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魔法使いの旅  作者: 斎藤充
第1章
24/26

24

 風もないのに、水面がさざなみ立つ。腐れた水の臭いは心悪しく苦々しく、肺を汚す。来る、と直感したギーベルは反射的に、マルグリットの姿を自分の後ろに隠そうとする。だが少女はギーベルの手を掏り抜け、満面の笑みを浮かべ沼へと走り寄る。

 ざぶり、と。縁から溢れ出した水はひどくひどく血なまぐさく、ギーベルは堪らずその場でえずく。吐き気に誘発された唾液が気持ち悪くて仕方ない。胸がむかつくのは臭いのせいなのか、今正に顕れんとする何者かのせいなのか、それすら判別付かない。

 とかくも、マルグリットをあれに近付けてはいけない。あれは多分にきっと、無防備に近寄ってはいけないものだ。咄嗟に走り出そうとした足は、しかし動くことなく、はやる上体に崩した体勢でギーベルはその場に倒れ込んだ。

 なにごとか、と見やった足首に、木の根が迫り絡まり、容赦なく肌に食い込んでいた。その間にも這い寄る木の根に両手両足を地に縫い付けられ、ことに太い根に胴や太腿を縛され、身動きひとつもままならない。ギーベルはぎり、と奥歯を噛みながら、まだ自由な首を巡らせる。昼日中に見合わない陰々とした暗さの中、密集した木々の陰に隠れていた男がゆらり姿を見せた様に息呑む喉にも、当然と言いたげに木の根が這う。

「抵抗すればするほど、苦痛が長引きます。どうか賢明なご判断を」

「ケンメイな判断ってなんだよ! こんなことになってんのに、大人しくしてろって言うのか、ギュンター!」

「そうして下さるとこちらとしても手間が省けますので、そう願いたいところですね、ギーベル様――いえ、竜人様」

 淡々としたギュンターの口調に、ぞっとする。なにをするつもりなのかは分からないが、彼が本気でなにかを成そうとしていることだけは、ギーベルにも理解できた。

 なにを、なにが、なんで。疑問が渦巻く思考でギュンターを凝視するギーベルに微かに頭を下げ、彼はひとつ、ふたつと沼に歩み寄る。この沼に住まう御方よ、薄い唇を開いて紡いだ声は陶酔の只中にあった。

「貴方様のお望み通りの供物は捧げました。時は要しましたが、充分なひとの血肉と魂は供したと自負しております。そしてここには、竜人が一匹。対価は充分、今度こそ我が願い、聞き届けてくださいましょうか?」

 ギュンターが沼に向かって声を張り上げる。ぐ、と持ち上がった水面から、ひどい悪臭を供って、ぬらぬらとしたなにかが現れる。どうにか動かせる範囲で首を動かすギーベルは、現れたそれのあまりのおぞましさに目を瞠った。

 ぬらぬらとした灰色の泥を全身に纏って、それは幾十もの眼をぎろぎろと赤く光らせる。出来損ないのまま肥大化した胎児のような姿には、短い手足があちらこちらから無数に生えている。がぱりと広げた口に生える牙もまた、無数。腐った泥の臭いに混ざるのは、それが吐き出す呼気に付随する、生々しく澱んだ血の臭いだ。

 クラウス達と共に旅をするようになって、色々な人間と出会って、色々なガイストと戦ってきた。ひとの皮を被った怪物のような人間もいたし、山ほどの大きさの異形でありながら人間じみた心を持つガイストもいた。彼らの外見的な在り様についてあれこれ言える身の上ではないから、世の中には自分の知らない在り方がこんなにもあるのか、と感嘆こそすれ、おぞましいと思ったことはついぞなかった。――思わないようにしていた。

 していたけれども、でも、これは、あんまりにも醜悪すぎる。

「腑抜けてんじゃねぇよ、高が人間のやることぐらいで」

 頭上から不意に降って来た叱咤の言葉と共に、踏み抜く勢いで背中に足が乗せられる。不意打ちにぐえ、と情けない声を上げたギーベルはようやく、視線をそれから外すことが叶った。可能な限り首を傾け見上げた先には、珍しく息を切らせたヴォルフラムの姿があった。

