1 前編
「……以上の理由から、貴女との婚約破棄を望んでおられます。慰謝料ですが、交際期間と、30歳迄あとひと月という貴女の微妙な年齢を考慮すると……金5が妥当ですが、先方の経済状況では無理があると。まずは金1をお支払いし、残りは月々銀3の分割払いで────」
……やれやれ。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないのよ。
水が滴る前髪を、ハンカチで絞りながら独りごちる。
まあ花瓶の水なだけマシか。綺麗だし。未熟な堆肥を投げられた時に比べたら……
いつかの衝撃を思い出し、私はふるふると首を振る。
『ハローキューピッドアロー』
男女の恋愛から結婚までをサポートするこの会社で働き始め、気付けば早五年の月日が流れていた。
入社以来ずっと婚活課に所属していたが、今年からステップアップの為に、自ら破局課への異動願いを出し、婚約破棄代行係として日々忙しく働いている。
破局に婚約破棄。不吉な響きだが、男女を幸せな結婚へと導くには必要不可欠なのだ。悪縁も腐れ縁もスッパリと断ち切れば、良縁に繋げることが出来るのだから。
別れたいけど別れる勇気がない人達の為、間に立って円満に離す。そんなやり甲斐のある仕事だ。
……ここだけの話、婚約破棄を人任せにするってどうなの? とは思う。
曾祖母の時代には、夜会など公衆の面前で、声高に婚約破棄を宣言する場面がよく見られたそうだ。
『◯◯嬢! 今、この時を以て、お前との婚約を破棄する!』
ってね。時代小説の冒頭によく出てくるあの台詞よ。
本命と幸せになる為、恥も外聞も省みず叫び、愛のない関係を断ち切る……何とも情熱的ではないか。
まあ破棄された方はたまったもんじゃないけど、スッパリ関係を断ち切ってもらったことで、もっと良い相手と出逢えたケースも沢山あったみたいだし。
それに比べたら今はねえ……
一応貴族制度は残ってはいるものの、昔程の権力はない。家同士の結びつきなんてのもほとんどないし、平民との結婚だって自由だ。女性の社会進出も増加し、私のように貴族令嬢の端くれでありながらも、働く女性だって増えた。
いいことなんだけど……とてもいいことなんだけど。
恋愛や結婚に対して、どこか冷めた若者が多いというか。曾祖母の時代には、男女共に16~20歳が結婚適齢期だったのに、今は30歳を越えても結婚しないなんてザラだ。
少子化も問題になり、国も税金を投じて、集団見合いやら婚活夜会なんてものを開いていたりする。
そういう私も25歳。こんな仕事をしておいてなんだけど……結婚する気なんかサラッサラない!
仕事して、ぶらっと街を歩いて、ワインとおつまみを買って、好きな本を読みながら一人晩酌をする。休みの日は旅行をしたり、図書館巡りをしたり。誰にも気兼ねしなくていい、王様みたいな生活。
……親同士が決めた結婚で、夫に召し使いみたいにかしずいた挙句病気で死んじゃった。そんな可哀想な母を見ていたら、結婚なんかに夢も希望もない。
私がこの仕事に就いた本当の理由は、母みたいな不幸せな結婚を一つでも多く減らす為だ。
婚活課で幸せなカップルを見ても羨ましいとは思えなかったし、今、婚約破棄代行係として、恋愛の様々な裏事情を見るたびに……ますます男女って面倒くさいと思ってしまう。
そう、私自身、恋愛や結婚に対して、非常に冷めた人間である。
さて、気を取り直して次へ行かないと。
濡れたハンカチをポケットへしまい、貸馬車に乗り込むと書類を開く。
ええと、次は女性の会員様からの依頼ね。婚約破棄理由は……
『生理的に受けつけない。無理』
……これはさすがにストレートには言えないわ。
あら、でもこの男性、すっごいエリートよ! 王立学園の理学部を首席で卒業後、王室の研究所に就職。平民だけど実家は資産持ちで裕福だし、自由気ままな三男坊。超優良物件じゃない!
