第九話 零れる涙
翌日、わたしは朝食を終えて執務室に向かっていた。
昨日は疲れて忘れていたけど、まだ婚約契約書にサインをしてなかったのだ。
こんこん、と部屋をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
執務室に入ると、公爵様は笑顔で迎えてくれた。
「あぁ、君か。もう来たんだね」
何やら執事の方とお話していたようだけど、わたしを見た公爵様は一言二言話して応接用のソファに移動する。
「お忙しいところ申し訳ありません。お時間よろしいでしょうか?」
「構わないよ」
朝食の席で事前に行くと言っていたため、公爵様はすぐに婚約契約書を持ってきてくれた。侯爵家に支度金500万ゼリルを払う旨と公爵夫人として力を尽くすような文言が書かれている。既に公爵様のサインはしてあったから、わたしがサインするだけで済んだ。
「ありがとうございます。申し訳ありません。このような急かすような真似を」
「むしろ言ってくれて助かったよ。なにせ契約書を交わす前にみんな逃げるからさ」
あはは。とあまり笑えない冗談を言う公爵様。
曖昧に微笑むだけでそれを聞き流すと、窓から風が吹いて来た。
「今日は良い風が吹いてるね。ラプラス嬢、散歩でもしてきたらどうかな?」
「それもいいですけれど……あの、公爵家の夫人教育とかは」
「んー。必要かな? 侯爵家ならそう家格が変わるわけでもないし、要らないかと思ったんだけど」
「基本的な仕事は出来るかと。公爵家ならではの伝統などがありましたら教えていただけると助かります」
「うちはそんなのないから大丈夫だよ。気遣ってくれてありがとう」
「そう、ですか」
それならあとは公爵家の領地運営になるのだろうけど。
さすがに来たばかりの令嬢にそんなものを見せるような公爵じゃないだろう。
かといって、ここに居ても公爵様の邪魔だろうし。
「では、わたしはこれで失礼して──」
その時だった。
風に吹かれて執務机から飛んできた紙が、わたしの足元に滑り込んできた。
「ごめん、窓閉めるね」わたしは公爵様の言葉に頷きながらそれを拾い上げる。
どうやら文官がまとめた収支報告書のようだった。
(って、一番重要な書類じゃない)
慌てて紙を返そうとしたわたしだけど……
侯爵家に居た時の習性が抜けず、つい数字に目を走らせてしまう。
(文官が十人……? 酒税が二割……収穫に対する税率も中途半端……)
わたしの頭がぱちぱちとソロバンを弾き、
「……無駄が多すぎるわね」
ぽつり。と漏れてしまった言葉に、
「なんだって?」
すかさず反応した公爵様を見て、わたしはハッと口元を抑えた。
慌てて書類を返し、淑女らしくカーテシー。
「申し訳ありません。余計なことを言いました」
ぎゅっと唇を噛みしめる。
前の婚約者の時も同じようなことをして失敗したのに何をしているんだろう。
こういうことをしているから『成金令嬢』だとか『銭ゲバ女』みたいに言われるのに。
(そうよ。ここでは大人しくしているの。清楚なお嬢様っぽく、望まれた夫人像に……)
そうじゃなければきっとまた婚約を破棄されてしまう。
そうなってしまえば領地に残している妹が貴族院に行けなくなる。
寛大なアルフォンス・オルロ―公爵も、今度ばかりは怒るに違いない……。
「いや、続けてくれ。君の意見が聞いてみたい」
けれど予想に反して、公爵様は何も言わなかった。
それどころか、対面に座って先を促してきた。
「は、はぁ……では」
わたしはごほん、と咳払いして。
「まず人口の割に文官の数が多すぎます。公爵領は確かに広大ですが、実際に人が住んでいるところは限られています。各町に信頼できる文官を置き、公爵城にまとめ役となる文官を設置する中央集権体制を取ったほうがいいです。また、酒税が二割とありますが、これは高すぎますね。お酒などは皆のモチベーションに繋がるので税をかけないほうがいい。消費を抑えたいところに税を置くべきです。それから、収穫に対する税率が毎年変わってるのはどういうことですか? 豊作不作で変えているなら話は別ですが、これを見るとそうではないように見えます。不作時に収める税で平民が困るというなら公爵城に補助金を溜めておいて非常時に放出すればいいのです。また、隣の領地に関する通行税ですが──」
わたしは収支報告書から見られる改善点をあげていく。
幸いにも数字のまとめ方は上手だから、どこが良くてどこかが悪いのかはすぐに分かった。実際に現場を見てみないと分からないけれど、かなり的を射ているんじゃないかと思う。
「──と、こんなところでしょうか」
十分くらい話してから、わたしは周りが唖然としていることに気付いた。
「ぁ……」
(や、やっちゃった……)
顔から血の気が引いていく。
さっき自分で反省したはずなのに、わたしは思いっきり銭ゲバ令嬢になっていた。
(こんなにまくしたてるように言うなんて淑女らしくないわ)
公爵様が優しくしてくれたから調子に乗ってしまった。
書類を突き返して部屋を出て行こうとすると、腕を掴まれた。
「あ、あの?」
公爵様は俯いていて顔が良く見えない。
どうしよう。本気で怒らせてしまったかしら。
そう思ったのだけど──
「……すごいなっ、君は!」
「え?」
聞き間違えかと思うほど、温かい言葉が聞こえた。
顔をあげた公爵様のお顔は興奮したように輝いていた。
「女性の身でそこまで知識を身に着けるのは大変だっただろう。学府も女性が知識を得るのにいい顔をしないだろうし……それに、昨日来たばかりの公爵領のことをよく勉強している。本当にすごいな。君みたいな聡明な女性は見たことがないよ!」
「え……え?」
わたしが動転している間に腕を引っ張られ、ソファに戻される。
拳二つ分距離を空けて、隣に座った彼は膝の上にメモ用紙を広げながら、
「次はどうしたらいいと思う? 聞かせてくれ。君の意見が聞きたい」
「……」
わたしは何も言えなかった。
ぽたり、と。頬を滑り落ちた雫が、書類に斑点を作っていく。
「ど、どうしたんだっ? すまない。腕が痛かったか?」
「……いえ」
「少し強引だったな。興奮してしまって……」
「大丈夫です。わ、わたしは……」
あぁ、ダメだ。
抑えきれない。止まらない。
「も、申し訳ありません。また今度で」
「え、ちょ、ベアトリーチェ嬢!?」
「お嬢様っ!」
こんな顔見られたくなくて、わたしは勢いよく走りだした。