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障害物を無視して最短を選ぶつもりだったが、逃げ遅れたか逃げる者を庇ったか、町の各所に点在していた負傷者の姿は見過ごせなかった。ここにひとり、あちらにひとりと、目に付く度に足を止め呼吸の有無と傷の具合を確認し、動ける者には聖堂への避難を促し、動けない者は手近な民家に放り込み、すっかり手間取ったクラウスがガイストの侵入経路らしいそこに辿り付いた時には、ことは粗方済んでしまっていた。
鋭い牙を月光に光らせるヴォルフラムは、遅れてやって来たクラウスの気配に唸り声を上げ、素早く振り返る。臨戦態勢の前傾姿勢を取る彼の灰銀の眼は未だらんらんと輝き、心の底から闘争本能に飲まれ切っていることを告げる。
クラウスはわざとおどけた調子で諸手を上げ、顎でヴォルフラムの獣の手が鷲掴みにしているガイストを示す。人間に換算すれば、体格は12、3歳くらいの子供だろうか。月明かりだけが光源の現在では仔細までは確認できないが、ひと非ざる青黒い肌ののっぺりとした質感と、断末魔を上げる口の中に生えた無数の歯とで、おおよその見当は付く。
できれば見当を確実なものとしておきたかったが、ガイストは最後の抵抗空しく、ヴォルフラムの剛腕から逃れること叶わず、頭を砕かれた。ぱん、と音を立てて弾けた頭部から、ガイストの姿は塵と化して消えてしまう。
こうして跡形もなく消えてしまうところがガイストの嫌なところだし、検分する機会を潰してしまうのがヴォルフラムの厄介なところだ。思いつつ、クラウスは諸手を上げた格好のまま、荒い息を吐くヴォルフラムと対峙する。
「僕にしては珍しく素直にきみの実力を買って先陣を切らせてあげた訳だけど、その、走り出したら止まらない戦闘狂なとこ、どうかと思うよ、本当」
意識するのは、ガイストが齎した瘴気や町の住人が残した恐怖や混乱の空気、流された血の臭気に隙間に辛うじて存在する、清廉な風だ。
風の精霊は空気がある場所にはどこにでも存在する反面、外的要因に穢されやすい性質上、戦闘やそれに付随する諸々の感情を嫌う。それでいてほんの気紛れ、ほんの戯れの気分で季節外れの冷気や暖気を呼び、農作物や建物を台無しにする大風を起こして、頭を抱える人間に少しも悪びれることがない。無垢にして気儘の気分屋な彼らと交渉するのは、時と場合によっては想定以上の精神を必要とする。
「こんなちんけなガイストども、まるで手応えがない。もっと、もっと骨のあるやつが相手でなければ、俺は、俺は――っ!」
「自分に与えられた力に飲まれてしまう、とでも? 全く、年だけ食って一向に成長しないその不器用さは、いっそ憐れでならないよ、ヴォルフラム」
「お前になにが解る! 人間なんかに、まだ人間でいる、人間であると思い込んでるお前なんかに、俺が解られてたまるか!」
ど、と土煙を上げ、獣の足が地を蹴る。数瞬の間もなく詰められる間合いに、クラウスは応えて軽やかに退がる。獣の手と化したヴォルフラムの右手が振り被られ、力任せの一撃はしかし、クラウスの眼前、紙一重のところで不可視の壁によって阻まれる。この世全てを憎んで憎んで憎み切ったヴォルフラムの憎悪に刹那、僅かな隙が生じる。それでも、間髪入れず二度、三度と不可視の壁に爪を立てるヴォルフラムの気迫は凄まじいもので、猛攻と呼ぶ他ない攻撃に、破られはしないと分かっていてもクラウスの肝は冷える。
「なにも知らないひとよりは、少しは解ってあげられてるって自負してる、つもりなんだけどねぇ」
「そうやってお前はいつも、ふらふらと煙に巻きやがる! 人間の皮被った、ひとでなしの分際で!」
「あ、それ言われるのは、痛いなあ。結構ぐっさり来たよ、今の」
剽軽な声音でやわらかに笑むクラウスは、ぱちりと指を鳴らす。口中で呟くひとの言葉ではない呼び声に応えてごうと吹いた風は、ひと塊となって真下から正確にヴォルフラムの顎を打った。常人ならば即座に昏倒しているであろう一打を受けてなお、その場に踏み止まっているのは、流石、としか言いようがない。
ゆらりと上体を揺らすヴォルフラムの両眼から、闘いに餓えた獣の光は消え失せていた。今クラウスの眼前にあるのは、ひとかけらの矜持によって倒れるまい負けるまいと抗う、ひとりの不器用な男に他ならない。
風で編んだ壁を解けば、ゆらり傾いだ長躯が、それでも最後の悪足掻きと大地を食む。倒れそうで倒れない半獣の友人を前に、クラウスは仕方がないと肩を竦め、止めの一撃を容赦なく顔面に叩き込んだ。