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「満室、ですか……」
食堂と居酒屋を兼ねているらしい宿屋のカウンター越しに、固太りした女主人はああ、と重々しく頷く。
「乗合馬車に不具合が出ちまったらしくてね、予定ではここより先の町まで行くつもりだったらしいが、不運なことだよ。そういう訳で、久しぶりに団体客がお泊りってことさ」
「それはなんとも……。時機が悪い、としか言いようがないですね。失礼ですが、このお店以外に泊まれる場所は?」
「ある、と思うかい? こんな小さな町に」
ずるそうに片目を細めて見せる中年の女主人へ、クラウスはなんとも答えず苦笑して肩をすくめる。
この辺り一帯を治めている領主の屋敷のお膝元で、自然と栄えた町だった。日暮、というよりも殆ど夜の闇に浸かった領主の屋敷と思しき建物は、遠目に見ても中々に立派だった。町自体も古い時代に造られたらしい頑丈そうな石壁に囲まれ、クラウス達が通って来た街道が今のように整備される以前は、町から町への中継地点として賑わっていたという昔話を裏付ける。
だが、一歩中に足を踏み入れてしまえば、そんなことはとっくに過去の話なのだと、町に流れる風が教えてくれる。宵闇に包まれた町の通りを急ぐのは、家路に着く町人ばかり。ひとりふたりと声をかけ探し当てたこの宿屋も、三階建てのがっしりとした造りではあるが、どこか寂れた感は否めない。
「宿代は三人分きちんと払いますので、なんとか一部屋だけでも都合して貰えませんか?」
「そうしてやりたいのは山々なんだけどねぇ……。生憎こっちも久しぶりの団体様で、手が回らないんだよ」
「こっちとしては雨風だけ凌げれば十分なんで、なんなら外の馬小屋でも構わないんですが」
譲歩に譲歩を重ねたつもりだったが、女主人は、とんでもない、と両手を突き出し大仰に首を振る。
「お客様を馬の寝床に泊めるなんて、死んだひい爺さんに叱られちまうよ。それにあそこもガタが来ててね、馬車を引いてた馬だけで満杯さ」
「こんな立派な宿なのにですか?」
「見てくれだけさ。大昔は毎日大勢泊り客があって繫盛してたって話だけどね、アタシの親父の頃にゃもう、町の人間相手の居酒屋稼業に落ちぶれちまった」
「なるほど。事情は分かりました。しかし、困りましたね……」
ううん、と腕を組むクラウスの格好をじろじろと眺めていた女主人はカウンターから身を乗り出し、内緒話をするように顔を寄せて来る。
もしかして、と潜めた声に続く質問を予測することは容易い。疑いをかけられやすい旅装をしていることを、クラウスは自覚している。
「あんた、見たところ15、6ってとこだけど、あれかい? 魔法使いってやつかい?」
少しばかり強張った彼女の表情を慎重に窺いながら、ええ、とクラウスは鷹揚に頷く。
魔法使い、という存在に対してどんな感情を抱いてるかは、個人差が激しい。万物の法則は解明され科学は日々進歩する現代に、かつては重宝されていた魔法を忌避する動きは否めないし、理解し難いものではない。さて、このご婦人はどちら側か。否定はせず素直に肯定はしたものの、クラウスはうやわらかく笑んだ目の下で女主人の顔色を注意深く観察する。
不快そうな色は見えない。それどころか、どこか安堵したような微笑すら浮かべている女主人は、出し抜けにクラウスの肩を肉厚の手でばしばしと叩いた。
「なんだ、そんなら話は早い! ――おおい、アンタ。ちょっと来とくれよ!」
店の奥、多分厨房に通じているのだろう、古ぼけた織物を下げただけの出入り口に顔を向け、女主人は明るく声を張り上げる。なんとも不明瞭な応えが返り待つこと暫し、古びた前掛けを飛び散った血で濡らしたひょろ長い痩せぎすの男がぬうと現れる。
「この人はアタシの旦那で、この店の料理長だよ。アンタ、ちょいとひとっ走り、ご領主様のとこに行って来てくれよ。魔法使いが来たってね!」
「まだ夕飯の仕込みの途中だ。俺が厨房を離れる訳にはいかん。小僧を使ってくれ」
「ご領主様に報せに行ってくれりゃ、誰でもいいさ。アンタに任せるよ」
うむ、と重々しく頷いた男は厨房の出入り口の向こうに消えて行く。突然に出て来た、ご領主様、という単語に内心身構えるクラウスへ、女主人は満面の笑みを送る。あんた、この町に来たのはツイてるよ。今度は背中をばしばしと叩かれ、なにがなんやらさっぱり分からないが、クラウスは、はあそうですかと愛想笑いで答えた。