「ヴォルフラム! どうしてここに?!」

「客間にいても判るほどの気配撒き散らしてんだ。無視しろってのが無理な話だ」

 なあ、そうだろ。挑発的にギュンターに声を飛ばしながらギーベルの体を拘束する木の根を引き切り裂くヴォルフラムにも、蠢く木の根が伸びる。土の精霊よ、我が精神を糧に御力揮い給え。そんな決まり文句を口にし、土の精霊の力を借りてその支配下にある植物に指示を出すギュンターに向かって、ち、とヴォルフラムは舌を鳴らし、己の力の一部を解放した獣の手の鋭い爪で、襲い来るそれらをことごとく切り裂く。

 ついでのようにギーベルに絡みつく木の根を切って捨て、解放されたその身を不承不承の体で支えるヴォルフラムに、ギュンターの驚嘆した目が注がれる。

「契約者と竜人のお連れなら並みの人間ではないだろう、とは思っていましたが。ヴォルフラム様、あなたはもしや」

『竜人に加え、人狼と来たか。ひとの子よ、中々面白き取り合わせよな』

 それが発したらしい声が、その場全員の頭蓋の内に反響した。鼓膜を震わせることなく直接脳に届けられる不快感に、ヴォルフラムは反吐が出そうな苦痛を覚える。頭を振って堪えようとする視線の先では、ギュンターもまた、堪えがたいと言いたげに額に手を当て上体を折っている。

 ギュンターの意識が逸れている今が機会だ。人間よりもよほど鋭いらしい五感を持つギーベルは、ヴォルフラムやギュンターよりもそれの放つ威圧のようなものに当てられているようだが、四肢を縛るものがなくなった心的な余裕からか、多少心許ないが手を貸さずとも自力で立てる程度には回復していた。ならばこれ以上の介添えはかえって彼の邪魔になる。そう判断したヴォルフラムは、異形のものが姿を現す沼に、そのほとりに立つ少女へと、意識の先を変える。

 沼の岸辺に立つマルグリットだけが、なににも侵されることなくなににも邪魔されることなく、平生のまま平然と微笑んでいる。視えない目でヴォルフラムとギーベルとギュンターを眺め、可笑しげに細める姿は、十と少しを数えただけの少女の浮かべるそれではない。どこからどこまで気味の悪い小娘だ。口中呟くヴォルフラムに、ギーベルがこくりと頷く。

「――人狼。そうでしたか、腕の立つ方であることは認めるに足る、とは思っていましたが、ヴォルフラム様は人狼でしたか。……しかし、人狼はもう絶滅したはずでは?」

「勝手に殺すな。あいつらはとっくに人間に愛想尽かして、手前えらの縄張りに引きこもってるだけだ。血は、絶えちゃいねえ」

「俺らもそうだよ。引きこもってるつもりはないけど、外に出なきゃいけない理由がないなら俺らの棲み処から出るなって、俺はそう教わったし、みんなもその通りにしてた」

「希少価値で言ったら、お前ら竜人のほうがよっぽど上だけがな」

 憎々し気に吐き捨てるヴォルフラムは、己の内側に意識を向ける。遠い昔に変質させられた血肉を鼓舞して臨戦態勢を取る心で想い描くのは、灰銀の毛皮に灰銀の眼を持つ、一匹の狼の姿である。ばきばきと音を立てて体が造り変えられてゆく感覚に伴う慣れた苦痛は、半端者であるがゆえだろか。噛み締める奥歯に苦悶の呻きを余さず殺し、ヴォルフラムは思い描いた通りの変体を遂げる。すっくと立つ一匹の灰銀の狼を前に、信じられない、と言いたげなギュンターの視線が煩い。

