プロローグ とある少年の憧れ
「う、ああ、あああ……っ!」
情けない声を上げ、僕は地面に尻餅をついていた。
どうして、あんな事を考えてしまったのだろう。
そんな風に思いながら、僕は走馬燈のように、これまでの経緯を思い出していた。
僕は、ある人物に憧れている。
その人の名前はアレス。彼は上流貴族であり、将来を約束された身分であるにも関わらず、日々過酷な鍛錬に励み、人界最強の剣士にまでなった凄い人だ。
それに、彼は私利私欲の為でなく、ただ人々を助ける事にのみその力を振るっている。それ故に、僕を含む多くの国民から「勇者様」と呼ばれ、尊敬されているのだ。
勇者アレス様の事を知ったその日から、僕もそんな大人になりたいと思い、日々剣術の鍛錬に邁進している。
そんな折、僕の住む村のはずれに、強暴な魔物が出没するようになったという噂が立ち始めた。僕は物騒だなと思う反面、不謹慎ながら、これは絶好の機会だとも思ってしまった。
自分で言うのもなんだが、日々の鍛錬のおかげで僕はそこそこ強い。
そんな僕なら、魔物の一匹や二匹、倒せる筈だ。アレス様のように、人々を守るため自らの力を役立たせる事が、きっと出来る……!
そう思って、僕は大人には内緒で村のはずれに向かった。この力で魔物を殺してやろうと意気込んで。
しかし、結果はこのザマだ。いざ一人きりで魔物を目の前にすると、足が竦んでいつも通りの動きが出来ない。その隙を突かれて攻撃を受け、僕は傷を負ってしまった。
もう逃げる事すら出来ず、絶体絶命の状態。
なんて無様。あまりの情けなさに、涙が出そうになる。
ああ、でも泣くもんか。こんな滑稽な死にざまを曝してしまうとは言え、それでも僕は、アレス様に憧れた身。
ならばそれに恥じぬよう、死の間際まで高潔であれ。せめて潔く、この命を散らそう。
そう覚悟を決めた僕は、抵抗を止め、静かに死を待った。
しかし。
とどめを刺そうとする魔物の一撃が目前に迫った瞬間、そんな覚悟は吹き飛んでしまった。
押し殺そうとした恐怖が再び僕の心身を支配し、これ以上無様を曝すまいとした決意を鈍らせたのだ。
――嫌だ、死にたくない。
僕は、勇者アレス様に憧れて、ずっと鍛錬に邁進してきた。
毎日、毎日、毎日毎日毎日……っ!
その成果すら発揮できず、ここで死ぬのか? ただ一度の軽率な判断で、今までの人生すべてが、台無しになってしまうのか?
嫌だ。そんなの耐えられない。
そう思ったら、もう無理だった。僕の口から、みっともなく言葉が漏れる。
「……助け、て……誰か、助けて……っ!」
無様でもいい。情けなくたって構わない。
それでも僕は、死を拒絶し、叫ぶ。
「助けて、アレス様――――!」
刹那、魔物の首が吹き飛んだ。
一振りの刃が、一瞬にして魔物の首を刈り取ったのである。
芸術とすら見紛うほどの、美しく、洗練された、しかし一片の遊びもない一閃。
それを放った男は、こちらに振り向き、言った。
「無事か? 少年」
誰もが見惚れるような端整な顔立ち。最上質の魔力を持つ者の証たる純金色の髪。鍛え抜かれた逞しい体躯。この人を、見間違える筈がない。
彼こそ、自らの力をただ人々の為にのみ振るう、人界最強の剣士。
僕の憧れ――勇者アレス様本人だった。
「はい、大丈夫です……その、ありがとうございます……」
あまりの事に呆気に取られながらも、僕は反射的に答える。
すると、アレス様は優しい声で言葉を返してきた。
「魔物に襲われている人間がいたら、助けるのは当然だ。礼を言う必要などない。
しかし少年、怪我をしているな。深いものではないにしても、放っておくのはあまり良くない。どれ、見せてみろ。俺が応急処置をしよう」
そう言って、アレス様は僕の怪我の手当をし始めた。
僕は夢を見ているのだろうか。あのアレス様が、僕を助けてくれたばかりか、怪我の手当までしてくれている。
だが、夢だろうと現実だろうと、今の僕が夢見心地なのは否定できない。何故なら、アレス様が魔物を一刀にて葬ったあの瞬間が、僕の頭の中にずっと貼り付いて離れないのだ。
僕自身、剣術を習っている身だからわかる。アレス様のあの剣技は、秘奥中の秘奥だ。あれほどの技を習得するのに、一体どれほどの鍛錬を積み重ねたのだろうか。
「やっぱりすごいですね……アレス様は。あんな恐ろしい魔物を瞬時に屠ることができるなんて……」
そんな風に、つい思っている事が口を衝いて出てしまった。
それに対し、アレス様は、僕の手当をしながら答える。
「そうか? だが、体付きを見るに、君だってかなりの鍛錬を積んでいるように見受けられる。きっと将来は強い剣士になれるだろう」
「僕なんて全然です。今日だって、魔物を倒そうとして、結果このザマなんですから」
「君はまだ子供なんだから、焦る必要など皆無だ。日々鍛錬に励んでいれば、自ずと強くなれる。そういうものさ。
ただし、今日のような危険な事は、大人になるまでしない方がいい」
他の人が言うと、ただの綺麗事にしか聞こえないような言葉。
しかし、アレス様が言うと、どこか安心できるような気がした。
それでも僕は、尚も尋ねる。
「本当に、僕は強くなれるんでしょうか……?」
「ああ。努力は人を裏切らないからな」
アレス様は、そう言って笑った。
その顔に、ほんの少し翳りが見えた気もしたが、多分気のせいだろう。
それにしても、こうして実際に会ってみると、噂に聞いていた以上に凄い人だ。
強くて、優しくて、まさに理想の人間そのもの。
ああ、こんな大人になりたいな……。
アレス様の手当を受けながら、僕は改めてそう思った。
◇◇◇
その後、僕はアレス様に村まで送ってもらった。
もちろん、両親や村の大人達には酷く怒られた。当然だろう。自分の力を過信して、内緒で魔物討伐に出掛けたのだから。
しかし、反省している反面、行って良かったと思う気持ちも、否定は出来ない。
何せ、あのアレス様と実際に会って話す事が出来たのだから。
――君はまだ子供なんだから、焦る必要はない。日々鍛錬に励んでいれば、自ずと強くなれる。
アレス様の言葉に、僕は勇気をもらう事ができた。本当に、良い経験になったと思う。
今回のような無茶はせず、今は一歩一歩着実に力を付けていこう。
アレス様の言葉が胸の内にあるなら、きっと今まで以上に、鍛錬も頑張る事が出来る筈だ。
僕は、心からそう思ったのであった。