第四十二話 ありがとう
「ヘンリックから取引の話を聞いた時、正気かって思った」
久しぶりに訪れるラプラス侯爵家は驚くほど静かだった。
玄関ベルを鳴らしても誰も見つからず、使用人たちすら見かけない。
アルは予想していたかのように勝手に玄関を開け、わたしたちに道を作った。
「父上と懇意の仲じゃなかったら耳も傾けなかった。娘のために国に喧嘩を売るような真似……相手が相手なら反逆罪だ。それでも、彼は君に……」
アルはわたしに振り向いた。
「行こう、ベティ。君の目で真実を確かめるんだ」
「……はい」
馬車の中で聞いたお父様の計画……一連の婚約破棄騒動はお父様の計画のうちで、王妃からわたしを逃がすためにやったことだと知った。でもその方法は自分のわがままで国を売る方法だ。お父様の手紙を見たときの王妃の笑い声が、わたしの頭の中で反響する。
『自ら死にたいなんて、良い覚悟ね』
きっとあれは、そういう笑いだったのだろう。
わたしたちは住み慣れた侯爵邸を歩いていく。
まるで死出の道行きを飾るように整えられた前庭。
噴水のちろちろとした水音に言い知れない不安を覚えて、わたしは自然とアルの手を握っていた。
侯爵邸には誰も居なかった。
ピカピカに磨き上げられた大理石の床にまっすぐ敷かれた絨毯。
二階の玄関階段を上がり、調度品一つない無機質な廊下を歩いていく。
そして、お父様の寝室に着いた。
ぎぃ……と、扉が開く。
(あぁ、この匂いは覚えてる)
お母様が死ぬ前にはよく嗅いでいた。
死を遅らせるために煎じた薬草の匂いがふわふわと漂っていた。
「フィオナ、か……?」
飾り気のない部屋の一番奥。
ベッドの上に寝かされたお父様はこちらを見ずに言った。
「わざわざ来てくれたのか。すまないな……誰もいなくて、驚いただろう?」
アルとフィオナはわたしに目配せする。
わたしは頷いて、ゆっくりと、お父様のそばに歩いた。
「全員、解雇した。もちろん、次の職場も斡旋したぞ……今度は、上手くできたからな……ふふ……」
(……っ)
乾いた笑みを浮かべるお父様に、覇気はない。
僅かに見える髪は白髪交じりで今にも逝ってしまいそうで。
「お父様、お加減はいかがですか?」
後ろからフィオナが気遣わしげに問いかける。
お父様は咳き込みながら答えた。
「よくは、ないな……フィオナ。よく、お聞き」
わたしはお父様のベッドの横で膝を突いた。
お父様は顔を動かす力もないようで、天井を見つめながら言った。
「お前のことは……ベティに、すべて任せる」
「……っ」
「あの子は、聡い子だ……私などが居なくても……すべて悟って……行動してくれる。ラプラス侯爵家は……誰にも継がせない……お前は、オルロー公爵家の養子になるだろう……でも大丈夫。お前には……とびっきりの姉が、居るから」
わたしは口元を抑えて俯いた。
熱くなった瞼から、涙が滴り落ちていく。
「そうだ……ベティ。ベティは、大丈夫だろうか」
「……っ」
「アルフォンスから、面談の知らせを受けて……手紙を、送った。ちょうどいいタイミングで、間に合えばいいが……今度、ばかりは……失敗できない、からな。げほっ、げほっ」
まるで最後の力を振り絞るように。
言葉を紡ぐごとに、お父様の身体から力が抜けていくようだった。
「最期に、父親らしいことが、出来ただろうか」
「……お父様」
わたしはお父様の手を握るけど、声は出していない。
ずっと知りたかったことを、後ろからフィオナが聞いてくれた。
「なぜ、お姉様に言わなかったのですか……一言、言ってくれれば……」
「……私は、馬鹿だからな」
自嘲するように、お父様は言う。
「何を、やっても……裏目に、出る。もしも、失敗したとしても……お前たちを巻き込むことだけは、出来なかった……」
「……っ!!」
あのジョゼフィーヌ様からわたしを引きはがすために。
わたしの幸せのために、この人はすべてを賭けたのか。
