雨
ぽつぽつと降り出した雨は、地面に染みをつくり、市松模様を一瞬描きだし、直ぐに色の濃い部分が繋がりあい地面の色が濃くなると、無数の波紋が描きだされた。
しばらくその光景をなんとなく眺めていた。もしかすると、眺めるという行為ではなく、焦点をそこにあわせていただけかもしれない。
とりとめもない事を考えつつ、煙草を1本取出しライターで火を着けた。
最初の一口を大きく吸い込み、全てのわだかまりを吐き出す勢いで煙を解放する。
煙草の煙が真っ直ぐ上にのびていく。
その煙を眺めて、妄想の世界から現実を見ようと試み始めたが、目の前の何も表示していないディスプレイを前に、現実を遠ざけようとする力が働いた。
ふと、人生の絶頂期が脳裏によみがえってくる。
銀座でばか騒ぎした夜、世界の中心にいる様に感じた。いや、あの頃は実際に、世界の中心だった。
眠ったディスプレイを起こすため、マウスを少し動かした。何度目の行為だろう。今度数えてみるかと本気で考えつつ、
そこに状況の変化を期待したが、相変わらず、真っ白な画面が現れた。当然のことだ。
いつのころからか、何も書けなくなった。締切が迫っているが、常習化してしまいもう感覚が麻痺している。ついてくれた編集者も半ばあきらめている。
周りから、注目を浴び、注目を心地よく感じながら、同時に畏怖さえ感じていた。
注目を浴び続けるために、仕事を取り続けた。どんな小さな記事も書いた。
書くことが面白く、編集者のどんなに無茶な要求でも、スケジュールが厳しくても、まったくつらくなかった。あの頃は勢いがあった。その勢いは、世間の注目を集め話題となった。話題はファン獲得に貢献し、ファンは挙って本を買ってくれた。売上が上がったことで執筆の依頼が集まった。
好循環が生まれ、2年も立たないうちに売れっ子作家の仲間入りを果たした。
煙草の煙が波打ち始め、それまで、室内に流れこまなかった風が時より入り込み、身体の熱を奪い取っていく。最初は心地よさを感じていたが肌寒さを感じ、窓辺に近づき窓に手をかけた。
ふと、窓の外に眼を向けると、赤い傘をさし通りをこちらへ向かってくる人の姿があった。
傘の下は見えず、子供なのか大人なのか、男なのか女なのかわからない。
赤い傘をさしている点から、若い女であることは想像に難しくない。
風が雨水を巻いて吹き込んでくる。さっきとは打って変わって寒気が身に染みる。
急いで窓を閉めてしまい窓は勢いよくレールの上を滑った。不意に大きな音が出てしまった。
窓の下で、赤い傘が動いた。
それは、小さな花弁が春風に乗ってゆっくりと舞う動きに似ていた。儚く、そして美しい。
赤い傘の影から覗いた顔は、少し驚いた表情の中に、大きな潤んだ瞳が印象的な少女だった。
少女というには、年齢を重ねているが、女性というには、幼さを残している。
大きく見開いた瞳が真っ直ぐこちらに向けられた時、
風が頬を撫で、髪を揺らせて通り抜けるのを感じた。それは、春の清々しい乾いた風に似て、どこか心に期待感を懐かせる。
感じられる風は次第に強くなり、同時に存在感が希薄になる。
意識は、その風の吹いて来る場所を向いていた。その場所に親近感を感じ始めていた。
手が、腕が、足が、体が透けて行くのを見つめていた。
なぜか冷静でいられた。これが死ではないことを知っていたからなのかわからない。
直観で悪いことではないとただ解るのだ。
全てが無くなり、意識までも風に乗って飛ばされた。ここではないどこかへ。
部屋に残った真っ白なPCの画面が、再び眠りについた。もう、起こそうとするものはここにはいない。
少女は、何事も無かったかの様に傘をさし、雨の中を歩き始めた。
傘の影で少女は、薄く笑みを浮かべた。