『ヒトに生まれ、狼と化したか。中々に複雑な理由があると見える。その魂、さぞかし歪な味がするであろうな』

「抜かせ。誰が食われてやるかよ、大蝦蟇もどきに」

 ごうと吠えるヴォルフラムの目に映るガイストは、不出来な胎児のような姿をしていたが、蟇蛙を連想させる姿でもあった。無数の手足は疣に似て、粘性の肌はぬらりとして、いやらしく光る眼はどこか眠たげで、沼から出るに出られない肥え太った体は醜いばかり。全身を覆うヘドロにはそれ自身の腐れた肉体の一部も混じっているのだろう、生臭さを伴う巨大さは醜さの極み、それに尽きる。

 己を縛る木の根から解放されて余裕を取り戻したギーベルは、しっかと足を地面に据え、左の二の腕に巻いた包帯を解く。するり、剥がされた白の下、竜人である証の金緑の鱗が健康的に陽を吸った肌上に宝石のようにきらめく。

 きゃあ、とマルグリットが場違いの感嘆を上げた。興奮に頬を赤らめ、落ち着きなくドレスの裾をいじいじと揉む姿はまるで恋に恋する少女のようで、まるで彼女ひとりが別世界にいるような違和感が甚だしい。

 少女は歓んでいる、愉しんでいる、嬉しがっている。この状況で、異形のガイストを前に一触即発のひりひりとした空気を微塵も解さず、ただただ純粋に焦がれるままに、ギーベルひとりへ熱っぽい視線を注いでいる。

「マルグリットお嬢様、どうか安全な場所にお退がり下さい。ここは危険な場所です。あなたが立ち合わずとも、あなたの願いは間もなく叶います」

「いやよ。いやだわ。こんな素敵なものを前にして私だけ除け者にしようだなんて、なんでひどいのかしら、ギュンターは」

「除け者に、など……、俺はただ、お嬢様の身の安全を思って」

「お前はいつも、いつもそうよね。私が目が見えないからって、いつもいつも私の邪魔ばっかり。どこかに閉じ込めて置けば安全だとでも思っているのかしら。私のためなんか言っているけれど、どうせお前は自分の都合しか考えていないんだわ」

「そ、そんなことは……」

「勘違いしちゃいやよ。ここに来る前からずっと、私の身の回りの世話をしてくれたことに感謝くらいはしているわ。でもお前は、私を自分の都合のいいように動かそうとするばっかりだったわ。それで助かったこともないことはなかったけれど、もう、そんなこととはこれでお終いになるのよね」

 だって私はもう、目の見えない可哀相なマルグリットではなくなるんだから。

 少女は一歩、二歩と、迷いのない足取りで沼へと歩んでゆく。縁を越えても止まらない足で澱み腐った水面に立つ少女は、肩越しに振り返る。忠実な従者など一顧だにしない見えない眼はギーベルひとりへうっとりと、純粋無垢な恋を装って注がれる。

『そこなひとの子よ、我が元へ到りしひとの子よ。主の願いに相応しい供物は揃った。ならば願え、願え、心の底から、主が望む願いを』

 少女はすう、と息を吸う。火照りに朱を差す頬は麗しく、開かれた目は熱っぽく潤んできらきらしく、歓喜の吐息は熱く甘やかに、楽しい催しものを前に待ち遠しく心を弾ませるがごとく、嬉し気に愉し気に、吐いた息が音を成す、寸前。

「――それ、ちょっと待ってくれないかい、お嬢様?」

 ふわり軽やかに、音なく現れた人影が、軽薄じみた声を響かせる。つば広の帽子に黒皮のマントを身に着けたその人物は、喉を唸らせるヴォルフラムといざと身構えるギーベルの正面、彼らと沼のほとりに立つマルグリットとの丁度真ん中に、危うげなく降り立つ。

 待ったをかけられたギュンターが苦々しく顔を歪める。あなたというひとは本当に、俺にとって間が悪い時に現れる。飼い慣らされた犬さながらに、主人に対して我を殺し従順であろうとしていた仮面を脱ぎ捨てたギュンターの声は低く、嫌悪に満ちている。