なのに無理……ってことは、相当ね。段々興味が湧いてきたわ。
到着したのは周りを田んぼに囲まれた、今にも崩れ落ちそうなオンボロの一軒家。これ……築何百年? 25歳の独身男性が一人で住んでいるとは、到底思えない。
錆びたドアノックを数回鳴らすと、どこか間の抜けた「はい~」という声と共に、そっと開いた。
……確かに。
遠慮がちに玄関に立つ男性を見て、大変失礼だが、『無理』の意味が分かった。
肩の辺りまで無造作に伸びた黒髪に、まだらな無精髭。極めつけは、目の形が全く見えない、瓶底みたいに分厚い眼鏡。今時こんなのかけてる人いる!? ってくらいレトロな。染みだらけのよれよれの白衣からは、何やら香ばしい臭いすら漂う。
……とっとと仕事して帰ろう。
なんとか営業スマイルを作った。
「お忙しいところすみません。私、アニー・ニアー様のご依頼で参りました、ハローキューピッドアローのシャノンと申します」
名刺を渡すと、彼は眼鏡をくいっと上げる。
「ああ~ハローキューピッドって……あの広告で有名な? 何のご用かは何となく分かりますが……どうぞお入りください」
ストーカー行為や交渉前のトラブルを避ける為、基本連絡はせずに直接訪問する。警戒されたり、追い返されたりと、話に漕ぎ着けるまでが大変なのだが。こんなに友好的に迎えられるのは初めてのことであった。
本やら箱やらが乱雑に置かれている居間……? に通されると、すっとタオルを差し出された。
「レポートに集中していたので、雨が降っていたなんて、全然気が付きませんでした。よかったらお使いください」
……あっ!
さっきの水でまだ湿っている服を見下ろす。
「ありがとうございます。遠慮なく使わせていただきます」
「今温かいお茶もお持ちしますから、そこに座ってください」
本をどけたソファーから、埃がふわふわと舞い上がる。
人柄は二重丸。清潔感は……マイナスね。
婚活課だった時のくせで、ついチェックしてしまう。
「いえ、お構いなく。もしよろしければ早速用件に移らせていただきたいのですが」
「あ……多分、婚約破棄でしょう?」
理解しているなら話は早い。婚約破棄宣言及び同意書を渡しながら、淡々と説明した。……破棄理由だけは、オブラートに包みながら。
「やっぱりダメだったかあ。僕は結構アニーさんのことを気に入っていたんだけどな」
「こればっかりはご縁ですからね……残念ですが。慰謝料は請求されますか?」
「ああ、いりませんよ! お金には興味ありませんし。ありがたいことに、研究費用は王室から出るので困らないんです。彼女には、お気遣いありがとう、別の方とお幸せにとお伝えください」
やっぱり人柄は二重丸。ただ……見た目がもう少し……いや、かなり……ね。
「あの……もし結婚をご希望でしたら、当社の婚活課をご紹介しましょうか? 婚約破棄された方が、当社のサポートにより僅か一ヶ月で成婚に至ったケースもございますよ」
ちゃっかり営業も忘れない。
「うわあ……それは嬉しいなあ。担当は貴女がしてくださるんですか?」
「いえ、私は課が異なりますので、他の者に引き継ぐ形になります」
「そうですか……それは残念だな」
残念?
しゅんと頭を垂れる姿に、何故だかドキッとしてしまう。
「僕、すごく人見知りで……特に女性は緊張してしまって駄目なのに。こんなに喋れたのは初めてで」
やだ……何? 可愛いこと言ってくれるじゃない。そんなこと言われちゃったら、私……
「多分貴女を、女性として見ていないからでしょうね」
…………は?
「貴女は多分、全く僕のタイプじゃないんです。だから緊張せずに話せて、すっごく楽なんでしょうね」
…………はいい?
元々短い私の導火線に、プチッと着火した。人柄、マイナスに訂正!
「……それはどうも。私も貴方は全くタイプではございませんので、お互い緊張することなく何よりです。楽ついでに……私が貴方の担当になったつもりで、率直に感じたことを申し上げます。まず、結婚がしたければ、その外見をどうにかなさってください。むさい! ダサい! 汚い! これでは女性に生理的に無理と思われても仕方ありません。ところで、お風呂には一体いつ入りましたか?」
彼は指を折り、うーんと首を傾げる。
「四日……五日、いや、一週間前かなあ。研究に夢中で忘れちゃいました」
ははっと笑いながら、髪をボリボリ掻く。こりゃあ香ばしい臭いがして当然だわ。
「……まずはお風呂に入ってください。髭を剃ってください。髪を切ってください。清潔な服を着てください!」
「分かりました! 次にお会いするまでに、必ず綺麗にしておきます! シャノンさん、これからどうぞよろしくお願い致します!」
がしっと手を掴まれ、何も言えなくなる。
……だから担当にはなれないんだってば!
……なんだかどっと疲れたわ。
会社に戻り座った途端、机にうつ伏せになる。
はあ、報告書を提出しないと。終業時間まであと一時間……よしっ! 早く終わらせて、早く酒を飲むわよ!
