数学演習上位十傑
校舎ロビーに集計された結果、上位十傑が貼り出されていた。静かなどよめきが伝わってくるのが分かる。周の頭には、過去の成績優秀者の名簿の常連の名が残らずインプットされていた。昨年までの結果を考慮して、このどよめきの理由が何となくわかる。黙って成り行きを見守っていたら、前にいた実習生の武原淑絵が、同じ実習生の長崎香里に解説をしているのに目が留まった。
彼女が言うには、どよめきの原因は意外な人物の登場であり、その人物とは、藤野亜由子、松山真沙美、児島純ということだった。
「ふうん、そうなんだ」と、周は二人に聞こえるように呟いた。周りにいた生徒達の視線も集まった。
「児島の一位タイがどよめきの原因の一つとは驚きだな。彼女はまだ実力の半分も出していないように感じたけれど」
周は感じたままを云った。児島純は雑談ばかりしていて決して本気ではなかった。にもかかわらず一位タイなのだ。
しかし淑絵は、児島純が何年も上位者名簿に名前を載せていない。突然浮上してきたから生徒達は驚いているのだと説明した。
そう、それが奇妙なのは事実だ。中等部二年の夏頃まではトップを争っていた児島純がそれ以降上位者名簿から落ち、今また唐突に名を連ねたのはどういうことなのか。
「児島は中等部の一年、そして二年の一学期まではすべてトップをとっていたのに、それ以降全く名簿から外れている。これはどうしてなのかな、武原先生。あなたはこちらの出身者だと聞いたが、何か心当たりがあるのじゃありませんか」
周はここぞとばかりに淑絵に質問を浴びせた。これまで話す機会すら与えられなかった実習生に初めて言葉を交わすことができたのだ。周は淑絵の美しい顔を直視し、その瞳の奥を見据えた。淑絵が戸惑いを隠せず困ったような不安そうな顔をしたため、香里の方へ顔を向けた。
すると香里は意外に気の強い面を見せ、周を直視して、「あなたは、この結果が意外ではないと言うのね。それも児島純は手を抜いて一位タイに甘んじたと」
穢れを知らない美しい目に咎められたように、周は少しトーンダウンさせた。「手加減したのは、児島だけではないよ」
普段大人しく目立たない振りをしていて、いざとなると刃物をふりかざすように攻撃的になるのだなと心のうちに呟きながら、その相手長崎香里に周は語りだした。
「この過去の上位者名簿を見る限り、いつも同じ顔ぶれが並んでいる。せいぜい一位と二位が交替するくらいの変化でしかない。何だか予め決められているみたいだ、談合みたいにね。だから普段見ない名前が突然現れるとざわめくのさ。今回の場合、児島と二年の松山、藤野。高等部合同の演習で二年生の名が三人も載ることは、しかも見慣れない名が載ることはきわめて珍しいことなのじゃないのか」
香里は黙って周に対峙しているだけだ。淑絵は目を逸らして答えたくない素振りを見せた。何か口に出せないような事情があるのか。鎌をかけて云ってみただけだが、予想以上の反応が見られた。しかしこのまま追及することは明らかに逆効果だった。すでに淑絵は口を閉ざし始めている。下手をすると今後の情報収集にも支障をきたす虞があった。
「羽鳥先生、演習の講評と反省会を行いますから一緒に来てください」
榊教官の声がかかった。邪魔が入ったと感じる一方で、淑絵を追い込まずに済んでかえって助かったとも考えられた。
探りを入れるためにいろいろと口を利くのも良し悪しがある。今回は少し調子に乗りすぎたようだ。周は彼女らから目を逸らし、反省会の場へ足を向けた。
反省会は、榊教官が司会の形で進められた。周は黙っておとなしくしていた。
採点、指導に時間が掛かりすぎるので、無駄なやりとりはなるべく無くしていくことを確認しあった。生徒達が物珍しさから周のところに集中した点が取り上げられたが、周の採点指導が短時間で的確に行われていたと高雅教官が発言してくれたので、周に注意が及ぶことはなかった。さすがに真面目な教官である。
成績優秀者の顔ぶれに予想外の展開があったと生徒達が騒いでいたと矢野悠子が発言した。彼女は単に自分が連れてきた松山真沙美を自慢したかっただけなのだろうが、新参者で空気の読めない彼女の一言は、周にとっては願ってもない展開を齎した。
「児島純はあのくらいできる子です。あれでもまだ本気をだしていないくらいです」と云ったのは、やはり高雅茉莉恵だった。
周は教官たちの個人情報について把握してはいなかったが、昨日今日の教官たち、生徒たちのいくつかの発言を、パズルのピースを埋め合わせるようにして推測することで、彼女らの情報を徐々に整理し把握していった。高雅教官は、以前この本校に勤務しており、昔の児島純を知っている。二年のブランクを経て今年本校に帰ってきた。などということが分かった。
「そうですね、彼女はいつも六位ですから。おそらく計算してわざとぎりぎり名簿に載らない六位に調節しているのでしょう」
と榊教官が冷静に意見を述べた。
「へえ、学年六位なのですか、どうしてA組一班にならないのですか?」
再び矢野悠子が疑問を口にする。思ったことがどうしても口をついて出てしまうのだろうが、周にとっては自分の疑問を代弁してくれて非常に助かる思いだった。
「クラス編成は、編成会議の結果の反映です」
