第二十八話 わたしの気持ち
「殿下……なぜここに?」
「君に会いに来たんだ」
寒気がするほどの猫撫で声でジェレミーが言った。
わたしに婚約破棄を突きつけた時には『貴様』呼びだったのに……。
今や熱のこもった瞳で『君』だなんて! 気色悪すぎて吐き気がする。
「あいにくとわたしは『成金令嬢』ですので、殿下がお会いになるような者ではありません」
「そんなことはない。君は……」
兵士に抑えられながら殿下は言った。
「綺麗になったな」
「……おえ」
「ベアトリーチェ?」
本当にどうしてだろう。アルフォンス様に言われた時は身体が熱くなったものだけど、この男に言われると吐き気がこみ上げてきて全身の毛穴が総毛立つような感じがする。思わず口元を抑えたわたしに怪訝そうにしてから殿下は続けた。
「君が居なくなってから君の重要さを痛感する日々だった」
「……わたしの記憶違いでなければ殿下から婚約破棄されたと思いますが」
「あれは間違いだった。俺の一生の過ちだ」
つまりわたしが必要だから呼び戻しに来たってこと?
自ら冤罪を着せて婚約破棄をし、慰謝料まで請求した相手に?
(すごいわね……)
人間という生き物はここまで醜く成り果てるのかと逆に感心する。
わたしが居なくなったら現状が辛くなるなんて、ちょっと考えれば分かっていたことでしょう。この分だとレノア子爵令嬢の教育が足りなくて殿下にしわ寄せがいっていそうね。知ったことじゃないけど。
「俺の過ちはすべて謝る。だから戻ってきてくれないか。側妃として」
「……」
もはや怒りを通り越して呆れすら終えて達観した気分だった。
この男に感情を抱くということ自体が無駄すぎて言葉も出ない。
「お帰り下さい、殿下」
「なぜだ? 君はあんなにも王太子妃教育を頑張っていたじゃないか」
「それは殿下のためではありません」
わたしが婚約者として努力していたのは領地のためであり家族のためだ。
第一王子の婚約者ともなれば、わたしの評価はすなわち家族の評価につながる。
ちょっとでも粗相をするとたちまち社交界の刃がわたしを切り刻んだだろう。
「誰が好き好んであんなのやりたがるんですか?」
「え」
「朝早く起きて領地の仕事を終わらせ、朝食を詰め込んで王城に行く準備をして、王城に着いてからは泣き言も許されぬスパルタ教育、ダンスのステップを間違えようものならすぐさま叱責が飛び、王妃の監視の目に心が休まることはない。夜十時になってようやく帰って、そしたらまた領地の仕事……この三年間、寝る暇もありませんでした。その間、あなたは何をしてくれましたか?」
「いや……それは」
ジェレミーはばつが悪そうに目を逸らした。
そりゃあそうだろう。この男は何もしていない。
むしろ数少ないわたしの休みに時間を使わせた挙句、金遣いにうるさいだの、見た目に気を遣えだの、わたしを責め立てるようなことばかり言っていたのだ。わたしはこの男と居て心が休まったことなんて一度もない。
それに……。
「わたしは既にアルフォンス様の婚約者です。あなたの側妃にはなりません」
「それでも俺にはお前が必要なんだっ!!」
「きゃ!?」
兵士を払いのけ、無理やり門を開けたジェレミーがわたしの腕を掴んできた。
「お前を連れ帰らないと母上に殺される……! だから俺と来い! 大好きな金勘定でもなんでもさせてやる。俺を男と見なければそれでもいい。だがそれでも来い。三年前、僕と婚約した時からお前は母上のモノなんだよ……お前なんかが逆らえる相手じゃないんだ!」
「離して……痛いっ」
無理やり男に迫られるのがここまで怖いことだとは思わなかった。
いざとなれば股間を蹴り飛ばして逃げようとすら思っていたのに、本当に『いざ』という時になると身体が竦んで、足がまったく動かない。
