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宿屋もとい居酒屋らしい建物の入り口に掲げられた灯は弱く、併設する馬小屋まで光は満足に届かない。それが余計、半分傾いた馬小屋を実際よりも貧相なものに見せているのか、狭い仕切りの中に押し込められた昼間にも見た馬も、心なしかくたびれて見える。馬は先からほどずっと、無意味に足元を掻いている。機嫌が悪い、というよりも、単純にこの馬小屋がお気に召さないのだろう。建物自体にガタが来ているのは馬にとっては些末だろうが、他の馬の残り香が強く残る場所は落ち着かない気分は共感できる。ヴォルフラムは馬小屋の横に停められた荷車を観察する素振りで、巨躯に同情する。
「なあなあ、お前、馬って種族なんだろ。四ツ脚の生き物は何度か見たけど、お前ぐらい逞しいのは、俺、はじめて見たんだ。なに食ったらこんなに大きくなれるんだ? この乾いた草がお前の飯なのか? お前、こんなに大きいんだから、凄く強いんだろ? ――こっそりで良いから、俺と戦ってくれないか?」
そんなヴォルフラムとは対称的に、ギーベルは持ち前のひと懐っこさで馬の正面に立ち、その鼻面にしつこく顔を寄せ話し掛ける。戦闘用に飼育されている生き物ではなく、人間にとって都合の良いように家畜化された生き物である、という昼間のクラウスの説明はすっかり彼の頭から抜け落ちている。何度顔の向きを変えてもそのたびに正面に回り込んで来るしつこさに、ぶるると鼻を鳴らした馬はくるりと向きを変え、長い尾で器用にギーベルの頬を打った。
うわ、とギーベルが驚きに声を上げるとほぼ同時に、宿屋の裏手から小さな灯りを持った子供らしい影が現れどこかに駆けて行く姿を、ヴォルフラムは見過ごさなかった。子供の脚が向かう方角は、夜の闇に半ば沈み半ば浮かぶ領主の屋敷のほうだった。
「うーん……、なんかこいつ、俺のこと嫌いみたいだ。仲良くなって戦ってたいだけなのに」
「お前相手じゃ、誰でも戦う気は失せる。そもそもこういうもんは、ハナから戦う意思を持っちゃいねぇよ」
「そんなのも居るんだ? こんなに立派なのに? 勿体ないなあ。――あ、それ、昼間の馬車ってやつ? こんな大きくて重そうなの、こいつひとりで引っ張ってたんだ。うーん、ホント、勿体ないなあ」
「このぐらいの荷物なら、お前も軽く引けんだろ。――にしても、あいつ、遅いな」
「部屋がないとか、なんとかって言われたみたいだよ。ここでも良いから泊めてくれって言ったけど、それも駄目なんだって」
ここ、とギーベルが示したのは、荒れるに任せて半分傾き、辛うじて形を保っている馬小屋である。相変わらずの人間離れした耳の良さを当然のように披露して見せたギーベルは、あいつ暖かそうだから一緒に寝られるなら俺はそれでも良いんだけどなあ、嫌われているらしいと自覚した発言はどこへやら、名残惜し気に馬小屋に視線を送る。
深まる夜に変に冷たさを増した風がふたりの頬を撫でる頃、内側から開かれた建物の戸口にクラウスが姿を現した。つば広の帽子に膝まで届く革のマントは光を飲み込む黒一色で、そのまま夜の闇に溶け込みかねない。宿屋兼居酒屋の中では遅めの夕食が始まっているらしい、食事時の賑わいと共に流れ出た、素朴だが確実に空腹に訴える肉のにおいがヴォルフラムとギーベルの胃を大いに刺激する。
どこか得心の行っていない微妙な表情のまま、クラウスはすいと伸ばす手で彼方を示す。夜の闇間におぼろに浮かぶ屋敷はまぼろしじみていた。
「今夜の宿はあそこになったよ」
なんでもないことのように言いながら浮かない顔を隠そうともしないクラウスに、面倒ごとはごめんだと、ヴォルフラムははっきりと口にした。