肝臓を患い、強烈な激痛と戦いながら、それでも──
「ふふ……フィオナ。お前は、良い姉を、持ったな」
「……ぁ」
「あの子は、すごいぞ。なんたって……アリアの、子だ。私に似ても似つかない……最高の……げほっ、げほッ……はぁ……今さら、私に父親面する資格は、ないが……最期に……ひと目だけでも……ベティの顔を……見たかった……」
「お父様」
もう耐えられなかった。
わたしは、お父様の手を強く握りしめた。
「わたしはここに居ます」
お父様が目を見開き、立てつけの悪い扉のようにわたしに振り向いた。
長らく見ていなかったお父様の顔はやつれていて、瞳に涙が滲む。
「ベティ……?」
「はい」
「なぜ、ここに」
「アルが、すべてを教えてくれました」
お父様はわたしの後ろにいたアルに気付いたようだ。
「……契約、違反だ。罰金を貰わねば……」
「覚悟の上だよ……最期くらい、娘と話すといい」
お父様は諦めたように息をついた。
「……」
「……」
わたしたちの間に沈黙が落ちる。
何から話したらいいのか分からなかった。
言いたいことはたくさんあって、吐き出したい感情が胸に溜まっている。
だけど、どうしてか何も切り出せなくて。
「……何も、言ってくれるな」
「……え?」
お父様は自嘲するように言った。
「これは、私が、勝手にやったことだ……お前には、関係がない」
「そんな……でも、わたしのために」
「自分勝手な男が、最後に気まぐれに、自棄を起こした。それだけのこと……」
「わたしはっ!!」
わたしはお父様の手を掴んだ。
お父様は、びっくりしたようにわたしを見る。
「わたしはただ、傍にいてくれればそれでよかった! わたしを見て、わたしの名前を呼んで、家族一緒に頑張れたら、それで……!」
「……うん」
「それで、よかったのです……」
「…………うん」
お父様は大粒の涙を流しながら頷いた。
「ごめんなぁ。ベティ」
「……っ」
「お前が、何を望んでいるか……分かっていた、つもりだ。それでも私は、怖かった。私の至らなさが、またお前の足を、引っ張ってしまうのではないかと……お前に対する負い目と……劣等感が、私にお前と向き合わせなかった……本当に、すまない」
確かにわたしは辛かった。
お父様にはちゃんと名前を呼んでほしかったし、食事だって一緒に食べたかった。
お父様と、フィオナと、三人で笑って居られたらと、何度望んだことだろう。
「わたしは……わたしだって……」
「一つだけ、聞かせておくれ、ベティ」
お父様はわたしの手を握り返した。
空色の瞳がまっすぐにわたしを捉えて、
「お前は今、幸せか……?」
そう、問いかけてくる。
「はい」
わたしは迷わず頷いた。
アルを見て、フィオナを見て、もう一度お父様を見る。
「あなたのおかげで、わたしは幸せになれました」
「……そうか。そうかぁ……」
お父様は、それはそれは嬉しそうに笑った。
「よかった……最期だけは、上手くいったんだなぁ……」
「お父様っ」
たまらず飛び出してきたフィオナがお父様に抱き着いた。
お父様は痩せ細った手でフィオナを、わたしを抱きしめる。
「二人とも……元気で、な」
「お父様、やだ、やだぁ……!」
「好き嫌いは、しないように。私のように……酒に溺れるのは、ダメだぞ。辛いことがあったら……二人で、支え合うんだ。家族だからな……」
「……っ」
「幸せになれ。それが……それだけが……私たちの、願いだ……」
わたしを掴む力が抜けていく。
お父様の目はここじゃないどこかを見つめているようだった。
「アリア……今、お前の側に……」
そしてお父様の手から、完全に力が抜けた。
「ぁ、ぁああ」
ゆっくりと瞼を閉じたお父様に、わたしたちは縋りつく。
「ぅわああああ……ぅわああああああああああああ……!」
わたしはお父様に縋りつき、フィオナと一緒に泣き続けた。
涙が枯れるまで──ずっと。




