チャンス
いつもと同じように、静かな収蔵庫の中で、鉛筆を滑らせる音と和紙の擦れるが響く。たまに古文書で解読できない字があったときや、表題の付け方に迷ったときに、絵里花の方から声をかけるくらい。
一つひとつ古文書を開いて、その整理に没頭する史明の意識の中に絵里花の存在はない。でも、絵里花はそれでもよかった。
無精ヒゲに縁取られた史明の形の良い唇。鉛筆を握る思いのほか綺麗な指。それを見つめていられるだけで、絵里花の胸はドキドキしてくる。こうやって史明と同じ場所にいて同じことができるだけで、絵里花の心は満たされた。
そんな、いつもと変わらない午後のことだった。
「やあ、頑張ってるかな?」
と、ふいに館長が収蔵庫へと現れた。
思いがけないことに、絵里花の中に充満していた眠気が一気に覚める。しかし、用事があったのは絵里花にではなく、史明の方だった。
席を外して隅の方へ行って、二人きりで話をするのを、絵里花は知らず知らのうちに聞き耳を立てていた。
「今度、国立の古文書館の中世史の方に空きができたらしくてね。君のことを推薦しておいたんだ。それで、君の実力を見たいから、もちろん君の論文も出してほしいんだけど、この秋の学会で発表したらどうかと言ってきてるんだよ」
「いえ、せっかくですけど私は……」
そんなやりとりが聞こえてきて、絵里花は息を呑んだ。
国立の古文書館ならば、歴史研究をするうえでこの上ない場所だ。この史料館のように、自分の分野外の仕事に煩わされることなく、研究に専念できる。それは史明にとって、またとないチャンスに違いなかった。
「……どうして、国立の古文書館の話、断ったりしたんですか?」
作業の途中で、どうしても気になってしまった絵里花は、思い切って史明に尋ねてみる。
史明は不意を突かれたように顔をあげた。そして、普段は見せない不安定な感情をその表情ににじませて言いよどみ、ようやく口を開いた。
「……学会はダメなんだ。大勢の前でプレゼンなんて、アガってしまって、手は震えるし喋ることさえままならない。失敗することは、目に見えてるよ」
それは、研究者としての史明のコンプレックスでもあり、切実な問題でもあった。
史明のやるせない表情を見て、絵里花の胸がキュンと切なく痛んだ。自分の能力は、とうてい史明の足元にも及ばないけれど、どうにかしてこの史明の力になりたいと思った。
「……そうだ。岩城さん。この史料……」
と言いながら、絵里花は自分の作った目録をチェックして、それから整理し終えて納められている古文書をいくつかテーブルの上まで持ってきた。
「この前、岩城さんが出張だった日に整理したものなんですけど……、これ、戦国時代の楢崎氏のものじゃないですか?」
「……え!?」
史明が目の色を変えて、その古文書を手にとって確かめてみる。そして、それを走り読みし、そこに書いてあることが明らかになるにつれ、史明は顔色まで変えた。
「望月さん!これは、とんでもない大発見だよ!戦国でもこの時期の楢崎氏の古文書はほとんど残ってないんだ。今すぐ、館長にも報告して、マスコミにも……」
と、史明が興奮しながらそう言いかけたところで、
「ダメです!マスコミなんかに発表しちゃ!館長や副館長はもちろん、誰にも言っちゃダメです!!」
と、絵里花が強い口調で史明を制止した。
史明はその表情の上に訝しさを加えて、絵里花を凝視した。
「……なに、訳の分からないことを言ってるんだ?」
史明は、とてもピュアな心の持ち主。とても真摯に研究に向き合うひたむきな人。だからこそなのかもしれないが、世渡りに関しては下手だと言わざるを得なかった。
だからこそ、そんな部分は絵里花がフォローしてあげなければ。そう思って、絵里花は大胆なことを持ちかけた。
「この史料を調べて分かったことをまとめて、さっき館長が言ってた学会で発表するんです」
真面目な顔をして史明に迫る絵里花を、史明は呆れた顔をして見つめ返した。
「なに、バカなことを言ってるんだ?そんなこと……」
「だったら、私に発表させてください。私でも、地方の小さな研究会くらいだったら、発表させてくれますから。だけどこの文書は、中央の大きな学会で発表すべき価値のあるものじゃないんですか?」
絵里花にそう言われて、史明は少し気色ばんで考え込んだ。
「……だけど、俺は〝あがり症〟で、学会で発表なんかできっこないって言っただろう?」
やっぱり史明は首を横に振って、ため息をついた。
「大丈夫。それは、私に秘策があります。私も手伝いますから、チャレンジしてみましょう」
絵里花の説得にも、史明はその表情に不安を漂わせていたが、しばらく考え込んでからようやく首を縦に振ってくれた。