榊教官が説明し、矢野悠子がさらに質問するというのを繰り返して、おぼろげながら事情が判明してきた。クラス編成会議というのは、教頭、教務主任、一年生から三年生までの二つのクラスの担任六名を合わせた八名の合議によってなされ、その結果を校長に承認してもらう形をとっている。児島純については前任の校長の時からどのような成績をとろうともA組には上げない方針に決められているらしい。それを現在の教頭が主張するものだから、誰も反対せず純はB組にいる状態という。
「彼女が中等部の二年の時に起こした不祥事を未だに赦してあげていないということですね」
高雅教官が、その場にいて全く発言をしないで傍観者のようになっている福岡教務主任に向かって云った。教頭以外のクラス編成会議のメンバーは全員この場に揃っているのだ。不祥事というのは、何かやらかしたのだろうか。しかしその答えは得られぬまま別なところから邪魔が入った。
「児島純は、今でも聖麗女学館の生徒に相応しくない言動が目立ちます」と、成瀬教官が福岡主任に代わって口を挟んだ。「私は昔の彼女も知りませんし、どんな不祥事を起こしたのかも知りませんが、もう少し風紀を乱さず綱紀粛正に従っていればA組でも良いのです。しかしふだんから髪を整えなかったり、ルームウェア以外の格好で寮内をうろついたりするなど、後輩達の亀鑑となる姿勢が感じられません。あの演劇部の活動にしたって図書館にない本を題材にするなど自由気儘過ぎて、他の生徒達に悪影響を及ぼしかねません」
どうやら中等部にいた頃に児島純が起こした不祥事のせいで未だにA組に上がれないということだが、その不祥事について知っているのは、ここにいるメンバーでは当時この学園にいた高雅茉莉恵、福岡真里奈、日置まどかの三人だけのようだ。クラス編成会議の際に、同じく当時在籍していた教頭の意向が反映され、成瀬ら風紀に厳しい教官が同意して、このような事態になっているようだった。
気まずい雰囲気になっていることに、さすがに矢野悠子も気づき、それ以上この件について質問することはなかった。彼女は兎に角、松山真沙美が十傑に入ったことが非常に嬉しかったようだ。
「藤野亜由子はどうなのでしょう?」
成瀬教官が、自分が担任をしている二年B組の亜由子について意見を求めた。
「彼女は私のところへは一度しか来なかったのですが、一時間以上遅れて解答を始めて最終的には十位タイでしたね」と、榊教官が答えた。
「答案作成時、いつものようにじっと観察しておりましたが、何も不正らしきものを行っている様子は見つかりませんでした」
と、成瀬は語った。
あれは不正ではないだろう。自分で解いているのだ。何をそれほど問題にするのか、周には理解できない。
「藤野亜由子は羽鳥実習生のところへよく通っていましたね」と、榊教官が周の方を見るので、全員の視線が周に集まった。
「確かにぼくのところへ何度も答案を持ってきました。それも驚くようなスピードで」
「誰かの答案を見た、あるいは写した様子はなかったのですね?」
「それは無いでしょう。そんな時間の方がないくらいです。あれは問題を見て殆ど即座に解答しているのです。本人に聞くと、すべて知っている問題ばかりで、頭の中の解答をそのまま解答用紙の上に再現するだけだ、というようなことを言っていましたね。ぼくが見た限りでは、この学園全体で最も数学ができるのは彼女です。ただ彼女の本当の力を見るために、知らない問題を解かせてみたいというのが本音ですが」
教官たちは黙った。
藤野亜由子については、おそらく一度みた問題はすべて頭に入っているのだろう。そういう能力があるに違いない。その彼女があらゆる問題集を経験してしまえば、この学園で彼女の右に出るものはない。ある意味おそろしい能力だったが、こういうのを数学ができると表現してよいのか、周にもわからなかった。そして、亜由子がよくできることを教官たちは必ずしも歓迎していないことは明らかではあったが、なぜ亜由子が優秀な成績をあげることが問題なのか、それも現時点では謎だった。
「それでは、各学年五人の落伍者ですが、ここにある名簿の通りになりますが、確認していただけますか」と榊教官が云った。
化学の上原友紀教官が手を挙げる。「一年A組の中田亜里紗が入っているのですが」
上原が担任しているクラスの生徒が一年生の下位五名の中にいることが不満のようだった。
「何か体調でも悪かったのでしょうか」と心配している。
「彼女も羽鳥実習生のところへ通った一人ですね」と、高雅教官がまたも羽鳥を見た。
「藤野亜由子といい、児島純といい、問題児に人気があるのですね」と、成瀬教官が辛辣な視線を送った。冗談ではなく、大真面目の顔だ。
中田亜里紗は、体調が悪かったわけでも、問題が解けなったわけでもない。ただ周と話がしたくてわざと間違えて何度も足を運んだだけだった。しかしそれをここで云うと、亜里紗に何か悪評がたって児島純のように不良品のレッテルが貼られることを危惧し、周は何気なく、「たまたまできないこともあるでしょう。問題に全然歯が立たなかったわけではなく、少しケアレスミスが多くて、脱線するところが目立ったものですから、何度かやり直してもらうことになったのです」ということにして誤魔化した。
「では彼女も含めて、三学年五名ずつの十五名に明日までの課題を課すことにします。提出期限は明日の放課後。指導は採点室で採点官八名であたることにします」
榊教官がそう締めくくった。




