15
町は、昨夜とは比較にならない惨状に包まれていた。
住民の避難も満足に進んでいないというのに、なんの拍子にか、家屋に付いた火が赤々と燃え上がり、夜空を焼いている。そちこちで高く渦巻く炎熱に焦がされ、陽が没した町は夕焼けの明るさに満たされていた。
我先にと聖堂に向かう人の波には混乱が満ち満ちて、流れは遅々として進まない。親とはぐれた子供が甲高く泣いている、萎えた脚の不自由さを老人が憤り嘆いている、乳飲み子の火の付いたような泣き声に母親が途方に暮れている、見失った家族を探す男が人の流れに逆らっている。
どこもかしこも乱れに乱れて収集の付かない有り様に、風の精霊が辟易とした様子でクラウスに助けを求める。ああもう四方八方、煩いばかりだ、これだから人間というものは。クラウスは声なき声に同調する。僕も同感だと心中呟く、くさくさとした気分を表向きは露とも見せず、音なき声で風の精霊に語りかける。気にすることはない、所詮は乱れやすい人間の心の動きだ、清廉な風のひとつも吹かせてやればすぐに鎮まる、詰まらない些事に過ぎないのだ、と。
クラウスがそう言うのならばと、現状に似つかわしくないふわり駆け抜けた清廉な風に、ひとびとは虚を突かれたように動きを止める。好機を逃すまいと、クラウスは声を張り上げる。
「皆さん、落ち着いて下さい。聖堂に着けばガイスト除けの聖なる加護が、必ずや皆さんを守って下さいます。気が急く想いは解りますが、どうか速やかにしかし滞りのない移動を心掛けてください」
きちんと調べた訳じゃないから、あそこはあそこで眉唾ではあるんだけど、との所感は自身の胸に秘めて置く。なんであれ、一ヶ所にひとびとが集まってくれれば、守りは断然に易くなる。彼らの避難誘導はギュンターに任せ、クラウスは先を急ぐ。
途中、人家にも移った炎の消火活動に当たっていた男衆にも同様に声をかけると同時に、火の精霊にも、いたずらもほどほどに、そう釘を差し、クラウスはガイストの気配の濃い一角に向かう。そこには一足早くヴォルフラムが到着していたが、ガイストの数は昨夜と較べれば呆気ないほどに少ない。
早くも目立つ敵は倒してしまったらしいヴォルフラムは、鋭い爪を尖らせた獣の手を黒い残滓に汚したまま、クラウスへ振り向く。
「手応え自体は変わらない、が、町の被害に反して数が少なすぎる」
「同感だね。別の侵入経路でも見付けたんだろうか。でもそれだと、僕が昼間に施した魔法に引っ掛からない、と言うのは」
おかしい。そう続くはずだったクラウスの言葉を、突如上がった悲鳴が遮った。クラウスとヴォルフラムは同時に顔を見合わせると、即座に声がした方へと走り出す。
その昔は交易品を一時保管する倉庫として機能していたのだろう、今は穀物倉庫として使われている古びた建物の正面で血塗れの男がひとり、喘ぐように短い呼吸を繰り返していた。患部を抑える手の隙間からぼたぼたと垂れる血は止めどなく、失われた血に顔面は蒼白となり、唇は紫に染まっている。それでも気丈に片手で農具を構える男に、歪なひとのかたちをしたガイストは容赦なく襲い掛かる。
駆け付けた勢いのまま一切の躊躇なくぶつけられたヴォルフラムの拳にガイストは吹っ飛ばされ、それの注意は傷付いた男から自身を攻撃した新手へと移り変わる。緩慢に起き上がり、ずるずると足裏を引き摺りながら新手と相対したガイストの背丈は、ヴォルフラムの胸の辺りほど。腕も脚も細く華奢なもので、まだまだ成長途中の子供と大差ない。これで、開いた口に光る無数の鋭い牙と、両手両足に生えた禍々しい爪とがなければ、さしものヴォルフラムとて攻撃を躊躇っていただろう。
そう、それほどまでに、ガイストは人間に似ている。似すぎている。だからこそ湧き上がる本能的な嫌悪感と忌避感と純粋な怒りでもって、ヴォルフラムはガイストの喉笛を変化した獣の右手で殴り、抉る。
手応えは、たとえるならば、水の詰まった皮袋、といったところか。ぐにゃりとあらぬ方向に向いた頸は元の所に戻ることなく、切り裂かれた肌からぐじぐじと漏れ出す黒い液体は人間の血と似て、どろり、地を濡らす。周囲に上がった炎の色を上辺だけ吸ったそれは、耐え難い腐臭のくせに人並みの赤黒い色をしていて、不快に尽きる。
「ヴォルフラム!」
叫びに似たクラウスのひと声で、ヴォルフラムはそれにとどめの一撃を見舞う。首と胴は今や離れ、ぐらりぐらり、揺れる上体が浅ましく、道連れを求めるようにゆらり、腕を持ち上げる。邪魔だといわんばかりに胸元を蹴り付け、建物の壁と己の足の間に縫い止めた躰になおも力を込る。ばきりと音を立ててその身を踏み抜けば、ようやく、生き汚いガイストの動きは止まった。
塵となって消えて行ったガイストを見届けたクラウスが、無言で彼方を指す。ガイストの気配は今ふたりが居る場所を中心として、そこら中に存在していた。大方、血の臭いを嗅ぎ付けたのだろう。狩り放題かと無意識に拳を鳴らすヴォルフラムの心を見透かしたように、そうだとクラウスは頷きで応える。
