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カチューシャの君

 知里(ちさと)という少女との出会いは四年前に遡る。周は母子家庭に生まれ育った。母親は十九の時に周を生み、医療事務の傍ら祖母と二人で周の面倒を見た。幼い頃周は父親は亡くなったと聞かされて育ったが、小学校高学年の時に親戚の内緒話を偶然耳にし、そうでないことを知る。そもそも父親がどんな人物なのか、母親しか知らないというのだ。母親は息子の周の目から見ても、街中でも滅多にお目にかかれない程の美貌の持ち主で、女子高生の頃から数多(あまた)の男子学生の求愛を受け続け、学校では品行方正の、どちらかというと優等生の部類であったが、中退して家を飛び出してしまった。そして二年経つかという頃、突然何の前触れもなく、大きなお腹を抱えて実家へ帰ってきた。周囲が相手のことを問い質しても強情にだんまりを決め込み、貝のように口を閉ざし通した。

 母子家庭が珍しくない時代になっていたとはいえ、若くて美しい母親は、周囲の反感を買った。周が中学生の頃には、母親は三十を過ぎてはいたが、二十代半ばにも見えたため、街を歩くと姉弟のようにも見られた。同級生からは年上の彼女などと冷やかされ、周は次第に母親を避けるようになる。その頃から周自身の男女交際が問題となるようになった。すでに百七十センチを超える細身の長身で、美少女にも見える甘いマスク。あまり男らしさが目立たず、どちらかというと中性的な外見は、女生徒達の憧れの的となった。近寄る女とは年齢に関係なく次々と男女の関係を持った。それが自分に言い寄る女性に対する礼儀とでも言うかのように。しかし、そのような行動が行き着くところは決まっている。学校関係者のみならず地域の人々との間に軋轢(あつれき)を生じ、母親ともども追われるように実家を離れることになったのだった。

 各地を転々とした挙句、周たち親子は山梨の片田舎へたどり着いた。終われるような生活に辟易してすっかり疲弊していた二人は、当面目立たない大人しい暮らしをしようと意見を一致させた。周は真面目に高校へ通い始めた。学力レベルの低い学校にしか行けなかったが、子供の頃から飲み込みが早く要領の良かった周は、密かに勉学にも勤しみ、大学受験も十分可能な学力も身につけて行った。その反面、百八十を超える長身で精悍かつ聡明な雰囲気をもつようになった周は相変わらず女生徒の羨望の的になったが、己の野性的な本性は体の深遠に封印した。

 そんなある日、周は街の小さな図書館で出会ったことのないタイプの女生徒に遭遇する。

 それは新学期が始まろうとする四月の春休みのことだった。閲覧室で静かに勉強していた周は、そろそろ集中力が途切れかかったため、ふと頭を起こした。すると視野の片隅に見慣れぬ藤色の制服の女生徒を捉えた。対象を追うように視線を走らせ、体も傾ける。後姿ではあったが、長い黒髪は藤色のブレザーの肩甲骨のあたりまで真っ直ぐに下がっており、藤色と濃紺のチェック柄のスカートは膝上数センチとやや長めで、形の良い脚に紺のオーバーニーストッキングをしっかり上まで穿いているため、歩くときに腿の白い素肌がちらちらと見え隠れする。すでに女の体を知り尽くした積もりになっていた周でさえどきっとする絶妙のスタイル。そしてさらに驚愕したのは窓から差し込む光に輝く髪をふわりとさせて振り返った時の顔。前髪にささった上品な白いカチューシャ。大きな黒い目は棚を見あげる。目当ての本を見つけたときの目の輝きと口元に浮かんだ魅惑的な微笑。ぞくっとするような衝撃が周を襲った。思わず席を立ち、彼女の姿が見える位置を保ちつつ、本を探す振りをした。

 制服の女生徒は、周囲の視線を集めるのを楽しんでいるかのようにも見えた。背伸びして一冊の本を手にとる。スカートの裾がせり上がる後姿。当然のように腿の生肌が室内の淡い光を反射する。目で追うのは周ばかりではなかった。春休みなので他にも中高生の男子がいる。田舎とはいえ相当な数だ。それぞれが見ていないようで、一人の美少女に注目していた。

