第37話 はい、ノイシャです!
「ノイシャ!」
「はい、ノイシャです‼」
とっさに、私は返事をしていた。
だけど暗くて、そのお顔が見えないから。気が付けば、私は躊躇うことなくマナの式を描いていた。マナの光が、ふよふよと鉄格子を潜り抜けて。照らされるのは、桃色の髪が愛らしい、とても凛々しい騎士様だ。
「旦那様……」
「よく無事だった」
――何もしてないのに、褒められたの?
ただ無事なだけで、褒められた。
その事実に、思わず目を見開いていると。旦那様の腕に縋っていたラーナ様が声を張る。
「ねぇ、リュナン! 違うのよ? 私は教会に戻った方がノイシャさんのためになると思って! ちゃんと待遇も前より良くなるよう司教に相談を――」
「ラーナ、俺は自分の妻の世話をきみに頼んだ覚えはない」
そんなラーナ様を見やる旦那様の目が冷たい。
「きみが女で良かったな。男だったら躊躇わず殴り飛ばしているところだ」
旦那様がラーナ様の手を強く振り払う。その勢いで、小さな悲鳴をあげたラーナ様が尻餅をついた。そんなラーナ様を冷たい視線で一瞥した旦那様が、牢屋の扉をガタガタと揺らす。
「くそっ。鍵はあの司教か……」
「あ、あの……」
あまりに旦那様がイライラして、腰の剣に手を伸ばしているようだから。
差し出がましいかもしれないけど、提案してみる。
「私が、開けま、しょうか……?」
「どうやって?」
「あの……奇跡で」
すると旦那様が髪をわしゃわしゃ掻きむしってから、大きく息を吸った。
そして、
「ど阿呆! 自分で出て来れるならどうして出てこない⁉」
「えっ……」
――どうしてと言われても……。
私が戸惑っている間にも、旦那様は「そもそも自分で明かりを点けられるならさっさと点けろ!」と怒ってくる。そんな怒られるようなことしたつもりじゃないんだけど……。
でも、私はもう学んでいた。どれだけ怒っていても、旦那様は私を鞭で打ったりしない。だからちょっとだけ言い訳してみても、いいのかな?
「だって出たところで、行く所が……」
「帰ってくりゃいいだろう⁉ きみの足じゃ些か大変かもしれんが……半日歩けば屋敷まで戻れるはずだ! 頭のいいきみなら道だってわかるだろう?」
「そ、そりゃあ……」
ダメだった。やっぱり怒られているときに言い訳はダメだった。しょんぼり。
だけど……ちょっと疑問に思う。まるで旦那様のお話ぶりだと……。
思わず顔を見上げ、ジッと青い目を見つめていると。
旦那様が気まずそうに視線を逸らしてしまうけど、
「な、なんだ?」
「あ、あの……私帰っても……いいんですか?」
「は?」
疑問符とともに、真面目な青い瞳に、再び私を映してくれた。
「俺が出て行けと言ったか?」
「いいえ」
「俺が帰るなと契約書に記したか?」
「そのような記載はございませんでした」
「なら、帰りたいなら帰ってこい」
あっけらかんと言われても……。私はなんて言葉を返したらいいんだろう?
それなのに、旦那様はますます難しいことをおっしゃるから。
「きみに俺が求めることは、全部あの契約書に記したことだけだ。あぁ、家に帰ったらひとつ記載を増やさないとな。泣きたいほど嫌なことは我慢するな、と」
「えっ?」
泣く……とは、目から涙が出ることだよね?
思わず顔に触れてみると、たしかに目の周りや頬が濡れている。
「私、泣いて……いるんですか……?」
「どう見ても泣いているな」
「なんで私、泣いているんですか?」
「知るか――と言いたいところだが」
ふと、ゆるめた旦那様のお顔がとても……。
「俺の屋敷に戻れないことを悲しんで泣いてくれていたのなら、少しだけ嬉しい」
胸がどきどきする。この動悸はなんだろう?
寿命が近いのかな? なにかの病気なのかな?
だけどとにかく、今は旦那様のお顔を見るのが恥ずかしい。
「わ、私が泣いたら……旦那様はやっほいしますか?」
「それはさすがに性格が悪すぎるだろう。……まぁ、ろくでもない男なのは事実だが」
そうつぶやいてから、旦那様は「さっさと鍵を開けてくれ」と命じてくる。そうだ、ボヤッとしている場合じゃない。慌てて式を描けば、あっさりと鍵が回った。
すると旦那様はすぐさま扉を開けて、私に手を差し出してくる。
「一緒に帰ろう、ノイシャ」
大きな手。たくましい手。あたたかい手。
「はい……ノイシャです」
その手に、おずおずと私の小さな手を乗せればすっぽり包んでくれるから。
そうして牢屋を出たあとで、旦那様は小さく息を吐いてから一点を見下ろした。
そこには、未だ膝をついてこちらを睨んでいる貴婦人の姿。
「まぁ、その前に――彼女に話を聞いてからだがな」






