花と守り人
姉の漆黒の髪を、一つの三つ編みに編むのは、毎朝の僕の役目だった。
姉は猫っ毛で、気を抜くと髪がさらさらと指の間から滑り落ちる。
だから僕は髪の毛を逃さぬよう慎重に、そして丁寧な手つきで編んでいった。
鏡台の前に正座する姉はいつも僕の手を待っている。神妙に。
その厳かな様子はどこか巫女さんみたいだ。
鏡台を覆う、赤に鶴の日本刺繍が施された布は、後ろにめくられている。
実際、姉は、どこか浮世離れしたところのある人だった。
唇にはいつも笑みをふんわりと漂わせ、目は透き通ってこの世界の隅々まで見通すようだった。
僕が髪を編み終わると、姉は決まって鏡台の前でくるりと回って見せ、そうするとセーラー服の裾がひらりと浮いた。
姉の存在も学校では浮いているのではないかと僕は心配したが、それは取り越し苦労のようで、姉は時々、囀るような声で、その日学校であった出来事を楽しそうに語って聴かせた。
花咲くような少女の姉。
そして僕は花の守り人。
いつしか、そんな風に思うようになっていた。
ある日の秋の夕方。秋は暮れる日の、美しい季節だ。
姉が縁側に座り込み、俯いて肩を震わせていた。セーラー服を着替えもせず。
僕が呼びかけると、姉は静かに白い面を上げた。
白い面は白露に濡れていた。
失恋したのだと言う。
失恋したのだと言う。
それを聴いた瞬間、僕の中で何か赤黒い感情が爆発的に湧き起こり、どよめいた。
理不尽だ。
僕は僕が編んで結んだ姉の髪を乱暴に解いた。
さらさら、と勢いよく流れる漆黒の滝。
潤む姉の目が大きくなった。黒髪は乱れてうねった。そのまま、乱暴に掻き乱してしまいたかった。僕は無性に、姉を傷つけたい衝動に駆られていた。傷ついた姉に、追い打ちをかけるような真似を。
姉の顔がいよいよ悲しそうに歪む。
だから僕に出来たことはそこまでだった。
庭には季節外れの竜胆が咲いていた。
悲しんでいる君が好き。
そんな花言葉を持つ青紫が、微風に揺れている。違う。僕は悲しんでいる姉が好きな訳じゃない。
笑っていて欲しい。小鳥のような声で語り、楽しげに澄んだ瞳でいて欲しい。
適うことなら、僕の為に。
僕は髪を乱した償いのように、姉の頬の白露を拭った。拭ったそれを、ぺろりと舐めた。白露は思った通り、海の味がした。そして血の味がした。噛み締めていた僕の唇から流れた血だ。
無邪気で汚れを知らないような姉が、翳りを帯びた微笑を浮かべた。それは歳経た女性の笑みだった。何かを諦め、悟っている表情。
姉は知っているのだ。何もかも。そして望みながらも身を引いている。
誰の為に? 僕の為に? 自分の為に? 両親の為に? ――――世界の為に?
「姉さん」
姉の手が僕の唇に伸びて、ついとなぞると、指についた赤を舐めた。丁度、僕が姉の白露にそうしたように。白露と血の対価は等しいだろうか。
「忘れないわ。私。だから貴方も、きっと忘れないでちょうだいね」
何をとは、姉は言わなかった。暗黙の内に、僕は了承した。
花の守り人が領分を侵し、花を乱したこの秋の日は、僕と姉にとって水面を揺らす一滴となった。一滴により水面は揺れ、波紋を広げ、そしてまた静まった。
やがて時が経ち、僕も姉も大人になった。
そして僕の花は、寄り添う相手を見つけた。
姉の白無垢姿を父と母が感涙頻りに褒め称えるのを、僕は少し離れたところから見ていた。
紅の差された姉の唇は真紅で、別人のようだった。姉が僕を見る瞳は深く、綺麗な湖みたいだった。その底に、何が潜むか誰も知らない。僕以外は。
僕が微笑むと、姉も微笑んだ。共犯者の笑みで。
姉は花。
そして僕は花の守り人。
この関係は生涯変わることはない。