シャカシャカとペンを走らせる私の横で、優雅な足音がピタリと止まる。
「お疲れ、リタ。また眉間に皺が寄ってるぞ」
「……名前呼びはやめてください。マックレン課長」
甘い顔に甘い声。そして流行りの細マッチョ。我が社の広告塔でもある彼は、とてつもないプレイボーイだ。
入社以来ずっと直属の上司で、今回も私と同じタイミングで、婚活課から破局課へ異動になった。女性関係のアレコレには引いてしまうけれど、上司としては非常に尊敬している。この会社が十年連続お客様満足度No.1を保っているのは、この人が居るからだと。
それに私は女として見られていないので、一緒に仕事をしていても変なムードになることが一切なく、気が楽だった。
「どうだ? 上手く破棄出来たか?」
「はい。二件とも無事に同意書にサインをもらえました。まあ、思いがけない水浴びもしましたが」
「水浴び!?」
「はい。花瓶からザバッと」
「ははっ! よかったな。牛糞じゃなくて」
「糞じゃなくて堆肥です。嫌な記憶を嫌な言葉で蒸し返さないでください」
「……で、もう一件は男だったよね? 何をかけられたの?」
ずいっと身体を近付け、楽しそうに覗き込んでくる。
全くこの人は。
「かけられるどころか、親切にタオルをいただきましたよ」
「……へえ」
低い声でそれだけ言うと、書類を手に取り、男性のプロフィールをじっと見つめる。
「あっ、その男性なんですけど、婚活を希望されていまして。婚活課をご案内しようとしましたが、人見知りが激しいので是非私を担当にと」
「なんて返事したの?」
「……ええと、とりあえず上司に相談してお返事しますと」
「すぐ断らなかったの?」
あ……
いつも朗らかな課長から、すっと表情が消える。長年の付き合いで分かる。これは怒っている時だ。
そりゃそうだよね。婚約破棄代行係としてまだ目立った結果を出せていない私が、婚活まで担当出来る訳ないのに。
「すみません……何だかあの人、腹が立つんですけど放っておけなくて。どうなるのか(綺麗になったか)、この目で見届けたい気持ちもあって」
「放っておけない……さすが狼のフェロモンだな」
「狼?」
「プロフィール。もう一度よく見てみろ」
書類の氏名を指でトントンとつつかれる。
『ダン・ウルフェラー』
ウルフェラー…………あっ!!
伝説のウルフェラー一族。もう何千年も前に、神が遣わした狼と交配した女性の子孫。
もう大分血は薄れていて、耳やらしっぽやらは生えていないけれど、人並み外れた美貌とフェロモンは健在で、異性を誘惑する。夜、特に満月の夜は欲望に忠実になるとも?
あのフェロモンの欠片もないような人が、狼一族だったなんて……
「この男には婚活課のエヴァさんを担当に付けてやる。だからお前は手を引け」
「エヴァさん……って。ダメダメ! 萎縮しちゃいますよ。人見知りだって言ったでしょう?」
子供が七人居る既婚者のエヴァさんは、成婚に向けて外見と内面を容赦なくしごく、会員泣かせのベテラン女性スタッフだ。(でも成婚率は高い)
「狼一族が人見知りねえ。どうだか。……いいよ、とりあえず次は俺も一緒に行くから」
「課長も?」
「狼会員なんて初めてで興味があるし。それに……」
妙な顔でじっと見つめられる。
「まあいいや。それより、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
◇◇◇
一週間後、何故か令嬢とデートに行く時みたいな服装の課長と共に、また田んぼに囲まれた家の前に立っていた。こんな場所には不釣り合いの、無駄に高級なクラヴァットがピカピカ光っていて可笑しい。
ふふっと笑っていると、怪訝な顔で問われた。
「お前……今日はやたらと化粧が濃くないか?」
「この間失礼なことを言われたもので。無意識に気合いが入ってしまったかもしれません。課長こそ」
「これは……その……狼に舐められないようにな」
「はあ」
ゴホンと咳払いをする課長。……変なの。
ドアノックを叩くと、この間と全く同じ「はい~」という返事が響いた。
だが……開いたドアの向こう。自分を迎えたのは、この間とは全くの別人だった。
髭のないつるつるの陶器みたいな顔の中心に浮かぶのは、穴の形まで綺麗な高い鼻。その下にはピンク色の肉厚で艶やかな唇。その上には血みたいな色の切れ長の二重の瞳。あのボサボサだった黒髪も、緩いウェーブを描きながら、額から耳の下へ向かい美しく流れていた。
恐らくブランド物であろう華やかな刺繍のシャツにも、ちっとも負けない顔立ちだ。
……何この美形。
あんぐりと口を開けたまま隣を見れば、課長も同じ顔で固まっている。
「こんにちは、シャノンさん!」
と元気に挨拶されるも、隣の課長に気付くと、ぷるぷると震え出してしまう。
課長はさっと営業スマイルを作り言った。
「はじめまして、ウルフェラーさん。私は破局課課長の、アシュリー・マックレンと申します。このたびは婚約破棄からの婚活サポートをご希望されているとのことで、詳しいお話を伺う為、私も同行させていただきました」
震える手で名刺を受けとる姿は、怯えた子犬みたいだ。見た目は狼なのに……なんか可愛いかも。