!」
「このオムレツとも合うと思いますよ。一緒に食べて見てください」
お昼も食べてきたのに、あっという間に完食してしまった。やっぱりこの人有能だわ……お米がこんなに美味しくなるなんて。
「まだまだ色々なメニューがあるんですよ。スープとか、炒め物とか。また次回ご用意しますね」
「ええ、ぜひ!」
……あ、約束しちゃった。美味しすぎてつい。圧を感じるも、気付かなかったふりをしよう。
お茶を飲みながら、ふと、疑問に思ったことを尋ねてみる。
「あの……貴方はどうして結婚したいんですか? こんなに素晴らしい研究をされているなら、家庭など持たずに没頭したいと思いませんか?」
婚活サポート会社に勤める者としては、あるまじき質問だ。……ドアの隙間から溢れる、課長のオーラが怖い。
「うーん、ご飯を一緒に食べたいからですかねえ」
「ご飯を?」
「ええ。一人より、二人で食べた方が美味しいじゃないですか。僕は元々料理が好きですし、食べさせてあげたいなあって」
「人見知りなのに?」
「だからこそです。家でたった一人、素を見せてほっこり出来る女性が居ればいいなあって」
「私は……一人でも美味しくご飯を食べられるわ。むしろ一人の方がいい」
「それも幸せですよね。色々な形があっていいと思います」
にこにこ笑いながら食器を片付ける彼に、心臓が高鳴る。どうして……? 目は瓶底なのに。
「……ご馳走さまでした」
人柄は丸に訂正しておこう。
「ウルフェラーさん、もしよかったらこちらを」
差し出したチラシを見て、彼はくいくいっと二回眼鏡を上げる。
「婚活大夜会?」
「はい。弊社の主催で、来週行われるんです。新会員様は無料ですので、よろしければ」
「……貴女もいらっしゃいますか?」
「はい。私は模擬……」
言葉を遮るようにバンとドアが開き、課長が私の横にドサリと腰を下ろした。ひっと萎縮する彼に対し、細マッチョな胸を張り、威嚇するように見下ろす。
ちょっと……何でそんなに怖い顔してるのよ。会員様に対する態度じゃないでしょう?
「シャノンも私も参加致しますので、どうぞ安心してご参加ください。全力でサポートさせていただきます。あ、そうそう、私の実家が眼鏡屋でして。お安く致しますので、今から一緒に選びに行きましょうか。私と」
「えっ……ええっ!」
瓶底眼鏡がずり落ちる。そりゃ当然だわ。
「課長! 人見知りだって言ってるじゃないですか!」
「うるさい! 上司命令だ! お前は今から社に戻れ」
「嫌です! 彼の眼鏡は責任持って私が選びます! 課長こそ、此処にいても仕方ないので社に戻ってください。お忙しいでしょう?」
ギャーギャー言い争った末、結局三人で眼鏡を見に行くことになった。ついでに夜会用の礼服も。
何なのよ……もう。変な課長。
◇◇◇
一週間後、会場として借りた侯爵家の広間には、きらびやかな男女が集まっていた。
後で重要な仕事が待っている私は、とりあえず簡素なワンピース姿で彼を探す。
あっ、いたいた! 服装も髪型もバッチリ!
……なのに、何故か瓶底眼鏡をかけて、柱の影に隠れている。
「ウルフェラーさん」
「ああっ、シャノンさん! よかったあ!」
「この間買った眼鏡はどうしたんですか?」
「持ってきたんですけど……なんだか自分じゃないみたいで、落ち着かなくて。本当に似合うかなあ」
「大丈夫ですよ! 私がかけてあげますから、貸してください」
受け取った眼鏡ケースから、細いフレームの眼鏡を取り出し手を伸ばす。背伸びする自分と、目を瞑りしゃがんでくれる彼。その美しい血の色が開き、レンズ越しに自分を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
美しすぎるでしょ……コレ。間違いなく今日の目玉商品じゃない!