「やっぱり、魔法使いは魔法使いらしい格好じゃないと締まらないよね。どうやら舞台に遅れずに済んだようで、なによりだ」

「わざわざその恰好のために遅れて来たってのかよ」

「心外だな。揉め事起こしといてわざわざ荷物を取りに戻れるほど、図太く出来ていないからね、僕は。旅発つ準備をちゃんと整えた上での遅刻さ」

 図太さの権化だろお前、鏡見てから言え。呆れた物言いのヴォルフラムに、鏡を見ながらでも言えるよ、軽口を返し、さて、とクラウスは沼から現れたガイストへと体を向ける。

 いつものことだが、考えの読めない食えない顔付きで薄く笑みを浮かべるクラウスは、しげしげとそれを眺める。ふんふんと探るように目を走らせ、どこか得心が行ったらしいクラウスは、なるほどね、ひとつ頷く。

「きみは元は水の精霊のひとつだったようだね。大分力を持つ精霊だったと見える。今はこの濁って腐った沼の影響下でかつての姿を失い、ガイストに近い存在にまで堕ちはしたけれど、能力は健在。そんなところかな」

『然り。我は、姿形は変わりはしたが、この沼の主である。今はこの森ひとつを意のままにすることしかできぬが、かつての我は、この地を支配下に置いていた。あらゆるものは、我の思うままに操れた。――古い、遠い、昔の話だ』

「うわあ、頭に直接語りかけられるのって、想像以上に気持ち悪いなあ。――それはさて置き、きみの望みはなんだい?」

『我は、我自身の姿を忘れてしまうほどに朽ち、この腐れた沼と同化するに至った。後は自然に源へと還ることとなろうが、我はこの姿のまま、在るべき場所に還ることを望まぬ。ひとの手によって我はこの姿に堕とされた。されどひとの信仰なくして我は我を保てぬ。そこを承知の上で、我は我の醜き姿が許せぬ。願わくば今一度、かつての姿を取り戻したい。我の望むところは、それだけだ』

「長年の色々があった末の、その姿って訳か。まあ、美醜は個人の価値観ってところだから、触れないでおこう。――それで、きみは、望みを叶えられるくらいの力を取り戻せたのかい?」

 クラウスの問いに、ギュンターが身を固くする。触れられたくないところに触れられたと全身で訴える様は、クラウスから見れば滑稽だ。横目でギュンターを見やるクラウスは、予想は的中したかと肩を竦める。

『そこな人間の手引きで喰らった魂は、十全である。竜人と人狼も供するつもりであったようだが、まあ、腹は満ちた。人間ひとりの願いくらい、叶えてやる程度の余力はある』

「それなら、ギーベルとヴォルフラムをデザートにする、ってのはなしということでいいかい?」

『竜人と人狼、当世では滅多に見られぬものを、味わいたい気持ちはある。なれど、ぬしは人間の姿こそしているが、我らの側に近しいと見える。なれば今は、ぬしに免じ引くも悪くはなし』

「それはなにより。あなたが話の分かる方で安心したよ。僕は生憎と万全な状態ではないからね、対話で済ませられるならそれに越したことはない。感謝するよ。――それじゃあ、ギュンター。後はきみのお好きに」

 突然水を向けられたギュンターは、びくりと身を震わせる。彼がこの沼に棲まうガイストと初めて対峙したのは、ゴルドルフの屋敷に身を移してからしばらく経った頃のことだった。齧った程度の魔法の知識に生来の素質で呼び出すことの叶ったこれとは何度か相対していたが、その姿はいつだって半透明で不定形の、濁った水の塊でしかなかった。その正体、その本質とも言うべき現在のおぞましい姿を目の当たりにしたのは、今回が初めてである。