「それとも何か? お前、もう従兄殿と契りを結んだのか?」
わたしはカッと顔が熱くなった。
そんなわたしを見て何かを確信したようにジェレミーは言う。
「まだなんだな?」
「……あ、あなたには、関係ない」
「好きなのか、あのデブのこと」
その瞬間、殿下の言葉がわたしの一線を踏み越えた。
恐怖が竦んでいた心が、それ以上の怒りによって点火する。
「……今、何て言いました?」
「好きなのかって聞いたんだ。あのデブのこと」
ジェレミーは軽薄に言った。
「なぁベアトリーチェ。あんなデブより僕のほうがタイプだろ?」
「……」
「公爵領を任されながら落ちるところまで落ちたクズ。こんなボロい城に住んでるのに、あんなに太ってるなんてな。領民から巻き上げた税金で贅沢でもしてるんじゃないか? あんな奴より、俺のほうが容姿もいいし、立場もあるし、側妃になったらいくらでも贅沢させてやれるぜ? なぁ、あんなデブより俺にしとけよ」
カチン、と来た。
「いや、あなたブサイクですけど?」
「は?」
わたしはジェレミーの手を振り払った。
唖然とする彼の顔を張り飛ばしたかったけど、さすがに暴力はダメだ。
(いやでも一発くらい……待ちなさい、わたし。我慢よ)
手を出すより先に言っておくことがある。
「確かにアルフォンス様は一般的な男性より体型がふくよかだわ。お腹も出ているし、顎肉もあるし、まぁ他の方々が豚公爵と呼ぶのも許容しましょう。それは、事実ですからね」
「だったら」
「それでもね、あの方は、誰よりも優しいのよ」
容姿でもない、お金でもない、能力でもない。
わたしが彼に心を許しているのは、きっと。
「あの方はわたしが嫌がることは絶対にしないし、かといって気遣いすぎることもない。領民の意見にはちゃんと耳を傾ける方だし、亜人たちをまとめるために心を砕いて下さるし、誰にでも平等に接してくれる優しいお方。それは、領地の資料を見れば分かるわ。信じられる? あの方が領主になってから、領主への不満を陳情する領民はほとんど居ないのよ」
どんなに良い領主でも苦情をいう領民はいるものだ。
でも、アルフォンス様が領主になってからというもの、そういった人たちは格段に減っている。なぜなら領民たちは知っているから。領民を魔獣の脅威から守るために、彼と彼の騎士団がどれだけ励んできたかを。
「しかも、それを誰にも誇らない。驕らない」
「……っ」
「わたしの頑張りをちゃんと見てくれるし、細かいところまで気遣ってくれる」
わたしは虫を見るような目でジェレミーを見た。
「アルフォンス様は、あなたよりもよっぽど心が美しくて、とても格好良い方だわ!」
「な……っ、じゃあお前は、ブタの嫁になってもいいってのか!?」
「そもそもわたしは既に公爵と婚約を交わした身です」
あの方がわたしを妻に望んでくれるか、まだ分からない。
だってわたしたちはようやくあだ名で呼び始めたばかりで。
手だって繋いでなくて、口付けもまだで、それ以上のことなんて想像できない。
でも。
「わたしが隣に望むのは、殿下じゃない。アルフォンス・オルロー様です!」
「~~~~~~~っ」
「分かったらとっと失せなさい、いくら王族でも叩き出しますわよ!」
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! いいから、お前は、俺と、来い!! お前がどう言おうが、母上のところまで連れていく!」
目を血走らせたジェレミーがわたしに手を伸ばした瞬間だった。
「誰に手を出してるんだい、この従兄弟」
「ぼべぁ!?」
ジェレミー殿下の頬を、野太い腕が吹き飛ばした。
ふくよかな背中でわたしを庇う、その人は。
「……アル」
「怖い思いをさせたね、ベティ。もう大丈夫だ」
アルフォンス様はそう言って笑った。




