教育実習生
「羽鳥君」と呼ぶ年配の男性の声に、周は畏まって立ち上がった。軽井沢駅近くの喫煙所で煙草を吹かしていた羽鳥周は、備え付けの灰皿で煙草の火を消した。これからしばらくは禁煙が続く。ニコチンガムを用意してくるほどの意気込みだったが、名残惜しく灰皿を見遣った。
迎えに来たのは、頭頂部から後頭部にかけてすっかり禿げ上がり、つやのある頭皮に、側頭部には銀髪をそなえた、一見上品そうな男だった。細い目、のっぺりした感じの土台に大きな鷲鼻がどんと腰を据えているといった感じだ。年は六十前か。かねてから情報を得ていた周は、その男が聖麗女学館長野本校でただ一人の男性教師安達秀治であることを悟った。
「ごくろうさま、入校許可証は忘れてないだろうね」
安達の声は、低く、ゆっくりと、そして丁寧だった。しかし、一方でどことなく相手を威圧するような雰囲気を漂わせている。周は経験的に丁寧な語り方ほど強制力を秘めていることを知っていたので、「はい」と、挨拶もそこそこに質問に応えた。
「許可証がないと、入れないからのう。なにせ原則男子禁制の、女の園だから」
安達の細い目が笑ったかどうか判然とはしなかったが、口元が少しほころび、にんまり微笑したかのように受け取れた。
この春から東都大学の三年生になる羽鳥周は、教員免許取得のための教育実習を受ける年になっていた。その実習先を聖麗女学館に選んだところ、周囲の予想に反して許可が下り、その条件として春休みの研修に参加せよとの、学校側からの指示があった。普通では考えられないことで周囲は驚きの目でもって周を見たものだが、周にはどうしても聖麗女学館本校に入らなければならない理由があったのだ。そのために春休みを二週間くらい犠牲にすることなど何の造作もないことだった。
春の本校研修には、新任教師のみならず、その年教育実習を受ける学生も参加が義務付けられていた。全員が合宿のように本校敷地内の研修施設に宿泊することになっているが、何分にも女の園。男性である羽鳥周は毎日の通いを余儀なくさせられた。
周だけが、駅近くにある「聖麗の会」所有の宿泊施設に泊まり、そこから毎日安達の車で本校に通うことになったのだ。駅から本校までは車でも一時間以上かかる。毎日大変な通勤だ。
安達は、周の入校許可証を確認した。写真付きのちょっとした身分証明書で、ICカードの形態であり、表には氏名とふりかな、年齢に所属が表記され、裏面にはさらに個人情報として生年月日と現住所、携帯電話番号などが記載されている。
職員も同じものを持っているようで、安達は「聖麗女学館 教官 安達秀治 五十九歳 社会科教諭」と印字されていた。定年間近の社会科教師であるわけだが、ちょっと見るだけではもっと老けて見える。話し方も、丁寧な分、大邸宅の執事を思わせるようなタイプだった。
「まずは宿泊所の方に案内するとするかの」
安達は、開いているのか定かでない目でしっかりと周を見据えてつぶやくように言った。
聖麗の会の宿泊所は、教団の大会を行うホールと同じ敷地にあった。ただし高く頑丈な塀で仕切られているために宿泊所からホールの方は窺えない。この宿泊所は本来教団の男性信者が利用するところらしい。女性の地位が高い聖麗の会では、すべてが女性優先で、男性信者が参加できない施設も多かった。聖麗女学館長野本校もそうで、敷地内には原則として男性は入れず、従って男性の寮や宿泊施設はなかった。
ロビーで待っている、と安達がいうので、周はひとり部屋を訪れた。ビジネスホテルのシングルといった感じの室内は殺風景ではあるが、バス、トイレをはじめ机やクローゼットまで一応備え付けられてあった。照明がホテルより明るいのがせめてもの救いだった。これなら本を読んだり書き物もできる。一応教育実習生の身分なのだから、勉強も必要だった。
安達がロビーで待機しているため、周は持ち込んだ荷物を適当に収納すると、女学館からレンタルしたスーツを着込んで、部屋をあとにした。いよいよ乗り込むことになる。周はフロアを歩いているときも、エレベーターを待っている間も、そしてエレベーターに乗り込んでからも、この四年余りのことを思い続けた。
(カーチャ……)
周は、思わずワイシャツの下に隠れたペンダントを握り締めた。