 領主の屋敷が建てられる前のずっとずっと昔、土地を耕し獣を狩りようようその日その日をしのぐ、細々とした生活を送る人間ばかりが地を這うように暮らしていた遥か遠い日から、深い森の奥にひっそりと水を湛えた沼には精霊が棲んでいた、という話は、屋敷にマルグリットと共に迎え入れられ小間使いとして働くようになってから、町の住民からおとぎ話の形で聞かされていた。沼に棲み付いているいるというからには、その正体は水の精霊に区分されるものであろうと、ギュンターは考えた。土の精霊に次いで、土地に結び付きやすい水の精霊である。おとぎ話と語られる現在に至ってしまっていても、完全に消失してしまったとは、考え難かった。

 考えたがゆえに、人目を盗んでこの森に、この沼に足を運んだ。最初の供物はなんだったか。確か、調理場からくすねた、まだ血抜きもされていない新鮮な兎だった気がする。

 それから、何度も何度も訪れて、祈るように獣の死体を捧げて、ようやくこの沼に棲まう精霊の成れの果てはギュンターに応えてくれるようになった。微々たる供物の見返りはなんだと問われ、ギュンターは迷いなく、ひとつを応えた。

 ギュンターの願いは行いは、ただひとつ。マルグリットの益となる結果を得ること、それに尽きていた。

「マルグリットお嬢様――、いや、マルグリットの目を、見えるようにしてくれ! 尊いもの卑しいもの、美しいもの醜いもの、正邪の区別など要らない、この世界の凡てを余さず見ることができるよう、マルグリットの目に、光を!」

 喉も裂けんばかりの叫びは空しく木々に飲まれてゆく。相分かった。脳髄に直接響く声に気圧され呻きながら、ギュンターは巨大なガイストを、そしてその眼前に立つマルグリットを、瞬きを忘れて見詰める。

 水を裂いて現れたひと際長く太い腕に導かれるように、マルグリットの体が浮き上がる。ふわふわとした頼りなさでガイストの面前にまで引き寄せられ、その、なんとも言えない悪臭にマルグリットは顔を顰める。ガイストがほうと吐き出した吐息は、その醜悪な姿に似つかわしくない、ひどく柔らかくひどくやさしい光と化して、マルグリットを包み込む。

 厳かな儀式じみた時間は、数秒にも満たなかった。マルグリットがまとった光はやがて彼女の両眼に収束し、きらきらしい眼に吸い込まれて行った。浮かび上げられていた体をやさしく地に下ろされた少女は、ぱちりぱちりと目を瞬かせ仰向いた面で、はじめに空を見る。

 空は、どこまでも澄んで、青く高い。南中に差し掛かった太陽が、光を識ることなかった目を容赦なく貫く。突然与えられた強い光に目を眩まされた少女は、面を下げ、くるりと体を反転させる。なにかを探すようにうろうろと彷徨う眼は、常人のそれではない。きらめく水面に似た、ガラス玉のような無色透明の両眼は、おぞましくも美しい。

 やがてひとつところに視線を定めた少女は、長い睫毛に縁取られた眼を細め、莞爾と笑う。大輪の花が戯れの風と遊ぶがごとき純粋さで、いとけなさで、偽りのない笑みを浮かべ、少女は一歩二歩と足を踏み出す。

「ギーベル、あなたがギーベルね。ああ、何度想像したかしら。お日様のように温かくて力強くて、けれども芽吹いたばかりの双葉のような活き活きとした繊細さ。あなたのことは、何度も読み聞かせられていたわ。竜はとっても強くてとっても美しくて、けれどもとっても傷付きやすいから、ひとの目の届かないところに隠れてしまったのでしょう? 私、あなたの姿を、何度も何度も想像したわ。想像していたのだけれど、ああ、あなたはなんて美しいんでしょう、そのきらきらの左腕の鱗。ねえ、頬の布の下にも同じ色を隠しているんでしょう? 解るわ、解っているわ。だって私ずっと、あなたのことばかり思って考えていたのだもの」

 熱に浮かされたように捲し立てるマルグリットの幼い手が、ギーベルの左頬に張り付けられた布を剥ぎ取る。抵抗など、今の彼女の前では無意味だった。強引に布を剥がされた痛みに眉根を寄せるギーベルの左頬には、竜である証の金緑の鱗が輝いていた。うっとりとしたマルグリットの視線は、鱗と同じ金緑を湛えたギーベルの眼にも注がれる。ぐいぐいと体を寄せて来る少女からなんとか距離を取ろうと身を引くギーベルに、マルグリットは何故と頬を膨らませる。

