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生まれた場所の記憶は、おぼろげながら覚えている。小汚く狭い小屋の中、両親と思しき大人がふたりと子供が五、六人。ふたりの大人は己の面倒を見てくれることはなく、生まれたばかりのギュンターの世話は十にも満たないくせにいっぱしの大人じみた、疲れた顔の少女に任されていた。
母の乳の代わりに与えられていた、白湯とさして変わりない薄めた牛乳は、腐れた悪臭を放っていた。飲まされるたびに腹を壊し水のような便を垂れ流す毎日だったが、己はしぶとく生き延びた。やがて固くなったパンを何度も噛み砕いて柔らかくしたそれを口移しで与えられ、生存本能に導かれるまま、黴臭さも黙って嚥下した。
生きることにだけ長け、浅ましくも生き延びた己はある日、なにが理由であったのか、孤児院の前に捨て置かれた。木枯らしの吹く、寒い冬の夕暮れ時のことであった。精一杯着飾った母らしきひとは、ここにいるようにと簡潔に命じると、夜に染まり始めた町のほうへと消えて行った。
ひとり取り残された寂しさを想う暇はなかった。固く鎖された門の前には、先客が居たからだ。
ところどころ染みのついた擦り切れたシャツに包まれた幼子が、バスケットに詰め込まれたありったけの布に抱かれ、ふあぁと思い出したように泣き声を上げる。慌てて閉ざされた門を揺すぶり蹴り付け大声でひとを呼べば、厳と聳える建物から僧衣の女性が現れる。門を開け幼子を抱き上げた老女にあなたは、と問われたギュンターは迷いなく、自分もまた捨てられた子供だと答えた。
マルグリットと同じ日にあの孤児院に引き取られたことをギュンターは、運命と感じていた。まだ乳離れも済んでいないマルグリットを同じ日に捨てられたよしみで世話をしろと命じられ、それからの十数年間、目の見えない彼女の手となり足となり尽くして尽くして尽くした日々を指して、まるで本当の兄妹のようだと指摘する声は止まなかった。
本当にそうであったら良かったのにと、周りからかけられる声にこそばゆいような歯痒いような想いを抱いたことに、否定はない。けれどもギュンターには一度として、マルグリットを妹として見たことははなかった。
それは、一体なんだったのだろう。天啓、とでも言えば、少しは聞こえがよくなるだろうか。とかくもギュンターは、頼りない泣き声を上げてむずがるように全身を揺らし、その当時から見えていなかった両眼を開いて空を見上げる乳飲み子へ、ああきっと自分はこの娘に、なにがあってもなにをしてでも仕えるべきなのだと、直感的に感じていた。
感じたがゆえに、自分に成せることの凡てを尽くして、マルグリットに仕えた。仕えて、仕えて、仕え尽くして。けれども、ああ、やっぱりただのひとの身では、ちっぽけな自分には、至らないことばかりだ。何度彼女の不興を買ったことだろう、何度彼女の金切り声を浴びせられただろう、何度手探りの手で顔に体にちいさな拳をぶつけられたことだろう。すっかり不貞腐れてしまった少女がそっぽを向いて、お前なんか大嫌い、そう憎々しげに云い放つ度ひそかに流した涙を、彼女も、孤児院に養われている子供たちも、面倒を見てくれる大人たちも、誰も、きっと、きっと知らない。
孤児院で過ごす時間が両の手の指の数を越えた頃、ふらりと現れたゴルドルフによって、マルグリットがあの掃き溜めから救い出されたと同時に、ギュンターもまた彼女のおまけとしてこの地にこの屋敷に迎え入れられた。
この町は、いいところだ。以前は交易の中継地点として賑わっていたらしいが、今はその面影は薄く、けれども多くの旅人を歓んで迎え入れていた気質はまだ色濃く、余所者のギュンターにも町の人々は屈託たない親しさで接してくれる。マルグリットの強い願いにより余計にひとり、屋敷に迎え入れなければなくなったゴルドルフも、早々にギュンターの働きぶりを認め、なにくれとなく目にかけてくれていた。ギュンターが簡単な土の魔法を使えることも、魔法使いに好意的であったゴルドルフから一目置かれていた要因のひとつであっただろうが、見かけよりも幼いこの身をなにかと労ってくれる領主様の姿に胸の奥が不思議に温かくなっていたのは、本当のことだ。
この町での生活は、温かさに満ちていた。満たされて、満たされ過ぎて、満たされることに慣れてしまった身で、それでも捨て切れない、手放せない欲は、全く以て身の丈に合わない。それでも、けれども、だけども、一度その欲を自覚してしまえばもう、後には退けない。そもそも俺は、この地の領主様であるゴルドルフに雇われた元孤児のギュンターではなく、あの木枯らし吹く寒い日に共に捨てられていたマルグリットというひとりの少女に、なにがあっても生涯尽くすと誓った、ひとりの少年なのだ。
体は大人になったけれども、心にはあの頃の、幼いながらも純粋な子供じみた忠誠心の欠片をずっと残したまま、ギュンターはすべてを独断で行った。
ギュンターの適性は土だったが、似たような性質を持つ水とも通じるところは、なくはない。それでも、今は零落しきりガイストと同質の存在にまで落ちぶれてしまってはいるが、まがりなりにも高位の水の精霊と交信するには、多大な精神を必要とした。魔法を使う素質はあったが、素質があるだけの凡人に過ぎないことは誰より己自身が理解している。
だから、供物が必要だった。幸いにして領主が館を構えるこの町には、多くの人間が住んでいる。小間使いとして町に用事に出される際それとなく調べた結果、町を囲む石壁に施されているガイスト除けの魔法には、ギュンターでも崩せる綻びが数か所存在していた。石壁の外にある共同墓地は、町からそう離れていない。彼ら彼女らが土中に埋葬されているならば、きっかけを与えることは己でも十分に可能なことだ。
提案した策に耳を傾けるガイストは、どこか他人事のような風情があった。掘り起こされた遺骸を我が操り、町の人間の精神を喰らえばいいのだな。念を押すような問いに、ギュンターは決意に固く頷く。
この町は、善い町だ。領主のゴルドルフ様が迎え入れた養女のマルグリットお嬢様のおまけみたいな自分にも、気さくに底意なく接してくれる。その歳にしては働き者だと褒めてくれさえする。孤児院の中では浮いた存在であったから、過干渉気味な住人に戸惑うことはあれど、不快を思ったことはなかった。思わないようにしていた。
けれども、互いに見知った仲になっても、どんなに親交を深めても、所詮は他人同士だ。俺がただひとつ、かけがえのない大切なひとと思えるのは、マルグリット、ただひとりだ。
犠牲は、覚悟の上だった。それがなんであれ、誰であれ、マルグリットのためなら、喜んで差し出す覚悟はとっくの昔に決まっていた。すべてはマルグリットのために、マルグリットの幸せの歓びの楽しさの嬉しさのために。
そのためになるのであれば、俺の命すら捧げることに、なんの躊躇いがあるだろうか――。




