共同作業 Ⅲ
それから絵里花は、黙々とただひたすらに古文書を整理し、解読を進めた。毎日、朝早くに出勤し、夜は遅くまで残って作業に没頭した。
まるでそれが、彼女の存在意義でもあるかのように。そこには〝信念〟が宿っていた。
史明もそんな絵里花を見ていると、『諦める』なんて言えなくなる。絵里花に触発され励まされるように、研究に向き合い、のめり込み始める。
そして、やがて史明は、どうにかしてそれを一つの〝成果〟として結実させたいと思うようになった。
それでも、史明のこの研究は、本業とする仕事ではない。限られた職員の中で史料館を運営していくために、〝研究員〟とはいえ学芸員としての仕事もこなしていかなければならなかった。秋の特別展に向けての準備も同時に行わねばならず、展示資料の収集のために出張することも度々だった。
そんな時は、絵里花は独りで作業に励んだ。
寂しさもあるけれど、史明がいなくて少しだけホッとしていた。
あの言い合いをしてしまった日から、以前とはまた違った意味で関係がギクシャクして、会話という会話が成り立たなかった。一緒にいられるかけがえのない時間なのに、二人きりでいるのが居心地悪かった。
この作業を成し遂げたからといって、史明が絵里花の想いに気づいてくれて、同じ想いを返してくれるわけではない。想いが通じるどころか、史明の研究が評価されれば、彼は絵里花から遠く離れた場所に行ってしまう……。
それでも……、〝見た目〟くらいしか自慢することがなかったこんな自分でも、史明のために役に立てていることが嬉しかった。
古文書に書かれた崩し字をこうやって一字一字解読した女のことを、史明は遠くに行っても覚えていてくれるかもしれない……。
そんなことを思ってると心が乱れて、自分を制御できなくなる。鉛筆を動かす手は止まり、何も手に付かなくなる。
切なくて切なくて、苦しくてたまらない。たまらず絵里花は、目から涙を溢れさせた。涙は頬を伝い、ポタリと落ちて手元にあった古文書に染み込んでいった。
「……岩城さんに、叱られちゃう……」
ポツリとつぶやいて頬を拭ったけれど、一度堰を切った涙はそう簡単に止められなかった。
こんなにも苦しいのならば、いっそのこと打ち明けてみようかとも思う。でも、絵里花はすぐに、その衝動を押し留めた。
意識のすべてを研究のことで埋め尽くされている史明に打ち明けても、拒絶されるのは目に見えている。
きっと戸惑わせて、困らせる。研究に専念しなければならない史明の支障になりこそすれ、喜びは与えない。それどころか、研究という行為の中に恋愛感情を持ち込むなんて、史明は軽蔑してしまうかもしれない。
それならば、こんな想いを抱えて苦しむよりも、それこそ諦めたらいいのだと思う。望みのない相手に恋するよりも、ちゃんと恋人になってくれそうな人を好きになればいい……。
だけど……、そこまで思いが至ると、絵里花はいっそう涙を溢れさせた。
こんなにも、史明のことが好きになっていたなんで、絵里花自身も気づいていなかった。
この想いを自分から切り離してしまうことを考えただけで、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
……だから、こうやって古文書を読むことは、絵里花の想いの証だった。
だから絵里花は、外界の音もしない日の光も射さない、完全空調されたこの閉ざされた空間の中で、たった一人地道な作業を黙々と繰り返した。