 しかし彼女の不興は長くは続かず、人智を超えた力によって開かれた異形の眼は、ギーベルを守るようにふたりの間に割って入ったヴォルフラムに向けられる。品定めをする冷めた目付きに威嚇の唸りを上げて見せれば、詰まらないと言いたげにマルグリットはギーベルに視線を戻す。

「ギーベル。あなたの本当の姿は、これではないわよね。私、知らないけれど識っている気がするの。この眼のお陰かしら。ねえ、見せて下さらないかしら。もっともっと美しい本当のあなたを、私は見てみたいの」

「マルグリット!」

 一度も顧みられなかったギュンターが、堪らず声を荒げる。面倒臭いが仕方ないと肩越しに流した目でマルグリットは、心底落胆したとギュンターに冷めた色を向ける。

「ギュンター、お前――、思っていたよりもずっとずっと醜いわね」

 痛ましいものを見るような目付きで口にされたマルグリットの言葉に、ギュンターは悲痛の拳を握る。報われたくて努力したところで、大方の願いは報われることなくあしらわれる。全身から溢れ出る彼の悲嘆は理解の範疇なんだけどね、クラウスは肩を竦める。

 マルグリットの美の基準がどこにあるかは分からないが、少なくともギュンターは十人並みの器量をしている。その出自から考えるに、おそらく長年苦労をしてきたであろう顔貌には、実年齢に彩を添える精悍さも添えられている。個々人の好みは無視した上で、世間一般的には不器量に分類される容姿ではないはずだと、クラウスは判断する。

 目開きの者には到達し得ない美の基準が、彼女にはあったんだろうね。この詰まらない一幕を総括する言葉を呟き目配せするクラウスに応えて、ギーベルはマルグリットの望む通りに仮の姿を脱ぎ捨てる。ひとから竜へ、変身は古くなった皮を脱ぐような爽快さがある。

 背の高い木々を悠々と見下ろす巨大な竜は、金緑の鱗に仄かな光を纏わせている。この姿になるのは久し振りだ。背伸びをするように背の羽を思いっ切り伸ばせば、巻き起こった風にマルグリットの豊かな巻き毛が躍る。

「……竜、これが、竜――! すごい、すごいわ! ギュンターもお父様も施設のひと達も、私に良くしてくれたけど、全然ちっとも美しくなかった。私が美しいと思えていたのは、お話の中にいる竜だけだった。想像するしかなかったけれど、だからかしら、ギーベル、あなたはとってもうつくしい! ねえ、この胸の高鳴りもあなたには聞こえているんでしょう? そうよ、そうだわ、私はきっと、あなたに、あなたの本当の姿に出会うために、生まれて生きて来たんだわ!」

「……そりゃあ空しい人生ってもんだな。美しいもんがなんだってんだ、笑わせんな。世の中、おキレイなもんだけ侍らせて生きて行けるほど、甘くはねぇよ」

「あら、醜い灰色の狼さん。あなたはそれを言える立場なのかしら? あなたはあなた自身の、とっても歪で不格好で矛盾ばかりの在り方を屈辱と感じる心を、忘れてはいないのでしょう?」

「は! 小便臭いガキが一丁前にご高説を垂れるかよ。同じ人間を食い物にして踏み躙らせた先で、折角開いて貰った眼の使いどころはそんなもんか。下らないにもほどがある」

「そこは僕もヴォルフラムに賛成だね。彼女のその眼は多分、元からなかった視覚機能を付与するだけではなくて、付加価値として真理を暴くものだろう? さしもの元水の精霊様も、死んでいるものを生きている状態に戻すことは不可能と見るね。権能の一部を分け与えた、そう見るべきかな」