しかし彼女は澄ました顔で閲覧室の机の一つに腰掛ける。連れらしき人物は見当たらず一人でここに来ているようだ。見慣れぬ制服。どこの誰だろう。周は運命的なものを感じ、彼女の方からしか見えない位置に移動し、気付かれるまでじっと凝視した。

 絶対気付いている。自惚れではなく確信だった。腰掛けた美少女の体は此方(こちら)を向いている。目は手にした本に注がれている。伏し目も、睫毛が長くくっきりとしているので魅力的だった。周は長身の体を真っ直ぐ彼女の方に向け、強い意思をもった視線を送り続けた。

 一瞬、彼女の口元に謎めいた小さな微笑が起こったかと思うと、長い睫毛がゆっくりと、幕が上がるかのように、ぱっちりと開眼し、眸が周を捉えた。

 瞬きもせずじっと見詰め合う。十秒か、二十秒か。長い時間か短い時間か分からないが、やがて彼女は目を伏せ、白い歯が少し見えるくらいに口をあけて静かに笑った。

 以前の周だったらすぐに声を掛けただろう。そうして数々の女性を口説き落としてきたのだ。だが、この時目にした美少女には、そうした行為が彼女を冒涜するに値するとさえ思わせる気高さ、気品があった。そしてそれにも増して、周には予感があった。彼女の方からアプローチして来る。長年の経験と勘。いかに清楚で高貴な羽衣を纏っていようとも、あの黒く輝く瞳の奥、深淵にある本性にどこか小悪魔的な性質が宿っている。それが今周を値踏みしているのだ。

 周は手にした本に視線を落とし、視野の片隅で美少女の動きを観察した。案の定、彼女は徐に本を閉じ立ち上がったかと思うと、大胆にも周のいる本棚まで近寄り、周の脇をわざとらしくゆっくりと通過して、元の場所に本を返したのだった。

 脇を通過する際、仄かに漂ってきた香り。既成の化粧品でもなければ、子供の頃嗅いだ母親の石鹸のような匂いでもなく、心を落ち着かせるハーブのような香りが、成熟途中の少女がもつ彼女自身の甘酸っぱい体臭とブレンドして、周の嗅覚、ひいては脳まで刺激した。

 金縛りにかかったかのように立ち尽くす周を尻目に、彼女はそのまま退室した。我に返った周がようやく後を追うことに気付いて彼女を探したが、もう後の祭りだった。図書館から彼女の姿は消えていた。思い直して彼女が返した本を探す。残り香を頼りに、まるで蝶が蜜を求めて花を漁るかのように、周は本を探した。それはちょっとわざとらしく背表紙が他の本より手前に突出していた。

(『アンナ・カレーニナ』か)

 トルストイの長編の下巻だった。手に取る。ぱらっと捲ろうとすると真ん中あたりで本が開いた。差し挟まれた一片の紙。そしてそこに書かれた言葉。

(きっと気付くと思ったわ)

 紙は図書館においてあった利用者登録用の用紙。その裏に、丸い、それでいて今風の女子高生が書くような絵文字でもない、ワープロのゴシック体のような文字で、一行だけ。筆圧に強弱は見られず、冷静に淡々と書いたのだろうか。周は、藤色の制服を着た彼女が周にあてて書いたものと確信した。

 思わせ振りなメッセージ。あの清楚かつ優雅な振る舞いの中に秘められた魅惑的な眼差し。

 周は次の日も朝早くから図書館を訪れた。だが、そこには前日よりその数を増した男子高校生がひしめき合い、ふだん姿を見せないような輩まで集っていただけで、お目当ての白雪姫の姿はなかった。昨日姿を見せた昼下がりになっても、そして五時の閉館間際になっても、姿を現すことはなかった。遅くまで彼女のために図書館に居残っていた者たちの失望は計り知れない。たった一日の出現でその場の殆どすべての男たちの心を掴んで放さなかった存在感。それはその後何日も、ただ一日の妖精に会えるかもという淡い願望のため多くの男達が図書館へ通い続けたことからも見受けられる。勿論その中に周もいた。結局その春休み、彼女が再び姿を現すことはなかった。

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