待ちわびた逢瀬
仕掛けを施した図書館からの手紙を投函して一週間、周は平凡な日々を装いながら只管彼女からの連絡を待った。ストーカーのようにじっと待つという経験は、周にとって新鮮だった。年齢相応の純情な恋に陥っているようで、心地よい反面、日を追う毎に焦燥の念に駆られ、いよいよ勉強すら手につかなくなり始めた頃、待ち焦がれた封書が届いた。差出人に住所の記載はなく、ただカタカナで「アンナ」とあった。
封を開けると、あの時嗅いだ彼女の香りが微かに漂ってくるように感じた。文面は単純だった。連休の一日にあたる四月二十九日、甲府に行く用事があるので、午後一時に甲府駅に来てほしい。三十分くらいなら話が出来そうだとのことだった。二十九日とは明後日ではないか。
紛れもないあの特徴あるゴシックのような綺麗に揃えられた文字。彼女の顔が浮かぶ。一度しか目にしていないが脳裡に強烈に焼き付いた美しい顔。
約束された、たった三十分のために、人生をかける勝負に挑むような興奮と戦慄を覚えた。
当日、周はバスと電車を乗り継いで約束の時刻の一時間以上も前に甲府に着いた。適当に時間を潰して三十分前に約束の場所に待機する。さすがに県庁所在地の駅であり、連休の初めだったため都会から流れてきたらしい観光客がいたりして人ごみは凄かった。
百八十を楽に超える長身だった周は、人ごみの中でも目立つようにカジュアルでラフな格好をしてきたが、ひとりぽつんと立っている振りをして周囲に気を配っていたところ、ランダムに行き交う女高生のグループなどに横目で視線を送られたりした。みな周を見て顔を赤らめたり、通り過ぎてから揃って振り返って見たり、明らかに興味津津といった感じだった。女の視線に慣れていた周でさえ今日は落ち着きがなかった。よく考えてみればこれほどときめきを感じながら女性を待った経験はなかったろう。
時刻がまさに一時になろうとした時、あの忘れられない芳香が漂った気がして、近づく気配の方を向くと、デニム生地の上下に紺のキャップを目深に被った、濃いサングラスの女が至近距離にいた。制服姿とは全く異なるスタイルだが彼女に間違いなかった。
「やっぱりあなたでしたのね」
はっきりとした発音、透明感の漂う声。初めて聞いたが、あの可憐な制服姿をそのまま連想させる澄んだ声だった。
「栗原知里さん? 羽鳥周です」と思わず丁寧な言葉遣い。ふだんと違う自分になった気がした。
「ごめんなさい。なかなか学校が厳しくて、抜け出せないのですのよ。今日も、この格好、変装ですの。制服姿で男性と一緒のところを万一どなたかに目撃されますと、少々面倒なことになりますものですから」
現代風のカジュアルでラフな格好に全く似合わない仰々しい言葉遣い。面食らった顔をしていたのに彼女は気付いた。
「ああ、可笑しいわね。このスタイルでこんな喋り方。ふつうの高校生の話し方って、こんな感じかしら」と、少しずつ解れてきそうだ。お互い慣れない対応をしてしまっているのは意識しすぎて緊張しているからだろう。そんな気持ちすら共感しているような気になってしまう。
「ねえ、こんなところでは何だから、場所を変えない? 一時間くらいしか時間がないの、勿体無いわ」と、彼女はサングラスを下へずらして大きな黒い瞳で周をじっと見つめた。見上げるような視線。顎が上がると白い首筋が露になる。長身の周の方からだとボーダー柄のシャツの胸元が少し開けて、華奢な体の割りに意外に深く暗い谷間へ通じる道が周の目を誘うようだった。
彼女は、それを察知したのか、胸に手をあてた後、口元で小さく微笑み、いきなり周の手首をとって引っ張った。「さあ、行きましょ。私、久しぶりに甘いものが食べたいわ。だって寮ではちっとも食べさせてくれないんだもの」
細く白い手、スキニージーンズから下の足首も細く、決して力はないのに、周は引っ張られて歩き出した。予想以上に積極的な態度にある種の戸惑いを感じながらも、周は心地よい恋慕を感じた。
駅の近くなので、雰囲気のあるところを選んでいる時間的余裕はなかった。彼女が知っている甘党の店に案内され、そこで中学生のデートのように甘いものを食べながら短い時間を過ごした。
七対三で彼女が喋っただろう。中学生のころから聖麗女学館に在籍し、一年中寮にいるが年に数日のみ帰宅するということ。帰省時には帰宅時刻まで学校側から実家へ通知が行くために寄り道すらできないということ。だからこうして会う時間も限られるということ。時代錯誤という訳ではないが周には信じられない世界だった。
彼女は周と同じ三年生だった。実は周が彼女と初めて出会ったと思っていた図書館での邂逅以前に彼女は周を見かけたことがあるという。それも中学時代。周が最も女遊びに興じていた頃のことだ。「年上の女性に囲まれて将来ホストになる人なのかと思ったわ」と、彼女はころころと笑った。どこで見かけたのかと問うても答えはなかった。猫の目のようにじっと瞬きもせず周を見つめる。決して数多くの男との経験を積むことによって作られたのではない、生まれついて持っている妖しさ。小悪魔のように男を魅惑する天賦。
「一度同じ年頃の男の子と話をしてみたかったのよ」と、憶目もなく堂々とそんなことを云う。
なぜ自分を選んだのだろう、と周は考えた。「あの見えないメッセージを見つけることがきっとできると頭の中で声がしたの」と、彼女は周の心のうちを呼んだかのように呟いた。
彼女が用意した一時間はあまりに短すぎた。惜しむ周に彼女はきっぱりと終幕を告げた。
「帰ったら連絡するわ。携帯は持ち込み禁止だし、電波も届かないの。電話もなし。だから手紙を書く。こちらからなら上手く出せるのよ。でも返事は書かないで。特定の人物から度々手紙が来ると検閲を受けるの。」
もし周の方から彼女へ連絡を取りたくて手紙を書くときは、女性の名前で、中身も女性になった積もりで文章を書いてほしいとのこと。しかも宛先の名は毎回替えるようにいうのだ。予め気のおけない同級生に頼んでおくから、その子の名に宛てて書いてほしいという。続けて同じ名前を使わないようにその次は別の同級生の名を使うよう強い要望があった。
「そんなに厳しいのか」
「ええ、女性の名であっても同じ差出人の手紙が続くと封を開けられる場合があるの。だからもしものことを考えて名前だけでなく、中身の文も女の子っぽく書いてね」と、にっこり微笑んだ。
結局、当面は彼女からの一方通行の手紙が主流ということになった。どうしても周の方から連絡が必要な場合に備えて、彼女の同級生の名を一人分メモさせてもらった。
「じゃあ、鳥栖安奈とでも名乗って書こうかな。かわいい丸文字の文章で」
周が真顔で言うと、彼女はなおいっそう可笑しそうに笑うのだった。