彼の手を取り柱から引っ張り出すと、会場はざわめき、一気に熱い視線が集まる。
「大丈夫よ。貴方は今日、この会場の中で一番素敵。だから自信を持ってね。今夜は満月だし、自分の心に素直になれば、きっと運命の女性が見つかるわ」
背中を撫でてあげると、真っ赤な顔で、一生懸命頷く。ちょっと……反則級の可愛さじゃない?
「あのう……彼とお話ししてもよろしいですか?」
女性会員達がやって来る。
「ええ。ただ彼はちょっと人見知りなので、順番に一人ずつ、優しくリードしてあげてくださいね」
「そうなんですかあ!?」
「ええ~っ、可愛い~」
よしよし、いい感じ。見た目は狼で、中身は子犬なんて。母性本能をくすぐる最高のパターンじゃないの。
彼を王様みたいなゴージャスな椅子に座らせると、他のスタッフにフォローを頼み、メイクルームへ急いだ。
……きっといいご縁があるわ。
何故だかチクリと痛む胸を押さえながら。
支度を済ませメイクルームを出ると、私を見た課長が目を見開いたまま固まってしまう。
……何? そんなに変? この日の為に禁酒をして、お肌も磨いてきたんだけどな。
「……行くぞ」
絶対何か茶化されると思ったのに、それ以上何も言わずに、白い礼服の腕をすっと出される。
調子狂うなあ。
広間のステージ脇からこっそり彼の方を見れば、熱帯魚みたいな華やかな女性達に埋もれて、全く姿が見えない。
さっき窓を見たら、綺麗な丸い満月が浮かんでいたわ。上手くいくといいのだけど。
「おい、今はこっちに集中しろ」
不機嫌な声と共に、ぐっと腰を引き寄せられる。
そうだったわ……お仕事、お仕事! やたらと距離感が近いのが気になるけど。
「ただいまより、本日のメインイベント、弊社スタッフによる模擬結婚式が行われます。皆様、どうぞステージにご注目ください」
課長の腕を取り、盛大な音楽と共に、ステージへ歩を進める。
これが最初で最後の花嫁衣裳になるかもしれない。模擬とはいえ、楽しんでおこうっと。
神官役の男性が持つリングピローを見ると、何故か指輪が一つしかない。
……どうして? リハーサルの時は、ちゃんと二つあったのに。
チラリと課長を見るも、全く動揺した様子は見られない。指輪を取り、迷いなく私の薬指へ嵌めると、跪いて言った。
「リタ・シャノン嬢。今、この時を以て、私と婚約していただけませんでしょうか?」
会場が、わっとどよめく。
なっ……何? そんなの台本になかったし! しかも時代劇風なんて、私の趣味を知り尽くしたような!
課長の甘い顔は切なげに潤み、今にも泣きそうだ。
すごい迫真の演技だわ……模擬だと分かっていても胸が熱くなってしまう。
手の甲に寄せられる唇を見守っていると、こちらへ真っ直ぐ向かってくる人影が視界に入った。
「その婚約……今、この時を以て、速やかに破棄してもらおうか」
突如響いた艶やかなバリトンボイスに、しんと静まる会場。
黒いウェーブ髪を掻き上げ、長い足でこちらへ来ると、眼鏡をくいっと上げ私達を見下ろした。
レンズの奥の血の色は、銀を帯びてギラギラと輝き、唇も艶めかしく膨らんでいる。
「その手を離せ」
課長の唇が迫っていた手を掴まれると、薬指から指輪を抜き取られる。それをリングピローへ放り投げると、ひょいと抱き上げられ、色気ダダ漏れの危険な眼差しで見つめられた。
あのう……誰ですか? 貴方。
子犬はすっかり何処かへ消え去り、見た目も中身も狼そのものだ。
ああっ! そうか! 満月だから? でも何で私に? タイプじゃないって言ってたわよね?
