パン屋のアルバイト
聖麗の会の宿泊施設は、一般信者がときおり利用する施設で、今の時期は殆ど利用者が無く、施設内の食堂は閉まっているものだから、朝夕の食事は自分でなんとかしなければならなかった。
とはいえ、都会でもないので朝の六時から朝食を食べさせてくれる店は見当たらず、散歩がてらに軽井沢駅近くまで足を伸ばして漸く一軒のパン屋を見つけた。そこはおそらく地元の人も買いに来るだろうと思われる家庭的な雰囲気の小さくこざっぱりとした店で、洒落たログハウス調の木目枠のガラスドアを押してあけると、カランコロンと音がして、ガラスケースの向こう側から「いらっしゃいませ」と若い娘の明るい声がした。
小さなテーブルと椅子が二つ三つあって、中でも食事ができるのかもしれないが、店内にいる地元民と思われる中年の客達は、皆持ち帰りのようだった。
周は暖かい飲み物が欲しかったので、持ち帰りにせず、クロワッサンなどを適当に見繕って、コーヒーを頼み、空いているテーブルについた。やがてケースの向こうにいた若い女店員が香り豊かな暖かいホットコーヒーを携えて周のところに近寄り、テーブルにことことと並べて「お待たせしました」と愛嬌ある笑顔を振りまいた。
「ありがとう」と女店員の方を見上げた周は、彼女の顔に見覚えがあるような気がして、しばし見据えた。
すると彼女の方も、俄かに顔を緩め、少し浅黒い顔に綺麗な白い歯を見せて笑い、周に話しかけてきた。
「羽鳥先輩ですよね、猪名川です。猪名川温子。ほら四中のバレー部の、二年下です」
そう云われても、転校ばかりしていたから思い出すのに時間がかかった。都内某市の四中にいたのも半年くらいだ。
そういえば三年の時バレー部にいたこともあったか。二年下ならあの頃中学一年ではないか。こどもに興味はなかったからなあ、と暫く考え、漸く一人の生徒を思い出した。短髪で少年みたいな子。上目遣いに俺を見ていたっけ。それが今や綺麗に茶系に染めた長髪を後ろでしっかり束ねて、紺色のミニのツーピースに黒のタイツ、白いエプロンという制服に身を包んだ一人前の美人に変身しているのだった。
「ああ、君か。イノと呼ばれていた……」
「そうです、そうです、イノと呼ばれた猪名川です」
「すっかり雰囲気が変わっているので、分からなかったよ」
「先輩も雰囲気違いますね」
彼女は悪戯っぽく笑った。悪気はないのだろうが、あの頃既に周は年上の女達に囲まれてホストの真似事のようなことをしていたので、今の姿は昔の彼からは想像もつかないだろう。
「どうしてここに?」と、周は温子に訊ねた。
「父が脱サラしてこちらへ越してきたんですよ。私が高校へ進学する時です」
「じゃあ、この店?」
「違いますよ。奥地のペンションですけど、流行らなくて。私は家の手伝いもしながらここでバイトです。先輩はどうして?」
「俺、高認検定を受けて東都大学へ行ってるんだ。今教員免許とるために教育実習しているよ」
「ええ! 嘘! 全然想像つかない。あんなに人騒がせしといて」
少しも遠慮の無い話し方だ。こんな性格だったかなと周は首を傾げた。
もっと話をしてみたかったが、客がいるため、彼女は再びケースの向こう側に移動した。
どこで誰に出くわすか分からない。あちこち転々としてきた周には、数多くの知り合いがいる筈だった。中には同じ教室の空気を吸っただけという関係もあるし、母親の勤めていた店の客という知り合いもある。こうしてあの頃と全く違うイメージの人間に変身しても、気付く人間はやはりいるものだ。
「春休みじゃないんですか」
一段落して温子は再び戻ってきて周に訊いた。
「それが今行っている学校は春の研修会というのをやっていて、それに参加しているんだよ」
「へえ、それってどこですか、この近く?」
周は少しためらった挙句答えた。「聖麗女学館」
「名門のお嬢様学校じゃないですか。知ってますよ。うちのパン屋からも時々パンを届けてますから。遠いですよね、ここから車で一時間」
「そうそう、あちらの先生が毎朝送迎に来てくれることになっている。でも食べるところがなくて、今朝はここまで来たわけさ」
「じゃあ、毎日来てくださいね、安くしてもらいますから」
そう云って温子は楽しそうに笑った。
また明日来ることを約束して、周は店を出た。思ったよりパンもうまく、これならしばらくはここで朝食をとるのが良いだろうと思われた。あとは夕食の問題だった。まさか毎日安達と共にするわけにもいくまい。その安達が七時に迎えに来るので、周は急ぎ足で宿舎へ戻った。
聖麗の会宿泊施設のロビーには昨日とは違う職員がフロント係として控えていた。今朝は女性職員である。近づくと洗練された化粧をした都会的で清楚な美人だった。「尾野由美子」というネームプレートをつけていた。
「羽鳥様、安達様がお見えです。駐車場にて待機されているとのことです」
「え、もう来てるの? 十五分も早いよ」
周は慌てて部屋へ戻った。あのじいさん、昨日あれだけ飲んでタクシー使って帰ったのに、よくこんなに早く迎えに来れるな、と周は感心した。
安達は、運転席でのんびり新聞を読んでいた。周が近付くと、どのように気配を察知したのかしらないが、さっと新聞を折りたたみ、ドアのロックを外した。
「よく眠れたかね」
「ええ、完璧です」
他愛もない挨拶を交わし、周が乗り込むなり車はすぐに走り出した。
「いよいよ王子様のお披露目だ。姫君たちがどのような反応を示すか楽しみだ」
安達は、冗談に託けて本心を語ったようだ。本校の敷地内に若い男性が入り込むのは昨日が久しぶりだった。そして今日の開会式では、彼が生徒たちの前に姿を現すことになる。安達は周に緊張を強いているようにも思えたが、周の方は、全く緊張を感じなかった。小さい頃から女性たちに囲まれて育ち、おもちゃのようにされながら、常にどう見られているかを意識して生きてきた。今更女性の視線に緊張するはずもない。
「昨日も言ったが、今日の午後は数学の演習になっており、君も採点と指導を生徒個人に対して行うことになっておるが、くれぐれも言動には気をつけ給え。中には若い男性と初めて口を利く生徒もいるだろうから」
「承知しています」
「横で美人の教官が怖い顔をして君を監視しておるからな。注意したまえよ」
ずいぶんしつこい親爺だな。お前の方こそスケベ面して教えているのじゃないか、と周は感じた。これでよく現場で長年教師が務まってきたな、とさえ周は感じた。