『異論はない。魔法使い、ぬしなら分からずとも識ってはいよう。我は捧げられたものに見合うものを、我の最適解として与えたに過ぎぬ。そこな男は我と接触を図り、我に供物を捧げた。契約、というものだ。対価が払われた以上、我の一部をそこな娘に譲らねば、道理に合わぬ』

 道理、ねえ。意味深に薄ら笑いを浮かべたクラウスは、真の姿を現したギーベルにとっては窮屈なばかりのこの場のすべてに対して、ゆるゆると首を振る。そして上げた面でギーベルに向かい、唇を動かす。

 茶番も、そろそろ終わりの時だ。幕引きはいつだって、一歩も二歩も引いたところに立つ観測者によって、ここぞという時に引かれなければならない。

「――クラウス」

「大丈夫。僕らもすぐに追いつくさ」

 ばさり、巨体の背に生えた翼が強烈な風を巻き起こす。突風ともいえる羽ばたきに皆が皆、大地に踏ん張り耐える様を見届けて、ギーベルはふわり浮き上がる。

「待って! 待って、ギーベル! もっとよくその姿を私に見せて! 私はあなたの姿が見たくて、見たいから沢山の犠牲を払わせて私は――、そうよ私にはあなただけしかいなの! そうだわ、あなた、お嫁さんを探してるって言ってたわよね? 私がお嫁さんになってあげるわ、私あなたになんだってしてあげる、どんな仕打ちにも耐えてあげる、あなたの傍に置いてくれるなら私、死んだっていいわ、だから――」

 熱に浮かされたように取りすがるように喚く少女を見下ろすギーベルの眼は、哀感に満ちていた。それほどまで自分を慕ってくれているなら、応えてやるのがやさしさというものなのかもしれない。でも、俺が求めているのはこの娘じゃない。絶望的な自覚が、ギーベルの胸を哀しく痛めつける。

「……ごめん、マルグリット。嬉しいけど、俺、行かなくちゃならないんだ」

「なんで? なんでなの? 私の全部をあなたにあげてあげるのに、それでも、私よりも大事なものがあると言うの? 私のなにが不満なの? ギーベルの望むことはなんでもしてあげるのに? それとも、私より、この魔法使いさんを、あなたは選ぶというの?」

「ごめんね、マルグリット。俺は、俺たちは、旅をしているんだ。俺はここを、旅の終わりにはできないんだ」

「マルグリット嬢。――僕らは、旅をしている。それぞれの目的は違うけれど、旅をする義務を背負っている。旅をすること、旅をした果てで叶うであろう願いを追い求めること、それを辞めるわけにはいかないんだ」

 それが、僕らの唯一の生き方だから。

 風の精霊に頼んで編んで貰った不可視の階段に足をかけ、クラウスはギュンターとマルグリットに済まなそうに笑いかける。追いすがろうと少女が伸ばす細腕を振り切り彼方を目指すギーベルを追うように、クラウスは透明な階段を駆け上がる。ヴォルフラムは灰銀の狼の姿のまま、昼日中でも不吉に薄暗い森を駆ける。

 折角、折角、この眼で世界を見渡すことができるようになったのに。この世で最も美しい竜を、正しく捉えられたのに。なんで、どうして、私は一番肝心なものを逃してしまうんだろう。恋焦がれて求めて止まなくてついに間近に迫ったそれを、無力に見送ることしかできないんだろう。これがマルグリットという小娘の運命、なんだろうか。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。そんなこと、許せる訳がない。足掻かなくちゃいけない、なにを犠牲にしてでも、もう一度、もう一度お願いをしなくちゃいけない。

 浅ましい願望でもって振り返った先の沼には、既にガイストの姿はなかった。いつも通り、今では誰もその存在に見向きしなくなったゆえに、誰も訪うことのない腐れた水が澱む沼のほとりに立つマルグリットに、恐る恐るギュンターが歩み寄る。幼い肩に置いた手は、触れた途端にばしりと払われる。

「役立たず」

 忌々し気に低く奏でられた声に、森のそちこちで遊んでいた鳥が、一斉に飛び立った。

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