炎で染められた赤黒い闇間へ、ヴォルフラムが無数のガイストの気配を連れて消えて行くのを見送るクラウスは、周囲に目を走らせ、人気がないことを確認する。そうしてから断りを入れ触れた男の傷口が、まだ生の気配に熱いほどに温かいことに安堵する。
「意識はまだありますね? 僕は魔法使いです。今からあなたに魔法の治療を試みますので、どうか僕を拒まず受け入れて下さい」
「あ、ああ――! 俺の脚が、血が、止まらねぇ! 俺の脚なのに感覚がもう、もう――!」
「落ち着いて下さい。微力ですが、僕が手を貸します。あなたはただ、願ってください、祈ってください、強く思ってください。あなたの脚は元の通りに動くのだと、そう、信じて下さい」
「神様、ああ、神様――! 死にたくない、まだ死にたくないんだ俺は! 守らなきゃならねぇ家族が、俺には、まだ、まだ――!」
「分かってます。だから、死なないために、僕に手を貸して下さい。なに、簡単なことですよ。あなたはただ、僕を受け容れればいい、それだけです」
左の大腿部を鋭く深く切り裂いた男の傷口に、クラウスはやさしく手を添える。しとどに溢れるぬるりと温かい血の、赤黒い感触を掌で味わう。どくりどくりと脈動するいのちを感じ取る、共感する、共鳴する、共振する。
そして、目を閉じる。
業火のうねりとひとびとの喧騒の最中にあって、まるでここだけは穏やかな午後のような微睡む静けさで、クラウスはゆっくりと息を吐いた。
根気強く言い聞かせる上辺の言葉は実のところ、飾りにすぎない。言葉が届いていようがいまいが、さしたる問題ではない。本質は心にこそある。クラウスは目を閉じたまま、祈りの想いを心で告げる。
治れ、治れ、治れ。一番大事な血管が繋がるだけでいい、千切られた神経の一部が繋がるだけでいい、傷付いた骨が繋がるだけでいい、切り裂かれた皮膚が肉が上辺だけでも繋がるだけでいい。本当に、本当に、最小限でいい。あなたのいのちが繋がれるだけの、ちょっとした無理を働いてくれるだけでいい。
ぐちゃぐちゃと入り乱れた道を掻き分け掻き分け進んで、ようやく、ようやく、ずたずたに切り裂かれた精神を纏うクラウスの魂が、彼の者の最奥に届く。
混乱はしているが、消耗し切っていたことが幸いだった。平常であったならば、もっと難しい道行になっていたことだろう。けれどもクラウスは、男の魂にまで至る道を、嵐のような精神の渦の中に見出した。僕はあなたを癒したいだけだ、そこに他意なんて全然まったくない。希う切なる想いが届いたか、男の脚の血管が骨が神経が皮膚が、クラウスが願った通りに繋がってゆく。
「見た目は無事そうでも、完全に治ったわけではないことは判別付きますよね? 本調子になるまで、無理はしないで下さいね?」
念を押す言葉は、届いているのか、いないのか。強引なやりくちに付いて回る困惑で意味なく喚くばかりの男の脚に、上着の隠しから取り出した布をきつく巻き付け、クラウスは上げた顔で周囲を見回す。男の騒ぎように、誰かがガイストに襲われているのかと集まって来たらしい、農具を手にした住人の姿を見止めた。彼らは一応武器になりそうな得物を構えてはいるが、クラウスと負傷した男とを遠巻きに観察する様子は、どうにも格好の付かない及び腰の体だった。
畏怖し忌避し、しかし好奇心には勝てないらしい何対もの目に、クラウスはやれやれと肩を竦める。何度も目にはしたが、何度目にしても慣れないものだ。ともかくと一番近くに立っている男に向け、クラウスは口を開く。
「このひとを聖堂に運んでください。ああ、傷に障らないよう、注意はしてくださいね。塞がったように見えてるだけで、重傷であることに変わりはないので。それと、あなたがたも早く聖堂に避難してください」
「あ、あんた……、今のは一体」
「お、俺、聞いたことあるぜ! あるけど、おとぎ話みたいなもんだと」
「俺も! 俺も聞いた覚えがある! でも、本当にいるなんて」
「でも今見たのは夢じゃねぇ、まぼろしでもねぇ、正真正銘の現実だ! なあ、違ってねぇよな?」
「ああ、そうだ。全部現実なんだ。だったら、それじゃあ、あんたは――!」
「……皆さんのご想像にお任せしますよ、その辺のところは。僕は魔法使いです――、今はそれで十分でしょう? とにかく、早いところ避難してください。あなたがた全員まで死なせないほどの余裕は、僕らにはないので」
切って捨てるもの言いに、遠巻きにクラウスと男を眺めていた住人らは観念したのか、今はそれどころではないと判断したのか、構えていた農具を下ろし、恐る恐るふたりに歩み寄る。クラウスは彼らの動きに合わせ、ゆっくりと後退する。
倉庫の前に停められていた荷車に傷を負った男が乗せられる。顔色は変わらず蒼白のままだが、不明瞭な呻きの間々に家族の名らしき言葉を呟いているところを見るに、辛うじて意識はあるらしい。少なくとも、今は大事には至っていない。そう密かに安堵したクラウスは、マントをひるがえし、炎の赤も届かない深く暗い闇間に消えて行った。