とりあえず何か言おうと開いた口に、いきなり唇を重ねられる。
胸をどんどんと叩くも、余計に深くなるばかりで、彼から漂う甘い香りに力が抜けていく。
分かった……これが……異性を仕留める、狼の本気のフェロモンだ。
ついにくたりと身体を動かせなくなった私の耳を、ガブッと甘噛みするとこう囁いた。
「あんたは俺の女だ。……今、この時なんかじゃない。初めて逢ったあの時から」
頭も心も身体も。全部がフリーズして完全に支配される。朦朧とする意識の中で、課長が何か叫んでいる気がしたけど、聞き取れずに遠退いていった。
「……鈍感女め。あーあ、俺も遠慮なんかしないで、とっとと狼になればよかったな」
情熱的なパフォーマンスに感動する人達の中、一人残された課長が項垂れていたなんて、この時の私には知る由もなかった。
◇◇◇
……朝?
鳥の鳴き声に目を開けると、眩しい朝日が差し込む。生ぬるいシーツの上、気だるい身体を動かせば、切ない痛みがつきんと走る。思い出される夕べのアレコレに、顔がカッと熱くなった。
夜会前にウルフェラー一族について調べた時に、一つ分かったことがある。それは、狼のフェロモンを感じるのは、狼の求愛を受け入れた異性だけだということ。
つまり私は……彼の求愛を、本能で受け入れてしまったんだわ。
ふわりと不思議な香りが部屋に漂い、鼻腔をくすぐる。
何かしら……とってもいい匂い。
「おはようございます! リタさん。朝食を作ったので、一緒に食べましょう!」
瓶底眼鏡をかけてラフなシャツに身を包んだ彼が入って来る。
子犬だ……夕べの、あの狼はどこ?
「あっ、身体はリタさんが気を失っている間に綺麗に拭きましたので、大丈夫ですよ。着替えがないので、とりあえず僕のシャツを着てもらいましたからね」
赤面する私を余所に、笑顔で淡々と言う彼。子犬のくせに逞しい身体にひょいと抱き上げられ、見慣れぬ食事が並ぶテーブルに連れて行かれた。
「こちらは大豆ペーストと、魚のエキスで作ったスープ。炊き立てのシンプルなお米と交互に味わってみてください。あと、この間のオムレツもまた焼きましたよ。リタさん、お好きでしょう?」
「ええ、大好き! ずっと食べたかったのよ! ありがとう」
「ではいただきましょう」
ほかほかのお米と、魚の旨味が広がるしょっぱいスープは抜群に相性が良い。私が美味しいと言う度に、彼が嬉しそうに笑う。すると更に美味しく感じるのだから不思議だ。
『ご飯を一緒に食べたいからですかねえ』
うん……結婚したくなる理由。なんとなく分かったかも。
それはとっても単純で、とっても尊い。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
「はい、何でしょう」
「私のこと、タイプじゃないって言ってたのにどうして?」
「ああ、それは僕の判断ミスで……本能が教えてくれました。最初から人見知りせず話すことが出来たのは、貴女に惹かれていたからだと」
「そうなのね」
「貴女は何故、僕を受け入れてくれたんですか?」
「…………女は狼に弱いのよ。子犬にもね」
“私も貴方に惹かれていたから”
素直にそう言えず、空のスープカップに目を落とした。
「……へえ。狼って……こんな感じ?」
ゾクゾクするバリトンボイスに顔を上げれば、瓶底眼鏡の下からまたあのギラギラした血の色が現れる。
朝なのに……何で!?
後で調べたところ……求愛直後は、昼夜問わずちょっとした引き金で、狼の本気フェロモンが発動してしまうらしい。
このままじゃ、結婚前に全部食い尽くされちゃうわ! 全然ほっこりじゃないじゃない!
婚約破棄された狼会員が、僅か二週間でスタッフと結ばれ退会した話は、後に『ハローキューピッドアロー』に語り継がれる伝説となった。
また、狼に愛され結婚したリタ・シャノンが、傷ついた男女の心に丁寧に寄り添う『婚約破棄代行係』のカリスマとなったのも、また有名な話。
もう、堆肥や水をかけられることは、二度となくなった。
ありがとうございました。